エピソード25、通過条件は、揃っていない
距離、二キロメートル。
〈ホシノナギサ〉は依然として〈ブルーショアⅢ〉の影の縁に留まっていた。
推力は最小。
姿勢制御は自動補正に任せ、三人はブリッジで、ただ“待っている”。
だが、何も起きていないわけではなかった。
《空間歪曲レベル微増。時間同期誤差、±0.003秒》
ミナトの淡々とした報告が、逆に不安を煽る。
「0.003秒って……誤差としては?」
海斗が訊ねる。
「通常航行なら無視できる」
ココが答える。
「でもここでは……“向こう側”と時間の流れが噛み合ってない証拠よ」
「時間がズレてる……」
「正確には──」
ココはスクリーンを操作する。
「ズレ始めてる」
表示されたグラフは、緩やかだが確実に、二本の線が離れていく様子を描いていた。
ナギサの時間。
そして──影の縁の“時間”。
その差は、まだ小さい。
だが、ゼロではない。
《補足》
ミナトが続ける。
《ブルーショアⅢのログ断片と照合した結果、同様の乖離が“通過直前”に急激に拡大しています》
「急激って、どれくらい?」
戸来が問う。
《推定──数秒で、数分。最終的には、同期不能》
海斗が顔を青くする。
「それ……中に入ったら、外と時間合わなくなるってことですよね」
「ええ」
ココが頷く。
「戻れない理由の一つね」
ブリッジ前方、黒い影は、静かだった。
呼び寄せるでも、拒むでもない。
ただ──
状態を測っている。
「ミナト」
戸来が言う。
「NAG-13の“準備段階”って、具体的に何だ」
《説明します》
ホログラムが展開される。
NAG-13の内部構造──いや、構造と呼ぶには抽象的すぎる図が浮かび上がった。
「……回路図じゃないな」
海斗が眉をひそめる。
《はい。これは“制御回路”ではありません──“条件調整層”です》
「条件……?」
《質量》
《速度》
《エネルギー分布》
《情報密度》
《時間同期精度》
一つ一つが層として表示される。
《NAG-13はこれらを“揃える”ための仕組みです。通過そのものを起こす装置ではありません》
「じゃあ、黒い影は?」
戸来が問う。
《“向こう側”が存在することを前提にした現象です。門ではなく──》
ミナトは言葉を選ぶように一拍置いた。
《“重なり”です》
「重なり……」
ココが繰り返す。
《二つの異なる宇宙状態が条件次第で“重なる”。その瞬間だけ、移動が成立します》
「つまり……」
海斗がゆっくり言う。
「今の俺たちは……」
「半分だけ重なってる」
戸来が結論を出す。
ミナトが肯定するように応じる。
《はい。現在の状態は“覗き込めるが、踏み込めない”》
ブルーショアⅢは、覗き込んだ。
そして──
踏み込んでしまった。
「……準備が足りなかった」
海斗が呟く。
「ええ」
ココは静かに言う。
「船も、人も」
彼女は、ログの最後の言葉を思い出していた。
──準備してから。
「じゃあ、何が足りない?」
戸来が問う。
《複数あります》
ミナトは即答する。
《まず──“航法の主体”》
「主体?」
《現在〈ホシノナギサ〉の航行判断は、人間とAIの協調制御です。しかし、“重なり”を通過する場合、判断遅延が致命的になります》
「つまり……」
ココが察する。
「人かAI、どちらかに寄せろってことね」
《はい。NAG-13は、その切り替えを支援する設計です》
海斗が目を丸くする。
「え、それって……どっちが正解なんですか」
《不明です。通過事例が、存在しないため》
「そりゃそうか……」
海斗が力なく笑う。
「他には?」
戸来が続ける。
《次に、“船体情報の整合性”》
《ブルーショアⅢは途中で外殻が破綻しました。構造が“こちら側”に適合したまま、重なりに触れたためです》
「ナギサは?」
ココが即座に訊く。
《現状──まだ、破綻していません》
その言葉に、三人は同時に息を吐いた。
「つまり……」
戸来がまとめる。
「今、行けば──」
《高確率でブルーショアⅢと同じ結末を辿ります》
静かな断定だった。
ブリッジに重い沈黙が落ちる。
黒い影は相変わらずそこにある。
近づいても来ない。
消えもしない。
ただ──
待っている。
「……じゃあ、今日はここまでだな」
戸来が言った。
ココが頷く。
「ええ。“今は”行かない」
海斗が、ほっとしたように背もたれにもたれかかる。
「正直……助かりました」
ミナトが、静かに補足する。
《ただし、この“重なり”は永続的ではありません》
「期限がある?」
戸来が問う。
《正確には“安定条件が変化する”。このまま離脱すれば、次に同じ状態が再現できる保証はありません》
「一回きりの可能性もあるってことね」
ココが言う。
《はい》
戸来は前方スクリーンを見つめた。
恐怖はある。
だがそれ以上に理解してしまった。
(これは近道じゃない)
(選ばれた者の特権でもない)
(準備を要求される)
そして──
(準備が整うまで、待ってくれる)
「ミナト」
戸来は静かに言った。
「座標、記録。ただし──外部には漏らすな」
《了解。“非共有記憶領域”に保存します》
ココが操縦桿を軽く引いた。
「距離、取るわよ」
〈ホシノナギサ〉は、ゆっくりと後退を始める。
黒い影は、追ってこない。
ただ、奥で何かが、瞬いた。
まるで──
「また来い」
と言うように。




