エピソード11、赤い大地の幕開け
〈ホタル〉のVIPルーム。
グラスが空になり、話も一段落した頃、佐渡が最後の話題を切り出した。
「……で、や。戸来が船長やるとして、問題が一つある」
「操縦士、だな」
「そう。ワシは降りる。春海も降りる。海斗は整備とEVA(船外作業)担当。そしたら操縦席が空くわけや」
海斗が鼻の頭を掻きながら言った。
「……一人、いますよ。同期です。クラスは違ってたけど、たまに訓練センターですれ違ってて」
「誰や?」
「ココ・ミキモト。Aクラスっす。俺みたいなDクラスからすると“雲の上”みたいな天才ですけど……腕は確かです」
ココ・ミキモト。
月面訓練学校では名の知れた存在だった。
その名を聞くだけで、教官の顔が引き締まるほどの“操縦精度の鬼”。
戸来は軽く息をつく。
「Aクラスってことは……大手はもちろん、軍からもオファーが来てるだろ」
「それが……火星行き、“まだ決めてない”って噂あるんすよ。自由に飛びたいとか言ってるらしくって、組織としては、優秀な分逆に使いづらいとかなんとか」
「贅沢な話だな」
「ええ。だから……ワンチャン、声かければ来てくれるかも」
佐渡は腕を組み、真剣に考え込んだ。
「火星までの旅費がネックやな……一般旅客は高い。月と違って格安便なんてないし」
「そこは……俺がなんとかします」
戸来が言った。
佐渡と海斗が目を向ける。
「責任背負って船を受け取るなら、仲間ぐらい自分で連れてくる」
「……ほな、任せたで」
そう言って佐渡はグラスを空にし、ゆっくり立ち上がった。
「今日はここまでや。あとは……お前らで決めぇ」
〈ホタル〉を出ると、月面の人工夜は静まり返っていた。
空気はあるが風はない。
遠くでドックの照明が一定のリズムで瞬き、まるで宇宙の呼吸のように見えた。
「……船長、引退かぁ」
海斗がぽつりと呟く。
「寂しいか?」
「寂しいっすよ。だって、俺……ここの船乗りになったのって、船長と春海さんがいたからで」
戸来は、横を歩く若い整備士を横目に見た。
「寂しいなら、それを超える船をつくればいい。船長が“誇れる”ぐらいの」
海斗は一瞬目を丸くし、それから照れたように笑った。
「……戸来さん、たまにかっこよすぎるっす」
「やめろ、気持ち悪い」
そこへ、冷たい月面空気を震わせるように、微かな電子音が鳴った。
──ピッ。
短い通知音。
路地裏の監視ドローンが、三人の頭上をゆっくり横切っていく。
通常の巡回ではない。もっと低く、もっとゆっくり。
何かを──あるいは誰かを──確認しているかのような動き。
「……さっきから多くないか?」
戸来が呟くと、佐渡が上空を睨む。
「あれ、港局の機体やないな……連盟か?」
「いや、あれ……GA仕様のカスタムモデルっす。カラーリングが違います」
海斗が低く言った。
ドローンは光を落とさず、静かに去っていく。
その軌跡に、妙な粘りが残った。
「なぁ……まさか」
「心配するな。直接の接触はない。……今のところは」
佐渡はそう言ったが、表情には警戒が滲んでいた。
「GAだけやない。火星に行けばPRもEUもおるし、エウロパには企業連合の目もある。けど──宇宙は、誰のもんでもない。怯えて縮こまっとったら、何も始まらんで」
戸来はその言葉を、噛みしめるように胸に刻んだ。
病室への見舞い、貨物区画の整理、補給路の調査……忙しい日々が続いた。
そんなある朝、戸来の端末に一通の通知が届く。
──【船籍変更申請:承認】
──【引き渡し:火星C-7ドック】
──【現在、整備点検中。作業完了予定、二ヶ月以内】
短いメッセージの後、佐渡からの個別連絡が続いた。
《いよいよやな。準備急げよ》
端末を握る手に、自然と力がこもる。
木星へ。
火星のさらに向こうへ。
誰もまだ“普通”に通っていない航路へ。
あの静かな宇宙へ戻る。
もう逃げない。
戸来は深く息を吐いた。
「……行くか。ナギサの初仕事へ」
その言葉は、小さな部屋の中でゆっくりと溶け、
まるで新しい航路の最初の呼吸のように響いた。
月面訓練センターの格納区画。
昼間でも照明が落とされ、薄藍色の光が金属床を照らす。
戸来と海斗が待ち合わせたのは、その奥の実習ブース。
透明のハーフドーム内には古い訓練艇が置かれ、静電音が漏れるだけで人の気配は少なかった。
「ココさん、ここで自主訓練することが多いんすよ。センター側の許可も“黙認”って感じで」
「天才ってのは扱いづらいもんだな」
「ですね。あ、来ました」
海斗が小さく手を上げた。
白いパイロットスーツ、長めの黒髪を一つに括った女性が、ゆっくりとブースに近づいてくる。足音すら計算されているかのような、静かな歩み。
表情は柔らかいのに、眼差しは刃物のように鋭い。
ココ・ミキモト。
かつてAクラスの主席候補と言われ、卒業後は数々の艦隊にスカウトされた“月面の白い亡霊”。
だが、本人はどこも選ばなかった。
「久しぶり、海斗くん」
穏やかな声。
海斗は緊張しつつも笑顔を返す。
「ココさん、お疲れさまっす! 今日は……紹介したい人がいて」
ココの視線が戸来に向く。
まっすぐ、余計な色を一切含まない目。
「あなたが、戸来さん?」
「そうだけど」
「話はだいたい聞いてる。……火星へ行きたいんだって?」
「火星どころか、その先──木星圏まで行く予定だ」
ココの眉が微かに動く。
「本気?」
「本気じゃなきゃ声をかけない。〈ホシノナギサ〉の操縦席を預けたいと思ってる」
「私が? あなたの船を?」
「俺の船……になるらしい」
ココはゆっくりと息を吸い、訓練艇の白い座席を指さした。
「座ってみて」
「え?」
「“本物の操縦士”は、人を見る前に、座り姿勢を見るのよ」
海斗が「出た」と小声で呟く。
戸来はドーム内に入り、古い訓練艇のシートに腰を下ろした。
背筋が自然に伸び、重心は無重力を想定した位置に──
「……ふむ」
横に回り込んだココが腕を組む。
「あなた、戦闘機乗りの癖がある。民間輸送ならもっと身体を沈めて、機体に任せるスタイルにした方がいい」
「厳しいな」
「操縦席は“命綱”だから。適当は許さない」
海斗が耳元で囁く。
「ココさん、こう見えて好き嫌い激しいんすよ。でも、一度認めたら絶対裏切らない人で……!」
「海斗くん?」
ココの声が低くなる。
「ひっ……なんでもないです!」
そんなやり取りを聞きながら、戸来はゆっくり立ち上がる。
「単刀直入に言う。ココさん、俺たちの船に乗ってくれないか?」
まっすぐに目を向ければ、ココは一瞬だけ沈黙した。
そして、小さく笑った。
「……言うと思ってた。火星行きの一般便を予約するか迷ってたところ」
「まじっすか!?」
「ただし一つ条件がある」
「なんだ?」
「“無茶をするなら、私に先に言うこと”。自分の命を私の操縦に預けるんだから、それくらいは対等でしょう?」
戸来は息を呑む。
その言葉は軽い冗談ではなく、本気の誓約のように響いた。
「……わかった。約束する」
「じゃあ決まり。火星まで、よろしくね、船長さん」
右手を差し出され、戸来はその手を強く握り返した。
──クルーが揃った。
数日後。
火星行きの旅客船〈アーケルシア02〉がCドックからゆっくり浮上した。
乗客席は満員に近く、ほとんどが技術者、研究者、補給作業員。
その中に、戸来・海斗・ココの三人も紛れ込む。
「これが……客船……輸送船の半分くらいの日数で着くんですよね」
海斗がシートに沈みながらつぶやく。
「物資の輸送は緊急以外、コスパ重視だものね」
ココはブランケットを膝にかけながら言う。
「重力ターンまで十数分か……寝るには短いな」
戸来の呟きに、ココがくすりと笑う。
「緊張してる?」
「EVAスーツが近くにないと落ち着かない。それに人任せの船はどうもな」
「なら、色々教えてあげる。火星便の揺れ方には癖があるのよ」
そんな二人のやりとりを、海斗が横目でニヤニヤ見ている。
「まさか戸来さん、惚れ……」
「黙れ」
「痛っ!? な、なんで肘打ち……!」
発進カウントが始まり、機体が低く唸りを上げる。
身体がわずかに押し込まれ、世界が白に弾けた。
月面が遠ざかり、暗い宇宙が広がる。
〈アーケルシア02〉は静かに、しかし確かに、火星へ向かって加速していった。
発進から一時間後。
推力負荷が緩み、機内がざわつき始めた頃──戸来は背中に視線を感じた。
じっとりと、まるで照準を合わせられているような。
誰かが、こちらを見ている。
振り返ると、客の中にひとりだけ“浮いている”男がいた。
薄い灰緑色のジャケット、火星の研究員にしては装備が簡素。
目線は合わない── が、視線の"先"が、常に戸来たちの動きを追っている。
「……海斗」
「なんすか?」
「十時方向。あいつ、訓練センターにもいた」
「マジっすか……あの時の……あの、スーツケースの影からコソコソしてた奴?」
「そう」
ココが横から小声で囁く。
「“GAの影”ね」
「気づいてるのか?」
「しっぽ丸見えよ。分かりやすい監視」
戸来は深く息を吐いた。
まだ始まってすらいない。
火星到着前から、この調子か。
しかし、ココは笑って言った。
「大丈夫。ああいうタイプはね、プラン通りに動かれないと脆いのよ」
「どういう意味だ?」
「火星に着いた瞬間、どっちが獲物か分からなくなるわよ」
頼もしいのか、怖いのか──判別が難しかった。
火星が、視界に入ってきた。
赤い砂嵐が渦を巻き、雲のように漂う。
戸来の胸が、じわりと熱くなる。
「帰ってきた……」
かすかな呟きが、シートベルトの振動に溶けた。
火星第一外郭ポート。
〈アーケルシア02〉は赤褐色の景色の中へ滑り込んでいく。
「ここからが本番ね」
「そうだな」
戸来は、火星の地表を見つめた。
ここで船を受け取る。
ここから、〈ホシノナギサ〉としての新航路が始まる。
火星の赤い大地がその幕開けを、静かに迎えていた。
戸来は拳を握る。
ここから──本当の航海が始まる。
EVAスーツ:船外活動用ユニット一式
真っ赤な、ピッチピチのスーツのことではありません。




