エピソード19、幽霊船の声
〈ホシノナギサ〉は、速度を限界まで落としたまま、幽霊船〈ブルーショアⅢ〉と並走していた。
距離、二キロメートル。
宇宙空間としては、ほとんど「隣」と言っていい距離だ。
それでも、誰ひとり「近い」とは感じていなかった。
前方スクリーンに映る〈ブルーショアⅢ〉は、静止しているようで、わずかに揺れて見えた。
いや──揺れているのは船ではない。
周囲の空間そのものが、呼吸するように歪んでいる。
「……相変わらず、気分の悪い見た目だな」
戸来が低く呟いた。
「“見た目”で済んでるうちは、まだマシよ」
ココは操縦席に腰を沈め、スラスター制御を微調整しながら答える。
「問題は、あれが”見えなくなる瞬間”」
「見えなくなる、って……」
海斗は言いかけて、口をつぐんだ。
すでに分かっている。
見えなくなるのは、〈ブルーショアⅢ〉ではない。
こちらの認識のほうが、壊れる。
《距離固定。相対速度ゼロ》
《姿勢安定。ドローン射出、可能》
ミナトの声が、淡々と状況を告げた。
「行こう」
戸来が頷く。
「ドローン一号、二号。まずは外殻と船名プレートを確認」
「了解っす」
海斗が操作パネルを叩くと、船腹のハッチが静かに開いた。
二機の偵察ドローンが、ほとんど音もなく宇宙へ滑り出す。
スクリーンが分割され、左右にドローン視点の映像が映し出された。
最初の数秒は、ただの漂流船だった。
錆びた外殻。
衝突痕らしき凹み。
貨物用のコンテナが、半分外れかけたまま固定されている。
「……普通だな」
海斗が言う。
「“普通だったら”、幽霊船なんて呼ばれないわ」
ココが返す。
ドローン一号が船体側面へ回り込んだ瞬間──
映像が、わずかに歪んだ。
ノイズではない。
フレーム落ちでもない。
画面の一部が、引き延ばされるようにズレた。
「今の、見たか?」
戸来が身を乗り出す。
《確認。視覚データに局所的歪曲》
《原因:外部要因》
「外部って……」
「“船の外”じゃないって意味よ」
ココが即座に補足する。
「“私たちの側”の処理が、追いついてない」
ドローンが、黒い領域に近づく。
船体側面。
まるで巨大な染みのように広がる“黒”。
それは影ではなかった。
光を遮っているのではない。
光が、そこに触れた瞬間、消えている。
反射がない。
輪郭がない。
ただ向こう側が、ぽっかりと抜け落ちている。
「……表面じゃないな」
戸来が言う。
「穴、か?」
「穴っていうより……」
ココは言葉を探す。
「“向こう側に続いてる”感じ」
《ドローン一号、距離維持限界に接近》
《これ以上の接近は、映像データの崩壊を招きます》
「触るなよ。絶対に」
海斗が念を押す。
《了解》
その直後だった。
ドローン一号の映像が、一瞬だけ“二重”になった。
「……え?」
同じ映像が、ほんの数フレームずれて重なる。
そのズレは、0.7秒。
次の瞬間、映像が元に戻った。
「今の……」
海斗の声が震える。
《異常ではありません》
ミナトが告げる。
《過去の映像と、現在の映像が同時に受信されました》
「は?」
「過去って……」
戸来が言葉を失う。
ココの目が細くなる。
「“記録”じゃないのね」
《はい》
《ドローン一号は同一地点で、時間的にズレた情報を同時に受信しています》
「……時間が、重なってる?」
海斗が呟く。
ドローン一号が、さらに船体へ沿って移動する。
次に映し出されたのは、操縦ブリッジの外部窓だった。
割れていない。
焼けてもいない。
そして──
「……人、いる?」
一瞬、確かに“誰か”が見えた。
操縦席。
シートに腰掛けた影。
だが次のフレームでは、そこには誰もいない。
「今の、絶対……」
海斗が息を呑む。
《映像解析》
《人型シルエットを検出──しかし現在時刻では該当なし》
「“現在時刻では”、か」
戸来が唸る。
ココが低く言った。
「見てるのは……過去よ」
「記録映像?」
「違う」
ココは首を振る。
「“残ってる”のよ。出来事そのものが」
ドローン二号が、貨物区画の外壁に近づいた。
そこで、異音が入った。
──ビ……ギ……ギギ……
スピーカー越しに、低く、鈍い音が流れる。
「……来た」
海斗が顔をしかめる。
金属が、ゆっくりと圧力に耐えているような音。
何かが、内側から引き裂かれそうになっている音。
《音声解析》
《船体構造が発する応力音と一致》
「構造音……?」
戸来が眉をひそめる。
「でも、船は壊れてないぞ」
《“壊れ続けている”可能性があります》
「……は?」
《時間的に固定されていない破壊です。破壊が完了していないため、船体は“存在し続けている”》
沈黙が落ちた。
理解が、追いつかない。
「それって……」
海斗が絞り出す。
「壊れた瞬間から、ずっと同じところで壊れ続けてるってことですか……?」
《はい》
ドローン一号の映像が、再び歪む。
今度は、明確だった。
映像の端が、黒い領域へ引きずり込まれていく。
「ミナト! 一号、引き戻せ!」
戸来が叫ぶ。
《コマンド送信──》
応答が、ない。
ドローン一号の映像が、ふっと暗転した。
「……消えた?」
海斗が青ざめる。
《通信断》
《物理破壊ではありません》
「じゃあ、どこへ……」
「“どこか”でしょうね」
ココが静かに言う。
「ここじゃない場所」
残されたドローン二号の映像には、〈ブルーショアⅢ〉が映っている。
変わらない。
何も起きていないように。
だが──
《NAG-13、軽度反応》
ミナトの声が、わずかに低くなる。
「反応って……」
戸来が問う。
《この座標に対し“既知パターン一致”を確認》
《詳細は遮断されています》
ココが、ゆっくり息を吐いた。
「……やっぱりね」
「何だ」
「これは“事故”じゃない」
彼女は前を見据えたまま言う。
「最初から“こうなる可能性がある航路”だった」
「誰かが知ってた、ってことか」
「ええ。少なくとも──」
ココは、言葉を選ぶ。
「知ってる前提で、船を出した人間がいる」
戸来は、黒い抜けを見つめた。
光を失った船。
壊れ続ける構造。
消えた人間。
消えたドローン。
そして、沈黙の中で、今も“音”だけを吐き続けている幽霊船。
「……撤退だ」
戸来が静かに言った。
「これ以上は、近づかない」
「賛成」
ココが頷く。
「もう十分、“見た”」
「でも……」
海斗が名残惜しそうに呟く。
「助けられなかったんですね……」
「違う」
戸来は首を振る。
「遅すぎた」
ナギサは、ゆっくりと進路を変える。
〈ブルーショアⅢ〉は、その場に残ったまま、何も言わず漂い続ける。
その黒い領域が、ほんの一瞬だけ──
こちらを見たような気がした。
もちろん、錯覚だ。
そうでなければ困る。
《航路修正完了》
《安全距離を確保しました》
ミナトの声が、船内に静かに響く。
だが、誰も返事をしなかった。
幽霊船は遠ざかり、やがて星々の中に紛れて見えなくなる。
それでも、あの音だけが耳の奥に残っていた。
壊れ続ける音。
助けを求めるのでも、怒っているのでもない。
ただ──
存在し続けてしまったものの、声。
戸来は、拳を握った。
(……これが、近道の代償か)
木星へ向かう航路は、まだ長い。
だが彼は、はっきりと感じていた。
この先で──
もう一度、あの“黒”と向き合うことになる。
それも、今度は……
逃げられない形で。




