エピソード20、失われた航路協定
〈ホシノナギサ〉は、幽霊船〈ブルーショアⅢ〉から十分な距離を取ったまま、微速航行を続けていた。
エンジン音は低く、ほとんど背景ノイズと変わらない。
それでも船内には、妙な緊張が残っていた。
誰もが理解していた。
あれは「終わった出来事」ではない。
ブリッジ中央のホログラムに、ブルーショアⅢから回収された断片データが浮かび上がっていた。
ドローン二号が、かろうじて拾ってきたものだ。
「……これで“収穫ゼロ”じゃないのが逆に怖いっすね」
海斗が、渋い顔で言った。
「本当にゼロだったら“ただの事故”で済ませられる」
ココは腕を組んだまま答える。
「でもこれは……明らかに“整理された何か”がある」
ホログラムには、古い文書フォーマットが表示されていた。
PR内部仕様の研究メモ。
公開用ではないが、軍事機密ほど厳重でもない、中途半端な扱いのデータだ。
「ミナト。翻訳と再構成、頼む」
《了解。欠損率三八パーセント。意味の再構築を試みます》
文字列が、ゆっくりと並び替えられていく。
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【非公開研究覚書】
対象:航路A-3周辺
現象仮称:空間短絡現象(TSS: Temporary Spatial Shortening)
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「……“短絡”」
戸来が低く呟く。
「近道、って意味ね」
ココが即座に補足する。
「電気回路でいう“ショート”と同じ。正規ルートを無視して、強引に繋ぐ」
文書は続く。
⸻
・観測結果
特定条件下で、空間距離が著しく短縮される
理論上、航続距離および航行時間を最大六五%削減可能
・期待される利点
補給拠点の削減
燃料消費量の低下
木星圏航路の全面的再設計
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「……六五パーセント」
海斗が息を呑む。
「それ、宇宙輸送の常識ひっくり返りますよ」
「だからこそ、危険でも欲しがる」
戸来の声は硬い。
次のページに切り替わる。
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・重大リスク
短絡状態が安定しない
失敗時、対象船体および周辺空間が“欠損”する可能性あり
※「欠損」とは:
破壊ではなく、存在座標の不連続化を指す
(物体は存在するが、その「場所」が定義できない状態)
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船内が、静まり返った。
「……欠損?」
海斗が恐る恐る言う。
「消える、ってことですか」
「“壊れる”じゃない」
ココは首を振る。
「“そこに居られなくなる”」
戸来は、ブルーショアⅢの映像を思い出していた。
光を失い、輪郭を失い、壊れ続けていた船。
「……あれは、失敗例か」
《文書、続行します》
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・試験結果
無人機による短距離試験では成功例あり
有人試験は倫理上・政治上の理由により凍結(失敗時の救助手段が存在しないため)
・結論
現象の再現性は確認されたが、制御方法が未確立
よって本研究は、全陣営合意のもと、無期限凍結とする
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「“全陣営合意”……」
戸来が眉をひそめる。
次の行に、署名欄が現れた。
PR
EU
GA
三つのロゴ。
だが、そのうち一つだけが、明らかに歪んでいた。
「GAの署名……削除跡がある」
ココが指摘する。
《解析補足:署名自体は存在していましたが、後に”無効化”されています》
「無効化?」
「協定から“抜けた”ってことか」
戸来が静かに言う。
「表向きは協定を守ってる顔して、裏では……」
海斗が言葉を濁す。
「ええ」
ココははっきり頷いた。
「再開したのよ、研究を」
文書の最後に、短い追記があった。
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・追記(重要)
協定凍結後も、現象は自然発生的に散発確認されている
特に、旧設計航法AIを搭載した船体との親和性が高い
原因:不明
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「……旧設計航法AI」
海斗が、ゆっくりと戸来を見る。
「ミナト、だな」
戸来は頷いた。
《はい。私のアーキテクチャは、協定締結以前の理論を含んでいます》
「じゃあ、ナギサは……」
「“条件を満たしてた”ってことね」
ココが言葉を継ぐ。
「偶然か、意図的かは別として」
戸来は、深く息を吐いた。
「ブルーショアⅢは……」
「実験に使われた可能性が高い」
ココの声は、感情を排していた。
「民間船。PR籍。表向きは“行方不明事故”。裏では──」
「“近道”のテスト」
海斗が呟いた。
ミナトが、静かに続ける。
《補足します。NAG-13は、この研究の”副産物”と考えられます》
「副産物?」
《人間の判断が再び同じ過ちを選ばないようにするための、“強制停止装置”です》
「……それを、GAは」
「“邪魔な安全装置”として扱った、ってことか」
戸来が言った。
ブリッジに、重い沈黙が落ちる。
「……あのぉ」
海斗が小さく手を挙げる。
「これ、俺たち……知っちゃいけないやつじゃないですか?」
「たぶんね」
ココは苦笑した。
「でも、もう遅い」
戸来は、ホログラムを見つめたまま言った。
「近道を欲しがった結果が、あの幽霊船だ」
「そして、その近道は……」
「今も、ここにある」
窓の外には、静かな星空が広がっている。
だが彼には、それが“均質な空間”には見えなかった。
どこかに、折れ目がある。
触れれば、また何かが欠ける。
「ミナト」
戸来が呼ぶ。
《はい》
「この航路を、このまま進めば──」
《再遭遇の可能性は、否定できません》
「逃げても、同じか」
《はい》
戸来は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「……なら覚悟するしかないな」
「覚悟?」
海斗が聞き返す。
「“知らないふり”をやめる覚悟だ」
戸来は前を見据える。
「ここから先は、ただの輸送じゃない」
ココが、小さく頷く。
「ええ。もう、航路そのものが“選択”になってる」
〈ホシノナギサ〉は、静かに進み続ける。
木星へ向かう道は、まだ遠い。
だが彼らはもう、理解していた。
この航路が、
人間の欲と、宇宙の歪みが交差する場所であることを。
そして──
そこを進む船は、必ず何かを失う。
問題は、それが──
命か、自由か、知らずにいられたはずの未来か。
ただそれだけだ。




