エピソード14、赤いネオンが灯る場所
火星都市アウロラ・プレートの中央区。その一角に、地球の下町を思わせる路地がある。
赤茶けた砂壁の街並みの中で、そこだけが妙に温かい光を放っていた。
〈ホタル 火星支店〉
看板には大きくそう書かれていた。
月の〈ホタル〉と同じ名前。
佐渡の古い知り合い──彼が惚れ込み、酒なら一生通うと断言した店だ。
「うわ……地球の居酒屋、そのまんまじゃん」
海斗が目を丸くする。
「いや、空気の癖は火星だよ」
ココが苦笑する。
戸来は店の暖簾を見つめた。
ここから先で“人生の舵”が変わる予感がしていた。
店に入ると、火星とは思えないほど人の声が響いていた。
合成ホップの匂い。焼き物の香り。
そして、壁に飾られた地球の古い写真。
その奥──
カウンター越しに佇む一人の男がいた。
カウンターの奥に立つ男、嘉瀬航平。
月のオーナー室で、軽く挨拶を交わした時とは雰囲気が大きく違って見えた。
無駄のない体格、鋭い目つき。そして──佐渡と同じ、宇宙を渡ってきた者の空気を纏っていた。
「引き継ぎは終わったんか」
低く、短い第一声。
それだけで、この男が言葉を選んで生きてきたことが分かった。
「はい。〈ホシノナギサ〉を……引き継ぎました」
「引き継いだ、じゃない。託されたんだ。あいつが大事にしてきた“人生全部”を、な」
嘉瀬は口をつぐみ、戸来をしばらく観察した。
「佐渡とはもう四十年の付き合いや。アイツが『戸来に任せたい』と言った時点で俺は覚悟した。だから──」
「佐渡さんとはどこで?」
「同郷なだけや。きっかけは有ったのだろうけど……忘れたわ」
「それで言葉が」
「ときどき出るな。客商売だから気をつけてはいるんだが。よほど濃いDNAなんやろな」
嘉瀬は手を軽く上げた。
「まぁ細かい話は奥の個室で。火星で船の行き先を決める話は、表ではできん」
案内された個室は、火星とは思えないほど静かで広かった。
防音壁、遮光ガラス、盗聴防止フィールド。
“話していい話”と“話してはいけない話”が混じる空気だ。
嘉瀬はテーブル中央に地図デバイスを置いた。
火星・木星・補給基地〈メンバメイ〉〈コボルスミ〉──
宇宙航路の線が浮かび上がる。
「まず、お前らに聞きたい。──なんで木星へ行く?」
海斗が息を飲む。
ココが戸来へ視線を送る。
戸来はゆっくりと答えた。
「火星は……静かすぎる。でも近くで大きな争いが始まる兆しがある。企業も国も、誰もそれを止める力を持っていない。その中で輸送船を走らせるのは……危険すぎる」
「理由はええ。じゃあ“目的”は?」
戸来は迷わず言った。
「生きたいからです。でもただ生きるだけじゃなく──〈ホシノナギサ〉が“役に立つ場所”で生きたい」
嘉瀬は長い沈黙の後、笑った。
「……佐渡が選ぶわけや。やっぱりお前、良い目してる」
海斗が胸を張る。
「俺も行きます! 戸来さんと一緒に木星まで!」
「アホやな。でもアホが宇宙では一番強い」
嘉瀬はココに視線を向ける。
「お嬢さんは?」
「……所属より、共に行く人が大事です。それだけです」」
嘉瀬の目が鋭くなった。
「お前……軍系か、企業研究系か、どっちだ」
「それは──いまは関係ありません」
「言わんでいい。ただ、一つだけ確認させてくれ」
嘉瀬は前のめりになった。
「"裏の勢力"に繋がってないな?」
空気が凍った。
海斗がごくりと喉を鳴らす。
戸来も思わず息を止めた。
ココは嘉瀬の目を真っすぐ見つめた。
数秒の沈黙。
「……繋がっていません」
嘉瀬の視線が動かない。
「むしろ──」
ココの声が、わずかに震えた。
「逃げてきています」
「よし。じゃいい」
嘉瀬は頷いた。
「木星を目指す以上、“火星の裏組織”“GAの影”……あらゆるものが、お前らを一度は試してくる」
「PRの圏内にもGAが……?」
海斗が小声で尋ねた。
「当然おるわ」
嘉瀬が苦笑する。
「火星の資源開発で先頭走ってるんはGAや。PRはあくまで"政治的な管理者"やけど、実質的な開発権の半分以上はGAが握っとる」
「じゃあ……」
戸来が言葉を継いだ。
「木星でも同じことが起きる?」
「いや、木星ではGAは出遅れとる。せやから今、必死で巻き返そうとしてる。──それが一番厄介なんや」
戸来の背中に冷たい汗が走る。
「武力行使とかも?」
あのアーケルシアでの影。
ドックで気づいた視線。
「正面切っての衝突はないけど、裏ではそれなりに血流れてるな。きっちり国境が引かれてないだけ、ややこしいことになってる」
嘉瀬は一呼吸おいて、口調を和らげて続けた。
「だから──『今のうちに木星へ行け』と佐渡は言ったんだろな」
嘉瀬は引き出しから冊子を取り出し、テーブルへ置いた。
「これは〈ホタル〉火星支店の名前で出せる“支援パス”や。人工惑星〈メンバメイ〉〈コボルスミ〉の使用料を二割引にできる」
「二割!?」
海斗が跳び上がる。
「この航路で二割は……デカすぎる」
戸来が息を呑む。
「それだけやない。補給食、水再生カートリッジ、医療ゼロキット……うちの店の“裏の倉庫”に少しストックがある。それをお前らの旅立ちに、分けてやる」
「……いいんですか」
「佐渡の顔に免じて、や。あいつの人生を託された船と人なら、俺も協力する価値がある」
嘉瀬はさらに言った。
「ただし──」
空気がひりついた。
「“誰にも頼るな”。人工惑星も、火星も、企業も、国も。木星航路に出るということは、自分の命を“全部自分で決める”ということや」
その言葉は、三人の胸を強く揺らした。
ココだけが小さく頷いた。
「……わかってます」
戸来は静かに尋ねた。
「ひとつだけ。木星に着いたら……俺たちは何をすればいい?」
嘉瀬は笑った。
「そんなもん──“自分で見つけてこい”や。宇宙での仕事は、たいてい“その時そこにいる運次第”で決まる」
そして嘉瀬は、三人をゆっくり見渡した。
「──行け。火星でくすぶるには、お前らは強すぎる」
その言葉で、三人の覚悟が固まった。
「支援の準備、すぐ進める。船は明日から“最終仕上げ”に入れ」
ココが立ち上がった。
「じゃあ……明日から本格的に“木星へ向けて”動きます」
「よし。この店はな、火星で“第二の故郷”にしとけ。旅立つ前にまた寄れ」
「ありがたくそうさせてもらいます」
戸来ははっきりと答えた。
嘉瀬は笑い、手をひらひらと振った。
「ここは“帰る場所”として置いとく。生きて帰ってこい。宇宙で迷ったら、火星に戻ってきてええ」
嘉瀬は軽く笑った。
「ただし──飲み食いの金は、ちゃんと払ってや」
戸来は深く頭を下げた。
海斗もココも、無言で続く。
嘉瀬は手を振って制した。
「礼はええ。生きて帰って来いや。それが一番の恩返しや」
三人が店を出る時、嘉瀬は最後にこう言った。
「火星の赤い空が恋しくなったら、いつでも戻ってこい」
──それは、火星で初めて"帰る場所"をもらった瞬間だった。




