エピソード2、再びの宇宙。
翌朝。
ドックC‐7。
〈ホシノナギサ〉は、思っていたより小さかった。
〈ユリカゴ〉よりは新しいが、やっぱり“生き物の匂い”がする。金属の肌が光を吸い込み、機関部がときどき、小さく息を吐く。この船も、彼ら夫婦と共に、宇宙を生き抜いてきたのだと、戸来は感じた。
「おはようさん」
ハッチの前で佐渡が手を振った。
隣には若い女性。その少し後ろに、工具箱を抱えた細身の青年。
「うちの相方、春海。今日で最後や」
佐渡が笑いながら、春海の肩を抱いた。
「船の通信士であり航法士。俺の嫁やけど、腕は一流や。太陽系内航路のデブリ予測も通信ラグ補正も、AIより信頼できるんや」
「船長、褒めすぎよ」
春海は照れたように言ってから、すぐ真顔になった。
「戸来さん。佐渡から聞いてます。この船に乗ってくださって、本当にありがとう」
その声は静かで、芯があった。
戸来はぎこちなく頭を下げる。
「いえ、試運転だけですから」
「そうかしら? 行ってらっしゃい」
春海は腕を組んだまま、手のひらだけを軽く振った。
その腹が、ほんの少しふくらんでいるのが見えた。
「代わりに入るのが俺で、すみません」
「いえ、お願いします。あの人、放っとくと缶詰だけで半年生きますから」
「栄養的に問題ありそうですね」
春海がくすっと笑う。その笑いが船体に反射して、やわらかく響いた。
「この〈ホシノナギサ〉は、佐渡と私が何年もかけて手を入れた船なの。古いけど、素直な子よ。ただ、佐渡は機関に夢中で、航法と通信はちょっと雑になる。火星航路は、月の周回とは比べものにならないほど通信がシビアになるわ。だから、もし正式に乗ることになったら、そこだけはしっかり見てあげてね」
そう言って、彼女は戸来の手に小さな真鍮のキーホルダーを握らせた。
「私が使ってた古いナビユニットの予備キー。お守り代わりに。佐渡は機械は信じるけど、こういう“人のお守り”は信じないタイプだから」
掌に残るぬくもりに、戸来は少し戸惑う。
その横で、佐渡が後ろの青年を前に押し出した。
「紹介するわ。整備見習いのひよっこ、海斗っちゅう」
「どうもっす。戸来さんですよね? 港でワークローダー操縦してた人」
若い。銀っぽく染めた髪に、笑うと犬みたいな歯。
「見てたんですか」
「ええ。あんなスムーズな荷下ろし、AIでも無理っすよ」
「俺をおだてても給料は変わらんと思うぞ」
「うわ、似てる。船長も同じこと言ってたっす」
春海が笑った。
「二人とも、扱いにくいタイプね」
やがて船に乗り込むと、海斗はもうシートを外し、手際よくパネルを開けていた。
「整備の見習いでして。船長んとこで修行中っす。けど俺、いつかは自分の船を持ちたいんすよ」
「夢がでかいな」
「でかくないと、宇宙なんか出れないっす」
その言葉に、戸来は少し黙った。昔の自分と同じ匂いがした。
スラスターが唸り、ハッチが閉まる。試験航行、開始。
窓の外で、月面が遠ざかっていく。
胸の奥がざわざわする。
あの“閉まる音”が、昔と重なった。
「顔、青いっすよ」
海斗が言う。
「月光のせいだ」
「洒落てんなあ。俺、そういうセリフ出てこないタイプっす」
佐渡が笑いながらスイッチを入れた。
「出発や。月周回まで三十五分」
静かに、船体が浮き上がる。
重力がゆるむ瞬間、戸来の指が勝手に手すりを掴んだ。
海斗がそれを見て、にやっとする。
「怖いんすか?」
「怖くない奴はバカだ」
「俺、バカですね」
その軽さに、少し救われた。
航行は順調だった。
オートも安定、通信も良好。
だが、月を一周しかけたあたりで、警告灯がひとつ点いた。
心臓が跳ねる。
──補助冷却ユニット、異常温度上昇。
「おい」
「わかっとる」
佐渡が手動切り替えに移る。
「冷却弁が固着や。外出て見た方が早いな」
「俺、行ってきます!」
海斗が手を挙げた。
「お前、初EVAやろ」
「訓練で二回やりました!」
「訓練と現場は違う」
「でも、このままじゃ戻れないでしょ!」
佐渡が戸来を見る。
戸来はうなずいた。
「俺が付き添う」
スーツを着ると、汗がにじんだ。
ヘルメット越しに自分の呼吸がうるさい。
ハッチが開く。
月の光が、まるで刃のように差し込んだ。
海斗が先に出る。戸来が続く。
冷却ユニットは船尾、すぐの位置にあった。
ボルトが熱で膨張している。
「スパナ!」
「はいっ!」
手渡された工具を受け取り、慎重に緩める。
その瞬間、ふっと無線がノイズを出した。
──〈ユリカゴ3号〉の事故の時も、こうだった。
「戸来さん?」
海斗の声がヘルメット越しに響く。
「だいじょうぶっすか?」
「……問題ない」
息を整え、ボルトを外す。
熱が抜け、圧が落ちていく。
「成功っすね!」
「戻るぞ」
船内に戻った瞬間、足が震えた。
それでも笑えた。
久しぶりに“生きて帰った”という実感があった。
「さすがっすね!」と海斗。
「お前の方が度胸あったよ」
「マジっすか!?」
「二割ぐらいはな」
佐渡が計器を見ながらニヤニヤしている。
「お前ら、いいコンビになりそうや」
「いや、俺はもう――」
「火星までの旅は長いぞ。考える時間はある」
その言葉が、ゆっくり胸に沈んだ。
窓の外、地球が豆粒のように浮かんでいる。
海斗が指をさして言った。
「俺、あの青い星に帰るより、あの先に行きたいっす」
「なんで」
「帰る場所は、まだできてないんで」
そう言って笑う顔が、棚田に少し似ていた。
――怖いけど、じっとしてる方が怖い。
あの言葉が、また胸の奥で鳴る。
戸来は窓の外の星を見た。
〈ユリカゴ3号〉の残骸が、まだどこかを漂っているはずだ。
いつか、この船がその軌道をかすめるかもしれない。
その時は、拾ってやろう。
笑い声ごと、拾ってやろう。
エンジンが唸り、船体が加速する。
月の影が遠ざかり、闇が広がる。
恐怖よりも、懐かしさが勝っていた。
「船長」
「なんや」
「火星まで、お願いします」
「決まりやな」
佐渡が操縦桿を叩く。海斗が歓声を上げる。
戸来は、静かに息を吐いた。
宇宙は、やっぱり怖い。
でも、怖いからこそ、行く意味がある。
あの青年みたいに、もう一度、夢を見てもいいのかもしれない。
〈ホシノナギサ〉は、ゆっくりと火星航路へ進路を取った。
その光の中で、戸来の中の何かが、少しだけ動き出した気がした。




