エピソード12、赤い地表と乾いた風
〈アーケルシア02〉は火星軌道に入ると同時に減速を始めた。
船体を震わせる摩擦熱が、窓の外をオレンジ色に染める。
海斗が息を飲む。
「うわ……火星、大気薄いくせに、やっぱり迫力ありますね」
「落ちつけ。大気圏の“ふり”をしているだけだ」
戸来が平然とモニターを眺めながら言う。
戸来は火星の地表を見つめた。
赤茶色の荒野。砂塵の筋。巨大クレーターの影。
つい最近まで“脱出”するように離れた場所だ。
だが今は、胸の奥に妙な安心が広がる。
──帰ってきた。
そして、ここからまた出発する。
火星ポートC-7が近づき、〈アーケルシア 02〉は低重力の中へ静かに滑りこんだ。
着陸後、船を降りると、火星特有の乾いた空気が喉にまとわりつく。
ポート外壁は以前より清掃されていたが、埃っぽさは健在だ。
しかし──
今回は、以前にはなかった“目”を感じた。
壁の影に立つ数名の係官。
無言でAI端末を操作し、通過者の顔を読み取っている。
誰も声をかけてこないが、データとして記録され続けている感覚があった。
「……ハンパない監視っすね」
海斗が小声で呟いた。
「まあ、前にあなたたちが、アレだけ“賑わせた”からでしょ」
ココが肩をすくめた。
戸来は頷きつつ、目の端で周囲を確認した。
先日の〈アーケルシア 02〉で見た“灰緑ジャケットの男”はいない。
だが、もっと“職務的な影”が増えている。
火星の空気の中に溶けて、それでも存在感だけが確かにある。
「……気にするな。ここは通過点だ」
そう言って歩みを進めると──
ポート通路の先に、人影が見えた。一瞬緊張したが、近づくその姿は見慣れたものだった。
作業服姿で、砂まみれ──
「お、お前ら……!」
佐渡銀造だった。
作業服に砂をつけたままの佐渡銀造が、ぼさぼさ頭で手を振っていた。
「船長! 来てたんすか」
「佐渡さん!」
海斗とココが駆け寄り、戸来も歩みを速める。
佐渡は周囲に目をやり、三人に向かってニヤリと笑った。
「いやぁ……お前ら人気もんやな。あちこちから見られてるで」
「あなたが言います?」
ココが軽く笑う。
「居酒屋の店主に、そこまでの人気はないで」
佐渡は笑って返した。
「それで、どうやってここまで?」
戸来が尋ねる。
「〈ホタル〉のオーナーの船や。火星店に物資を運ぶ船に便乗させてもろた」
「春海さん、放っといて大丈夫なんすか? 怒られますよ」
「母子共に安定しとる。臨月もまだ先やしな。それに、火星に行ってちゃんと引き渡して来いって言うたんは、春海やしな」」
その言葉に、三人とも胸を撫でおろした。
「さて──」
佐渡がグッと身体を伸ばす。
「今日の本題や。〈ホシノナギサ〉の引き渡し……準備、できてるで」
海斗が思わず唾を飲んだ。
「マジっすか! うわ、いよいよっすね……」
「せやで。C-7の奥や。案内するわ」
佐渡は歩き出し、その背中は火星の薄い重力のせいか心なしか軽かった。
ドックC-7は、一般作業区から少し離れた小型船専用の格納庫だ。
火星の赤い光が差し込み、影を長く引いている。
格納庫内は乾いた静けさに満ちていた。
そして──その中央に立っていた。
白く、細身の船体。
以前より補修され、外殻が新しく塗り直されている。
青いラインがまだ乾いていないように輝いていた。
宇宙船〈ホシノナギサ〉。
再び、ここに帰ってきた。
戸来の足が自然に止まる。
胸の奥で、何かがゆっくり温度を取り戻していく。
「……帰ってきたんだな」
「せやで。ワシのかわいい“娘”や」
佐渡が船体を軽く叩く。
「書類上の船長は戸来、整備主任が海斗、航法・操縦がココちゃん。ええメンバーや。これならワシも安心して店のカウンター立てるわ」
「本当に……店、始めるんですね」
海斗が言う。
「そらそうよ。春海とまだお腹にいてる遥香。家族で大人しく暮らすんが、一番の贅沢で……安心や」
佐渡はそう言うと、戸来へ向き直り、手に持ったケースを差し出した。
「ほな──戸来。
これはお前のもんや」
ケースを開くと、中には磁気式の船長キーが一本。
火星での修理記録、航法データ、船籍情報……
すべてがこの一本に収められている。
戸来はそれを受け取った。
その瞬間、体温が変わるような感覚があった。
責任。
航路。
仲間。
希望。
すべてが、この小さなキーに詰まっている。
「……受け取った。必ず大切にする」
「ええ顔や」
佐渡は満足そうに笑った。
「ほな、次は――お前ら三人で決めぇ。〈ホシノナギサ〉を、どこへ連れていくんか」
「決まってますよ」
海斗が胸を張る。
「火星から──木星へ」
「エウロパ、やな」
佐渡が笑う。
「棲み分けがまだ効いてるうちに、行っとけ。開発が本格化したら、また争いごとが始まる。でも……今ならまだ、宇宙は静かや」
その瞬間、ドックの奥で“わずかな気配”が動いた。
ココがピクリと眉を動かす。
「……気づいた?」
「ええ。さっきから誰か覗いてた。うまく隠れたつもりなんでしょうけど、影の動きが不自然だった」
戸来と海斗も振り向く。
ドックの入り口横の影が揺れ、何かがサッと姿を消した。
「GAの……」
「あれも尾行やな。まあ、いきなり手出しはしてこんやろ」
佐渡は肩をすくめた。
「木星行きの航路に“手”を伸ばす余裕はないはずや。向こうも今、火星で別件に追われとる」
「でも、安心できる状況じゃありませんね」
ココが静かに言う。
「安心なんてどこにもない。せやけど──」
佐渡は白い船体を振り返る。
「お前らの“進む道”は、誰にも止められん。宇宙は、そういう場所や」
戸来は深く頷き、一度ナギサの船腹へ手を触れた。
「行こう。火星で準備を整えて……木星へ出る」
その宣言は、静かなドックの空気を震わせた。
火星の赤い光が、〈ホシノナギサ〉の白い船体に反射して煌めいた。
新しい航路が、確かに幕を開いた。




