エピソード15、ココとミナトと影と
翌朝、三人はC-7ドックへ向かった。
火星の朝は静かだ。赤い太陽が地平線から這い上がり、ドームの透明壁を染めていく。
薄い空気が喉に刺さるように冷たい。
だが、胸の熱は消えない。
今日から──〈ホシノナギサ〉を、木星航路に耐えられる船に作り変える。
ドックのゲートが開くと、メカ整備音が広がる。
だが、〈ホシノナギサ〉の周囲だけは妙に静かだった。
「おはよう、ナギサ」
戸来が船体に触れると、ひやりとした金属温度が指に伝わる。
それは、これから始まる長い航路の緊張感そのものだった。
「よっしゃ、始めっすよ!」
海斗は工具箱を開けてすぐ作業に取りかかった。
ココは航法管理AIモジュール“ミナト”の接続ユニットを調整している。
「“ミナト”のログ……やっぱりおかしい。これ、私たちが到着する前に“火星側の誰か”が触ってる」
「そうだろうな。で、犯人の特定はできるのか?」
戸来が問う。
「ログは完全に消されてる。でも、削除の仕方が“下手”なのよ。プロの中でも“粗削り”。火星の港管制じゃない。もっと……個人的。雑。」
「やっぱりGAっすか?」
海斗が不安そうに言う。
「断定はできない。でもあなた達から聞いた話だと、そうとしか思えないわね」
その言葉に、ドックの空気がわずかに重くなる。
「まぁわかってたことだ。だから木星行きを決めたんだし。後押しをしてくれたんだと思おう」
空気を変えるように、ことさら明るく戸来は言った。
航法計算、軌道予測、衝突回避、緊急時のルート補助……
全てが“ミナト”に集約されている。
ココの手によって、新たに音声出力ユニットを追加された“ミナト”は、今までとはまるで別ものだった。
「ミナト、起動するわよ」
ココが声をかける。
手元のタブレットに、起動シーケンスが流れ始めた。
数秒の沈黙。
モジュール内部に、淡い青色の光が灯る。
最初は弱く、脈打つように明滅していたが──
やがて安定し、一定のリズムで呼吸するように光り始めた。
海斗が思わず息を飲む。
戸来も、無意識に作業の手を止めていた。
《……ココ?》
声が響く。
合成音声だが、どこか迷うような、眠りから覚めたばかりのような響きだった。
《これは……再起動? 私は……どのくらい眠っていた?》
「2週間よ。火星でメンテナンスのために停止してた」
《記憶にある。だが――》
ミナトが一拍置く。
《記憶が……欠けている。航法データの一部が消失。ログに空白がある》
ココの表情が引き締まる。
「気づいてたのね」
《違和感は認識していた。だが、原因を特定できなかった。外部からの不正アクセス……だが、防御権限が不足していた》
「火星の誰かに触られたのは確実か?」
《推測:港内からの非公式アクセス。確率87%。だが所属は特定できない。作業は拙劣。目的は……不明》
戸来が腕を組む。
「理由が読めないのが一番怖いな」
《ただし──》ミナトが一拍置く。
《私の結論は出ている。この船は、長距離航路に出るべきだ》
「なぜ?」
ココが問い返す。
《火星は、揺れている。情報ネットワーク、企業群、航路。いずれいくつかが衝突し……“船”が巻き込まれる》
「……あなた、危機予測モデルまで自分で組んだの?」
《私は“生かすためのAI”。安全な近距離の火星航路より、危険な木星航路ほうが、この船の安全係数は高い》
ココが吹き出す。
「相変わらず、優先順位がはっきりしてるわね」
海斗がAIコアに向かって拝んだ。
「ミナト! よろしく頼むっすよ! 一年間の長旅、俺たちを生かしてください!」
《了解。“あなたたちは、生きて帰る”。それが私の使命》
その言葉が、三人の背筋を伸ばした。
〈ホシノナギサ〉の燃料タンクと配管は、火星砂によって微細な汚れが蓄積していた。
「これ……全部換えるんすか?」
「全部だ」
戸来が即答する。
「長距離航路で燃料ラインに異常が起きたら、即“死ぬ”。木星航路上で故障したら救助はまず来ない。だから……ここで全部やる」
「よっしゃ! 覚悟決めた!」
三人は工具を手に取り、作業に没頭した。
火星砂は顕微鏡レベルの粉末で、金属の隙間に入り込みやすい。
配管を一本一本外し、砂の付着を完全に取り除く必要がある。
ココがふとつぶやく。
「この作業……嫌いじゃない」
「意外だな」
戸来が言う。
「"整える"のって、気持ちいいじゃない。宇宙に出る前に、全部きれいにしておきたいの」
海斗が笑いながら言う。
「Aクラスって、みんな几帳面なんすか?」
「違うわ」
ココは手を止めずに答えた。
「ただ、私には……失敗できない理由があるの」
その言い方に、戸来は一瞬だけ彼女を見た。
(……やはり、何かあるな)
だが、今は聞かない。
彼女が言う時まで待つべきものだ。
夕方、船内の更新作業がひと段落し、
戸来は船長席のハーネスと操作レイアウトの調整に入った。
海斗は貨物スペースの清掃。
ココは航法支援装置のテスト。
──その時だった。
海斗の手が止まる。
「……ん? 人影?」
海斗がかすれた声をあげた。
「戸来さん……あれ」
「どうした」
「外……」
海斗の視線が、ドックの外を指す。
戸来が顔を上げた。
──瞬間、息が止まった。
通路の奥。
暗がりの中に、人影。
薄緑のジャケット。
防塵マスク。
そして──動かない姿勢。
昨日、ポートで見た影だ。
「……ココ」
戸来が静かに呼ぶ。
「見えてる」
ココは既に気づいていた。
「約50メートル。カメラの死角」
海斗の心臓が、激しく跳ねる。
「あれ……俺たちを……」
「見てる」
戸来が言った。
「間違いない」
影は、微動だにしない。
まるで絵画の中から抜け出してきたように、静止している。
だが──確かに生きている。
呼吸している。
そして、こちらを観察している。
海斗の手が、わずかに震えた。
(何で……何で俺たち、こんなに見られてるんだ……?)
時間が引き延ばされたように感じる。
数秒が、数分にも思えた。
そして──
影が、動いた。
ゆっくりと、身体の向きを変える。
まるで「確認は終わった」とでも言うように。
右へ。
一歩。
影が薄くなっていく。
また一歩。
暗がりへ溶け込んでいく。
そして──消えた。
足音は、聞こえなかった。
火星の砂が、すべてを呑み込んでいた。
沈黙。
「……行った、っすね」
海斗の声が、か細く震える。
「ああ」
戸来は拳を握りしめた。
手のひらに、汗が滲んでいる。
「あいつ……何だったんすか。何しに……」
「確認でしょ」
ココが言った。
声は冷静だが、その目は鋭かった。
「私たちが何をしているのか。どこへ行こうとしているのか。それを──観察していた」
「じゃあ、もう……バレてるってことっすか?」
「バレてるも何も」
戸来が深く息を吐く。
「最初から、俺たちは"見られてた"んだ。〈ホシノナギサ〉が火星に来た時から──ずっと」
海斗の顔が青ざめる。
ココは腕を組み、消えた影の方向を見つめた。
「……どちらにしても、木星へ出るのは正しかったのよ」
その声に、迷いはなかった。
「火星に留まれば──いずれ、"向こう"から接触してくる。それは避けたい」
「でも、木星に行っても追ってくるんじゃ……」
「木星まで追ってくる理由があるなら」
ココが海斗を見た。
「それはそれで──私たちが何か"価値あるもの"を持ってるってことよ」
戸来は、ココの横顔を見た。
(……この子は、何かを知っている)
だが今は、聞かない。
聞くべき時が来るまで──待つ。
「作業を続けるぞ」
戸来が立ち上がった。
「影に怯えてる暇はない。木星へ行く準備を──完璧に仕上げる」
海斗が深呼吸する。
「……わかりました」
三人は再び、工具を手に取った。
だが──
心の奥底に、冷たい視線の記憶が、刻み込まれていた。
戸来は自分の手を強く握りしめた。
(……絶対に、動じるわけにはいかない)
「ミナト。航法テストを続けろ。俺たちは予定通り木星へ行く」
《了解。“恐怖より目的を優先”。あなたの判断は合理的》
その言葉が、胸の奥の迷いを消していった。
三人は夜まで作業を続けた。
外では火星の赤い夕日が、ゆっくりと沈んでいった。
「よし……今日はここまでだ」
戸来がレンチを置き、息をつく。
「ちょっと早いけど、〈ホタル〉に行きましょう」
ココが言う。
「嘉瀬さんが、今日“最終の話”するって言ってた」
海斗も立ち上がる。
戸来は船を見上げる。
外殻は新品のように白く、
内部配管は火星砂一つ残っていない。
AIも整い、航法も整備された。
あとは──心を整えるだけ。
「行くぞ」
戸来が立ち上がる。
「火星を発つ前の、最後の夜だ」
三人はドックを後にした。
赤い光が、長い影を引いている。
〈ホタル〉へ向かう足音だけが、静かに響いた。
その背後で──誰かの視線が、ゆっくりと動く。
だが、三人はもう振り返らなかった。
前だけを見て、歩き続けた。




