エピソード26、座標を離れた船
〈ホシノナギサ〉は、静かに進路を変えた。
派手な加速もなければ、緊急離脱のアラートもない。
ただ、ほんの数度だけ進行ベクトルを修正し、推力を落とし、いつもの──あまりにもいつもの、普通の航路に戻っただけだ。
それなのに、ブリッジの空気は、戻らなかった。
窓の外には星がある。
整然と並び、何ひとつ欠けていない星空だ。
だが、さっきまでそこにあった“黒い抜け”の感触だけが、目の裏に貼り付いたまま剥がれない。
「……なんか」
海斗が、椅子に深く座り直しながら言った。
「逃げた、って感じしません?」
誰もすぐには答えなかった。
逃げた、と言われれば否定しきれない。
だが、それを認めてしまうと、さっきまで自分たちがしていた判断が、すべて腰抜けに見えてしまう。
戸来は、前方スクリーンから目を離さずに言った。
「逃げたんじゃない」
「じゃあ……」
「離れただけだ」
それ以上の説明はなかった。
だが、海斗はそれ以上聞かなかった。
ミナトの声が、いつもより少し低いトーンで船内に流れる。
《短絡現象由来の空間歪曲、観測範囲外へ移行しました》
《追跡挙動、なし》
「……追ってこない、ってことね」
ココが操縦席から振り返らずに言う。
《はい》
《ただし、航路A-3上に“観測可能状態”として残存しています》
その言い方が、妙に引っかかった。
「残存、って……」
海斗が眉をひそめる。
「消えたわけじゃないんですか?」
《消失は確認されていません》
《“接触可能性が低下した”と表現する方が正確です》
「……待ってる、って言い方は嫌いだな」
ココが、ぽつりと呟いた。
「物じゃないんだから」
戸来は、その言葉を聞いてふっと息を吐いた。
「待たせてるのは、こっちだ」
ココが、わずかに視線を上げる。
「……そう言えるの、強いわね」
「強がりだよ」
戸来は苦笑した。
「でも、今はそれでいい」
しばらく、エンジン音だけが続いた。
低く、規則正しく、まるで何事もなかったかのような音。
《補足します》
ミナトが、唐突に言った。
《NAG-13による未来予測を更新しました》
ブリッジ中央に、簡素なホログラムが浮かぶ。
確率分布。条件分岐。
専門家でなくても、「面倒なやつだ」と分かる類の図だった。
《条件が揃った場合》
《短絡現象との再接触は、理論上可能です》
海斗が、思わず声を上げる。
「また来る、ってことですか?」
《“来る”というより“こちらが戻れる”可能性が残っています》
「……でも、保証は?」
ココが訊ねる。
《ありません。再現性は、低い》
その一言で、場の空気が変わった。
希望でも絶望でもない、ただの事実としての“不確かさ”。
戸来は、ホログラムを見つめながら、ゆっくり言った。
「じゃあ、今は通らない」
「……船長?」
「今は、だ」
言い直すように、はっきりと続ける。
「無視もしない。逃げもしない……ただ──準備が足りない」
ミナトは、すぐには返事をしなかった。
ほんの、コンマ数秒の間。
《判断として、妥当です》
《現時点での通過成功率は、極めて低い》
「成功率じゃない」
戸来は言った。
「責任の話だ」
ココが、ようやく振り返った。
「……責任?」
「ブルーショアⅢは」
戸来は、あえて船名を口にした。
「準備がないまま踏み込んだ」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
「同じことはしない」
戸来は静かに続けた。
「それだけだ」
海斗が、椅子の肘掛けを握りながら、ぽつりと言った。
「……でも」
「なんだ」
「あれ……意思ありますよね」
その問いは、冗談ではなかった。
怖がっているわけでもない。
見てしまった者としての、率直な疑問だった。
ミナトは、また少しだけ間を置いた。
《否定できません》
ブリッジに、妙な静けさが落ちる。
星は、何も知らない顔で輝いている。
航路は、いつもどおり安全を保証している。
それでも、彼らはもう知ってしまった。
宇宙には、近道を欲しがる前に、準備を要求する場所があるということを。
〈ホシノナギサ〉は、通常航路を進み続ける。
だがその進路は、もう“元に戻った”わけではなかった。
次に戻る時は、戻るためではなく──通るためだ。
誰も口にはしなかったが、全員が、同じことを思っていた。
あれは、終わっていない。
ただ、待たせているだけだ。




