エピソード17、遠ざかる赤と、沈黙の航路
火星が、画面の中で丸くなっていく。
赤茶色の球体。砂嵐の筋が細い傷のように表面を走り、極冠の白がかすかに縁を際立たせている。
ほんの数時間前まで、あの地面に足をつけていた。
いまはもう、振り返ればそこにあるだけの“過去の星”だ。
《火星重力圏から完全離脱。相対速度、安定》
《現在速度を維持した場合、〈メンバメイ〉まで約八十六日》
ミナトの声が、船内の空気に静かに溶ける。
「……本当に、出ちゃいましたねぇ」
海斗が椅子にぐったりもたれかかり、モニタ越しの火星を見上げる。
「“出ちゃいました”じゃない。自分で出たって言え」
戸来が苦笑しながら答えた。
「いや、だって。火星であんだけドタバタしたじゃないですか。ドローンとか灰緑ジャケットとか、“影”とか……」
「影って、呼び名が雑よね」
ココが操縦席の補助コンソールにもたれながら、モニタを横目で見る。
「ちゃんとコードネームを付ければいいのに。“灰緑ジャケット連盟”とか」
「それ、弱そうっすね」
「じゃあ、カッコよく“SHADO”」
「やめろ、その名前でログ残したら訴えられる」
三人の軽口に、火星の赤がゆっくり遠ざかっていく。
重力負荷はすでに抜け、椅子のシートは“体重の軽さ”しか返してこない。
人工重力はまだ弱めだ。
胸の奥だけが、まだやけに重かった。
「月、火星、月、また火星……そして木星に向かってるんすよね……もう一端のスペースマンって言えますよね」
海斗がシートのベルトを緩めながら振り返る。無重力に慣れたつもりの動きでも、指先が少し震えているのが見えた。
「立て続けに往復しただけでしょ。まだまだよ。わたしも含めてね」
ココはコンソールの表示パネルから目を離さず応じた。
「そう言えば、昔の木星航路って月からが、メインだったんですよね」
「ああ、人工惑星が設置されてから運用方法が大きく変わったな」
ココがくるりと椅子ごと身体を回す。
「今も月から木星航路は残っているわよ。GAはそっちをよく使ってるわ」
「どうしてっすか?」
海斗が身を乗り出す。
「今の学校では教えなくなったのか?」
戸来の視線が海斗に向けられる。
海斗を見たココの眉がわずかに上がった。
「いえ、しっかりカリキュラムに──」
「あー。あれですね! 知ってます! 大丈夫知ってます」
海斗は笑って手を振った。低重力ではその仕草が妙に大げさに見えた。
「……ほんとか?」
「──あ……佐渡さんに出発の連絡してないっすね」
海斗が急いで話題を変えた。
「見てるだろ」
戸来は断言した。
「どこでどう繋いでるか知らないけど、嘉瀬さんルートで、火星発ったことぐらいは把握してるはずだ」
「春海さんも?」
「たぶんな。『また無茶して』って怒ってる顔が目に浮かぶ」
その光景を想像して、三人同時に苦笑する。
「怒ってくれる人がいるうちは、まだマシよ」
ココが前を向いたまま、ぽつりと言った。
「本当に危ないのは、“誰も怒らない状態”よ。大事にされてない証拠だから」
「それ、ちょっと刺さるっすね……」
「刺さる人は、守られてる自覚があるのよ」
戸来は、画面の中で小さくなっていく火星をもう一度眺めた。
あの赤い砂の下には、埋もれた名前がいくつもある。
そのうちいくつかは、自分が知っているはずの名前だ。
それでも──
もう、振り返り過ぎるわけにはいかない。
「よし。火星はここまでだ」
戸来は椅子から立ち上がり、両腕を伸ばした。
「ここから先は、〈ホシノナギサ〉の“長距離航行”への設定変更と、船の中身の洗い出し。まずはミナトの解析結果を全部出してもらおう」
《はい。お待ちしておりました、“本題”です》
どこか楽しそうなミナトの返事に、海斗が肩をすくめる。
「このAI、だんだん性格出てきてません?」
「そういう風にチューニングしたのよ」
ココがさらっと言った。
「無機質なほうが怖いでしょ」
「そのかわり、無機質な方が“死ぬ時は諦めつきそう”な気も……」
「そんなこと言うな」
戸来は苦笑しながら、ブリッジ中央のコンソールを叩いた。
《では、火星離脱後の初期システム診断結果を報告します》
ミナトの声とともに、ホログラムが天井近くに立ちのぼる。
船体の断面図、燃料ライン、配管、システムバスの配線。
「外殻は?」
《微細な塗装剥離が数カ所。イオンスラスターの噴射によるもので、許容範囲内》
《ドローンとの接触痕は……外板に一カ所、こすり傷程度》
「こすり傷で済んでよかったっすよ……マジで……」
海斗が胸をなでおろす。
《ただし、内部システムに一点“予期せぬ項目”を検出》
「出た。嫌な言い方」
戸来が顔をしかめる。
「“予期せぬ”って……爆発しないですよね?」
「たぶん」
「今、“たぶん”って言いましたよね!? 聞き逃さなかったですよ!」
《爆発の兆候はありません》
ミナトが追い打ちをかけるように淡々と言う。
《該当箇所は航法制御サブレイヤー。名称コード──
【NAG-13 Autonomous Emergency Navigation Protocol】》
半透明のウィンドウが、すっと浮かび上がる。
システム階層図の、さらに底の方。
ふつうなら見えないはずの層に、その名前が小さく光っていた。
「……出た、“NAG-13”」
海斗が息を呑む。
「やっぱりただのエラーじゃないのね」
ココが身を乗り出す。
「前にチラ見したときは、“触るな危険”って旗が立ってたやつだな」
戸来が呟く。
《はい。標準マニュアルに含まれない、“追加プロトコル”です。──登録者:不明。設置場所:船体出荷時点。改変履歴:なし(ログ消去の可能性あり)》
「ミナト。仕様書、出せるか?」
《試行します》
ホログラム上で、“NAG-13”と書かれた小さなブロックが拡大される。
その瞬間、画面に赤い警告が走った。
──ACCESS VIOLATION──
──PERMISSION DENIED──
──CALLER AUTHORITY: CIV-3(民間級)──
《アクセス権限不足。内容の閲覧は“軍級”以上の権限が必要です》
「軍級か……」
戸来が低く唸る。
「でも、この船籍、完全に“民間輸送船”ですよね?」
「そのはずだ。少なくとも書類上は」
ココが顎に指を当て、目を細める。
「ミナト。“閲覧”じゃなくて、“解析”は?」
《仕様書アクセスなしでの解析を試行します。──プロトコルの構造分析──開始》
ホログラムの一部が、複雑なシンボルと線の網目に変わる。
一瞬、立体迷路のような構造が浮かび上がり──
ぷつん、と、その図がブラックアウトした。
《……エラー》
「今、気のせいか? “ちょっと躊躇してから落ちた”よな」
戸来が呟く。
《補足説明:解析を開始した瞬間、“自己検査フック”が作動しました。NAG-13は自分自身を検査し、“外部からの覗き見”を検知すると、構造を偽装する仕組みを持っています》
「……性格悪っ」
海斗が顔をしかめる。
《構造の断片から推測される機能──“外部から航路情報を強制入力するインターフェース”“通常の航法AIを迂回して、船体制御へ直接アクセスする経路”“特定条件でのみ起動する判定ルーチン”》
「つまり簡単に言うと?」
戸来が尋ねる。
《簡単に言うと──“誰かが外から航路を教えて、ナギサを勝手に動かせる”そのための裏口、です》
「いや、簡単に言わないでほしかった……」
海斗が頭を抱える。
「自律航法AIの上に、さらに“軍級のハンドル”が乗ってるってことね」
ココの声には、明確な警戒が混じり始めていた。
「ミナト。NAG-13、起動履歴は?」
《記録上の起動履歴は、“ゼロ”です》
「“記録上”ね」
戸来が言葉を継ぐ。
《はい。“記録そのもの”がない可能性があります》
「つまり、動いたかどうかも、本当は分からない」
「そう。ただ──」
ココがモニタを叩く。
「一つだけ、確実なことがある。“こんなもん、最初から載せる船じゃない”ってこと」
「そうなのか?」
「民間輸送船のカリキュラムで、こんなの見たことないわよ。軍の試作艦か、特務船級の仕様。……ミナト。造船記録、追える?」
《試行します。造船ドックID、製造番号から本来アクセスできるはずの記録をリクエスト》
数秒の静寂。
やがて、画面にいくつかのステータスが流れる。
──REQUEST TO: GA SHIPYARD ARCHIVE──
──CHECKSUM ERROR──
──RECORD NOT FOUND──
──MIRROR ARCHIVE SEARCH……──
──PARTIAL METADATA FOUND──
《結果報告。──造船時の詳細記録は“削除済み”──バックアップミラーから断片的なメタデータだけ取得できました》
「断片って、どの程度?」
ココが身を乗り出す。
──造船ドック:GA火星軌道ドック第三ライン──
──設計番号:**********試験艦──
──プロジェクト名:NAG-*********──
《マスクが施されている部分は読み取り不能でした》
「NAG……」
戸来が小さく息を吐く。
「NAG-13の“NAG”か」
《その可能性は高いです》
「記録自体が消えてるって、ありえないですよね?」
海斗が不安そうに問う。
「ありえるわよ。普通じゃない運用をしてた船なら」
ココは淡々と答える。
「たとえば、後ろ暗いテスト運用とか。あるいは、正式公開前の“黒い実験”。そのテストベッドに、たまたまこの船が使われてた、とかね」
「たまたまってレベルじゃない気もするけどな……」
戸来は唇を噛む。
「NAG-13が起動した瞬間、ナギサの“操縦権”は全部そっちに持っていかれる可能性がある。ミナトは?」
《はい。その可能性が高いです。NAG-13は航法AIを“補助”するのではなく、“上書き”する構造を持っています》
「じゃあ、もしこれが火星航路で動いていたら……」
海斗が想像しかけて、顔を青くした。
「誰かが、俺たちの知らない航路を外から指定できる」
戸来が静かに言葉を継いだ。
「場合によっては、そのまま“どこか別の場所”へ送られる」
「“どこか”って……どこっすか」
「さあな。イオの地下かもしれないし、誰も知らない宙族の港かもしれないし、木星の大気の中かもしれない」
「やめてくださいよ!」
ココが少し考え込む。
「……ミナト。“火星での航路ログ”と、“NAG-13の異常検知ログ”、何か一致はない?」
《照合します》
ホログラムに、火星圏での航路が立体投影で浮かび上がる。
赤い線が〈ホシノナギサ〉の軌跡。
ところどころに、黄色い点が点滅した。
《この黄色い点が、“NAG-13の監視フックが反応したタイミング”です》
「見事に……火星近傍ばっかりですね」
海斗が顔をしかめる。
「手動での軌道変更や、宙族との接触時。それと──謎の軍籍船波形が検出された時間帯」
ココの声が低くなる。
「全部、反応してる」
「ってことは、あの時も、“誰か”はこの裏口から俺たちを見てたかもしれないってことか」
戸来が呟く。
《補足:NAG-13は、まだ“完全には動いていない”印象です。ただし、“起き上がる準備”はしていた》
「起き上がる準備……」
海斗が背筋を撫でられたような顔をする。
「つまり、見られてた上に、“いつでも乗っ取れますよ”って段階まで行ってた可能性があるってことですね」
「そういうことになる」
ココは腕を組み、ふうっと息を吐いた。
「危険ね。正直言って、これを抱えたまま航海するのは怖い」
「じゃあ、切るか?」
戸来が問う。
《反対です》
ミナトの声が即答する。
「……珍しいわね。即答で“反対”?」
《NAG-13は危険な裏口ですが、同時に“情報源”です。これを完全に切り離すと、誰が、どこから、何をしようとしているのか、二度と追えなくなります》
「監視カメラを怖いからって、レンズ叩き割ったら、それ以上“誰が見てたか”分からなくなる、ってこと?」
ココが言う。
《そうです。ですから──》
ミナトの声がわずかに低くなる。
《提案があります》
「聞こう」




