エピソード29、準備条件B──船という存在
主体の話は、結論が出ないまま終わった。
正確に言えば、「終わらせた」という感じだった。
誰も「次に進もう」とは言わなかったが、誰も「もう一度同じ話をしよう」とも言わなかった。
そのまま、時間だけが進んだ。
ブリッジには、それぞれの居場所に戻った三人と、一つのAIがいる。
海斗は工具箱を抱えて、通路と機関区画を行ったり来たりしていた。
ココは操縦席で、意味のない微調整を繰り返している。
戸来は──特に何もせず、航路表示を眺めていた。
《準備条件Bに進みます》
ミナトの声が、唐突に割り込んだ。
「え、今?」
海斗が工具箱を床に置きながら振り返る。
《今が最適です》
「最適って……」
ココが半分ため息混じりに言う。
「人間の気分は?」
《考慮していません》
「でしょうね」
ホログラムに、〈ホシノナギサ〉の船体図が表示される。
外殻、骨組み、配管、配線。
見慣れたはずの自分たちの船。
《準備条件B》
《船体情報の整合性》
戸来が眉をひそめる。
「整合性、って……」
「壊れてるかどうか、って話?」
海斗が聞く。
《いいえ》
《“壊れた時に、どう壊れるか”の話です》
一瞬、誰も言葉を出せなかった。
「……嫌な言い方だな」
戸来が呟く。
ミナトは、構わず続ける。
《ブルーショアⅢは“こちら側の物理法則”に適合したまま、重なりに接触しました》
ホログラムに、幽霊船の簡易モデルが重なる。
船体の一部が、黒く欠けていく様子が再現された。
《結果──外殻と内部構造の整合が崩壊》
《船体は“壊れ続ける状態”に固定されました》
海斗が、喉を鳴らす。
「……じゃあ、ナギサは?」
「同じ目に遭うってことっすか」
《現状ではその可能性が高いです》
「さらっと言うなぁ……」
海斗は苦笑したが、笑い切れなかった。
ココが、腕を組む。
「じゃあ、どうすればいいの。“壊れない船”なんて、存在しない」
《壊れない必要はありません》
《“壊れ方を揃える”必要があります》
「……壊れ方を、揃える?」
戸来が復唱する。
《はい》
《船体の各要素が、同じタイミングで同じ方向へ変化するように》
「それって……」
海斗がゆっくり言う。
「人間で言うと……」
「バラバラに転ぶんじゃなくて」
ココが言葉を継ぐ。
「全員で同時に、同じ方向に倒れる、みたいな?」
「ムカデ競走っすか」
《適切な比喩です》
戸来は、船体図をじっと見ていた。
「……そんなこと、できるのか」
《可能性はあります》
《ただし》
「ただし?」
《〈ホシノナギサ〉は“普通の船”として作られています》
沈黙。
それは、当たり前の事実だった。
だからこそ、重かった。
「……つまり」
戸来が言う。
「この船を、“普通じゃない状態”にする必要がある」
《はい》
海斗が、思わず声を上げる。
「いやいやいや。それ、改造とかそういう話になりますよね!? 俺、そんな資格……」
「落ち着きなさい」
ココが手を振る。
「物理的な改造とは限らないわ」
《その通りです》
ミナトが応じる。
《重要なのは“情報の持ち方”です》
「情報?」
戸来が首を傾げる。
《船体各部の状態情報》
《応力》
《歪み》
《損傷予測》
《それらを──》
一拍置いて、ミナトは言った。
《全て、共有させます》
海斗が目を丸くする。
「共有……って、船の全部が、全部を知るってことっすか?」
《はい》
《通常は、冗長すぎて非効率な設計です》
「でも」
ココが理解したように言う。
「“同時に壊れる”ためには、必要」
《はい》
戸来は、ゆっくり息を吐いた。
「……船に覚悟を持たせるってことか」
ミナトは否定しなかった。
《その表現は誤りではありません》
海斗が、ぽつりと言った。
「なんか……船が、俺らみたいっすね」
「どういう意味?」
ココが聞く。
「知らないまま突っ込んだら、バラバラになるけど。全部分かってたら……壊れるにしても、一緒、みたいな」
誰も、笑わなかった。
戸来は、操縦席の背に手を置いた。
「……ナギサ」
小さく、船に話しかけるように呟く。
(お前を、そんな目に遭わせていいのか)
答えは、ない。
だが、避けて通れる話でもなかった。
《準備条件B──未達》
ミナトの声が、静かに告げる。
《しかし調整は可能です》
戸来は、顔を上げた。
「どれくらい時間がかかる?」
《人間側の判断次第です》
それは、逃げ道のない言い方だった。
主体を決めること。
船の在り方を変えること。
どちらも、「覚悟」を要求している。
戸来は、ブリッジの空気を感じた。
まだ誰も、逃げる気はなかった。
それだけは、確かだった。




