エピソード3、火星航路、デブリとの邂逅。
宇宙は静かだなんて、誰が言い出したんだろう。
きっと耳がいい奴じゃない。耳の奥で血が軋む音も、酸素循環の低い唸りも、隣の寝袋が擦れる音も聞こえちゃいない。
静寂ってのは、音がないことじゃない。逃げ場がないことを言うんだ──戸来はそう思っていた。
火星行きの貨物船〈ホシノナギサ〉のエンジンが、腹の底をくすぐるように唸っている。
出発して三十六時間。まだ地球圏の端をなぞっている段階だ。
問題は、そこから先にある。
「地球って、思ったより青くないっすね」
隣の若い整備士・海斗が言う。二十歳そこそこ。工具よりも、まだ学校の食堂の匂いが染みついてる年頃だ。
「曇ってんだよ、どこも」
戸来はタブレットを閉じた。
雲の流れを眺めていると、妙に焦燥する。戻りたくなるような、戻れないような、そんな具合だ。
「すげーなぁ。あそこに俺の高校、あるんだぜ」
海斗が窓越しに目を細める。
「だろうな。俺のも、どっかにはあった」
「“あった”? ってことは……」
「閉校。四年前にな」
「マジっすか」
「マジだ。世の中、そういうもんだ」
そう言いながら戸来は笑った。
だがその笑いの奥で、地球を見下ろすたびに“もう無いもの”ばかり探している自分に気づく。
船長の佐渡は、相変わらずの鉄面皮でモニタを見つめていた。
カップのコーヒーが頬に赤銅色の光を反射して、半分だけ火星人みたいに見える。
「戸来、推進剤の三系統目、配分が甘い」
「了解。再調整かけてます」
「海斗、点検ログ取っとけ。これからは“手順”より“癖”で動く段階や」
「了解っす!」
海斗の声はやたら明るい。船内の酸素が少し増えた気がする。
それに比べて戸来は、酸素を減らす側の人間だ。
あの月で「行く」と決めた火星行きを、まだどこかで試している。誰に試してるでもないのに。
航行中も、昼夜の区別はない。
月時間──もっとも月時間も地球のGMT基準だが──に合わせた船内時計が唯一の「時間」だ。十二時間ごとに“仮想の夜”を設定し、照明を落とす。
海斗は寝袋の中でイヤフォンをしていた。
「なに聞いてんだ」
「地球のラジオっす。まだ届くんすね」
「電波は早いからな」
「でも、けっこうタイムラグあるっすよ。昨日の番組が今日届く感じ」
「昨日の話を今日聞いて、明日の惑星に行く──ずいぶん遠くまで来たもんだ」
「かっけぇ、それ」
「やめろ。詩人じゃねぇ」
後方から船長の声が飛ぶ。
「おい静かにせえ。無線が混線する」
この人の「混線する」はたいてい、“眠りを妨げるな”という意味だ。
翌朝。通信衛星群を抜ける頃、船体がわずかに震えた。
佐渡が一瞬で声を張る。
「海斗、後部冷却ライン確認! 戸来、推進流量、抑えろ!」
身体が勝手に動いた。訓練なんてなくても、体が覚えてる。
数秒後、揺れが収まり、静寂が戻る。
「……冷却フィルターに微小デブリ。外部カメラで確認できる」
佐渡の声が落ち着く。
戸来の耳に“デブリ”だけが残った。
海斗は安堵の笑みを浮かべた。
「初トラブルっすね……」
「初で済むといいな」
戸来が言うと、佐渡がふっと笑う。
「おい戸来。声が死んどるで。もっと“生きてる”声出し」
「はいはい、すんません」
その夜、珍しく佐渡が酒を出した。
火星到着までは禁酒のルールだが、「祝いだ」と言い張る。
「こういう“軽いトラブル”のあとこそ祝っとくもんや。宇宙じゃ、生き延びとるだけで祝杯やからな」
無重力下で浮かぶ琥珀色の液体を、戸来はぼんやり見つめた。まるで、地球で置いてきた自分の感情の塊のようだ。地球では酒を飲めば泣くか怒るか寝るかだった。
今は、感情も酒も、こうして宙に浮かべるしかない。
海斗がその雫を指で掬って、「乾杯っすね!」と笑う。
「乾杯」
「乾杯だ」
航程の後半、時間はだんだん歪んでいく。
会話が減り、夢と現実の境目がぼやける。
戸来はよく、あの“アルバイト”のことを思い出す。
棚田と引田。置き去りにした名前。
何度も船を降り、また乗り、それでも宇宙に戻ってきた。
何を探してるんだろう。
眠る佐渡を見ながら思う。
たぶんこの人も同じだ。行き場をなくした者同士が、火星なんて遠い場所に流れ着いてる。
海斗はそんな二人を見て、「いいっすね」と言った。
「なにがだ」
「“続いてる”感じ。地球の仕事って、終わりばっかだけど、ここは終わんない」
「終わってるんだよ。ずっと続いてるように見せかけた“終わり”を走ってるだけだ」
「むずかしいこと言うっすね」
「俺もわかってねぇ」
そのとき、船の外で微かな光が流れた。
デブリか、星屑か、あるいは誰かの夢の燃えカスか。
どれでもいい。
彼らはただ、黙ってそれを見送った。




