エピソード22、近道を欲しがった者たち
月軌道上、GA統合管理局・第七会議室。
窓はない。
壁面に映し出されているのは、木星圏までの航路図と、いくつもの数値グラフだけだった。
室内にいるのは五人。
全員が、役職名で呼ばれる。
「では──報告を」
最年長の男が、そう切り出した。
肩章も階級章もない。
だが、その声には逆らいがたい重さがあった。
「航路A-3、該当時間帯における異常は──」
若い分析官が一瞬だけ言葉を探す。
「──“観測されました”」
会議室の空気が、わずかに沈んだ。
「“発生”ではなく?」
「“確認”でもなく?」
「はい──“観測”です」
分析官は慎重に続ける。
「現象は起きています。しかし……完全な形ではありません」
ホログラムに、歪んだ星図が表示される。
一部の座標が、薄く欠けている。
「規模は」
「最小限。星系全体への影響はゼロ」
「船舶被害は?」
「……記録上は、ありません」
“記録上は”。
誰も、その言葉を訂正しなかった。
「“例の船”は?」
別の管理官が問う。
「接近記録あり」
分析官は、端末を操作する。
「ただし──」
「ただし?」
「完全な干渉には至っていません」
沈黙。
やがて、中央に座る男が口を開いた。
「……つまり──失敗ではないが、成功でもない」
誰かが、小さく息を吐いた。
「NAG-プロトコルは?」
「反応しています」
「起動は?」
「……未確認です」
年長の男は、指を組んだ。
「“未確認”とは便利な言葉だ」
その皮肉に、誰も笑わない。
「だが結果として──」
彼は続ける。
「我々は“使っていない”」
「協定は、まだ破っていない」
「……表向きは」
誰かが、小さく付け加えた。
ホログラムが切り替わる。
PRとEUの開発進捗グラフが表示される。
どちらも、GAを上回っていた。
「木星圏の補給拠点数、航路安定化、居住モジュール展開速度──」
年長の男が淡々と読み上げる。
「すべて後手だ」
「近道が必要だ」
別の声が言った。
「倫理的な話をしている余裕はありません」
「倫理ではない」
最年長の男は即座に否定する。
「生存戦略だ」
その言葉に、異を唱える者はいなかった。
「PRは、協定を守っているふりをしているだけだ」
「EUも同じ」
「なら、我々が遅れる理由はない」
「……しかし」
分析官が勇気を振り絞る。
「ブルーショアⅢの件は──」
「“行方不明事故”だ」
即答だった。
「実験ではない」
「失敗でもない」
「ただの、運の悪い民間船だ」
会議室の空気が、凍る。
「……ログは?」
「整理済み」
「観測データは?」
「ノイズとして処理」
「航路管理局への提出は?」
「異常なしで通す」
最年長の男は、ゆっくりと立ち上がった。
「我々は、“使ってはいない”。“研究もしていない”。“事故も起きていない”」
彼は、全員を見渡す。
「いいな」
誰も、目を逸らさなかった。
「……ただし」
彼は一拍置く。
「次は、失敗するな」
分析官の喉が小さく鳴った。
「“次”がある前提、ですか」
「ある」
男は断言した。
「成功するまで、試す」
ホログラムの端に、航路A-3が再び表示される。
そこに、小さなマーカーが追加された。
〈要観察〉
「条件を、絞り込め。どの船が、どのAIが、どの航路履歴を持つと反応するのか。次は、確実に“近道”を通す」
「……有人で?」
「いずれは」
その言葉に、誰も反論しなかった。
「成功すれば──」
最年長の男は静かに言う。
「半年分の距離が、消える」
「失敗すれば?」
誰かが、形だけ問いかける。
「失敗は──」
彼はわずかに笑った。
「記録されない」
会議室の照明が、ゆっくりと落ちる。
最後に残ったのは、歪んだ航路図と……。
“存在しなかったことにされた事故”の影だけだった。
誰もが理解している。
彼らが欲しがったのは、
技術でも勝利でもない。
“時間”だ。
そして時間を削るということが、何を削ることになるのかを──
考えないまま。




