エピソード23、影に呼ばれる船
距離、二キロメートル。
〈ホシノナギサ〉は、推力をほとんど使わず、慣性だけで滑るように進んでいた。
前方スクリーンに映る〈ブルーショアⅢ〉は、もはや“船”というより、宇宙に穿たれた歪みの縁に、無理やり形を与えられた残骸に見えた。
黒い部分は、光を拒むというより──
光を別の場所へ送り返しているように見える。
「……距離、維持」
ココが低く告げる。
「これ以上は近づかない」
戸来も同意する。
《相対速度、安定。現在、重力勾配の変化は……》
ミナトの声が、途中で僅かに揺れた。
《……増加しています》
「どの程度だ?」
「危険レベル?」
《“危険”という言葉が適切かは不明です。ただし、空間の曲率が、自然分布から逸脱しています》
海斗が喉を鳴らす。
「つまり……」
「宇宙が、曲がってる」
戸来が簡潔に言った。
「普通は曲がらない場所で、だ」
ブルーショアⅢの黒い縁が、微かに揺れた。
いや──揺れているのは、こちらの視界の方だ。
星々がほんの一瞬引き伸ばされたように歪む。
瞬きをすれば元に戻るが、確実に“今”だけ宇宙の奥行きが狂っていた。
「……見て」
ココが画面の一角を指す。
ブルーショアⅢの影から細い線が伸びている。
触手でも光線でもない。
ただ、そこだけ背景が“遅れて”動く。
「動いて……ない?」
海斗が混乱した声を出す。
「動いてない。でも──」
ココの声が硬くなる。
「近づいてる」
《補足》
ミナトが割り込む。
《物体が移動しているのではありません。座標系そのものが、こちらへ寄っています》
その説明に、ブリッジの空気が一段冷えた。
「……呼ばれてる?」
海斗が冗談とも本気ともつかない声で言う。
答えは、すぐに来た。
《NAG-13、“外部航路入力要求”を検知》
三人の視線が一斉にコンソールへ走る。
「来たな……」
戸来が低く呟く。
「眠ったふりしてたんじゃ?!」
海斗が叫ぶ。
《“起動”はしていません。しかし──“問い合わせ”は来ています》
「問い合わせ……?」
ココが眉をひそめる。
《外部から、“この船は通行可能か”という確認が行われています》
「……誰が?」
戸来が問う。
《不明──ただし、通信形式は、既知のGA・PR・EU規格とは一致しません》
沈黙。
ブルーショアⅢの黒い部分が、また一段、濃く見えた。
音が、聞こえた。
──ギ……ィ……
──ギ……ギ……
あの“悲鳴”だ。
だが、先ほどよりもはっきりしている。
「……音、変わってません?」
海斗が震える声で言う。
《周波数が、こちらの通信帯域に“寄せられています”》
「寄せてる……?」
「合わせてきてる、ってことよ」
ココが言った。
「聞かせようとしてる」
戸来は、無意識に操縦席の肘掛けを握りしめていた。
(事故じゃない)
(罠でもない)
(──これは、“応答”だ)
「ミナト」
戸来は静かに言う。
「この“問い合わせ”に答えられるか?」
《はい──ただし、返答内容は、航路選択に直接影響を与えます》
「どういう意味だ」
《“通行可能”と返せば、我々は──その“先”を示される可能性があります》
海斗が息を呑む。
「……それって……」
「ワームホール」
ココがはっきり言った。
「でも、安定したものじゃない。“門”というより……」
「“裂け目”だな」
戸来が続ける。
ブルーショアⅢは、その裂け目に“触れた”船だ。
そして、戻れなかった。
「もし、返事をしなければ?」
戸来が問う。
《何も起きない可能性が高いです。ただし──》
「ただし?」
《この座標は、今後も“NAG-13が反応する地点”として残ります》
《つまり、次に通る船が──》
「俺たちじゃない可能性もある」
海斗が、青い顔で言う。
「……ええ」
ココが頷く。
「しかも、その船は“準備してない”かもしれない」
ブリッジに、重い沈黙が落ちる。
戸来は、前方スクリーンを見つめた。
黒い影は、待っている。
急かさない。
引きずり込まない。
ただ──選択を待っている。
「船長」
ココが静かに言った。
「決めるのは……あなたよ」
戸来は深く息を吸った。
(火星では逃げた)
(GAの影からも政治からも)
(でも、ここで目を逸らしたら──)
(また“誰かが犠牲になる”)
「ミナト」
戸来は言った。
《はい》
「返答を用意しろ」
「ただし──」
彼は一拍置いた。
「完全な“肯定”でも“否定”でもない」
「どういう意味っすか……?」
海斗が戸惑う。
「“通れるか?”って聞かれたなら」
戸来は、ゆっくりと言う。
「“通ろうとしている”とだけ返す」
ココの目がわずかに見開かれた。
「……主導権をこっちに残すってことね」
《了解》
《返答形式を調整します》
ミナトが静かに処理を進める。
《外部航路問い合わせへの応答──送信》
その瞬間。
ブルーショアⅢの黒い縁が脈打った。
まるで巨大な心臓が一度だけ鼓動したかのように。
星空がずれる。
ほんの一瞬──
“前”と“奥”の区別が消えた。
「……っ!!」
海斗が声にならない声を上げる。
《空間座標、再定義中》
《警告:既知の星図と一致しない参照点を検出》
「来るわ……!」
ココが操縦桿を握り直す。
ブルーショアⅢの影がゆっくりと“開いた”。
それは穴ではない。
扉でもない。
ただ、宇宙が一段深く折れた。
〈ホシノナギサ〉の船体がわずかに軋む。
《NAG-13、待機状態から“準備段階”へ移行》
「起動するな!」
戸来が叫ぶ。
《起動していません》
《……しかし》
ミナトの声がかすかに揺れる。
《“呼応”しています》
黒い影はもう逃げ場を与えない距離にあった。
それでも──
まだ引きずり込んではこない。
選べ、と言っている。
戸来は歯を食いしばった。
「ココ」
「ええ」
「推力、最小」
「でも──いつでも逃げられる態勢を保て」
「了解」
「海斗」
「はい!」
「何があっても船を壊すな」
「……了解っす」
〈ホシノナギサ〉は、影の縁で、静止した。
宇宙が息を詰める。
次の瞬間──
何かが応えようとしている。




