エピソード10、降りる者、進む者
春海の病室は静かだった。静かすぎて、遠くの機器の電子音が、まるで空間の呼吸のように規則正しく鳴っていた。
月面病院の窓は分厚く、外の真空に沈む灰色の風景だけがぼんやりと映っていた。
ベッドに半身を起こした春海は、いつもの真っ直ぐな目で佐渡を見つめていた。
「これからどうするつもりなの? 日本政府はたぶん“監視するだけ”で終わるだろうけど……他の勢力は、動くかもしれないよ」
佐渡は腕を組み、顎に手を当てた。
普段なら軽い冗談を挟んで空気を和らげるところだが、今日はそれがない。
「せやねん。お疲れさんでしたで終われる話やない。まぁ……考えとることはある。もうちょっと整理してから話すわ。……春海の体に障ったらあかんしな」
春海は呆れたように眉を上げた。
それは怒っているというより、“またこの人は一人で抱え込む”とわかっている顔だった。
「何するにしても、私に言ってからにして。事後報告はダメ。あなた一人の話じゃないんだから」
「わかっとる。無茶はせん」
「あなたの“無茶はせん”ほど信用できない言葉ないわよ。戸来さん、お願いします」
不意に話を振られ、戸来は反射的に背筋を伸ばした。
「あ、はい」
佐渡が振り返って言う。
「なんで戸来に言うんや」
「この中で一番慎重そうだから。でも、一人だと一番無茶しそうでもあるけどね」
「……まあ、否定はせんわ」
佐渡は黙り、負けたように立ち上がった。
「ほな、今日は帰るわ。春海、ちゃんと寝ろよ。……遥香も無事で良かった」
春海はピシャリと指をさす。
「勝手に名前決めないで!」
「ええやん、可愛いやろ。ほなな」
佐渡は逃げるように手を振って部屋を出た。
廊下に出た瞬間、海斗は胸を押さえて大きく息を吐いた。
「思ったほど怒られなかった……よかったっす……」
「その分、佐渡さんが怒られたからな。ありがたく思っとけ」
「ですね……ありがとうございました」
遠くで佐渡のどなる声が響いた。
「お前らぁ! 戸来はいらんこと言うし、海斗はソッコーで逃げようとするし! ほんまあかんで!」
「病院の廊下で騒いだら怒られますよ」
「うっさいわ!」
「うるさいのは船長っす」
佐渡は頭をかき、深いため息をついた。
「……はぁ。まあええ。ちょっと相談したいことあるから、〈ホタル〉行くぞ」
「〈ホタル〉って……あの酒場の?」
「せや。オーナー室あるやろ。あそこ借りてる」
「酒場って……春海さんに怒られますよ……」
「おまえ、怒られる怒られるって……怒られるのそんな怖いんか。深酒せんかったら問題ないわ。ほな、行こか」
三人はエレベータへ向かって歩き出した。
静かな月面都市の廊下に、彼らだけの足音が軽く響いた。
月面港の一角にある酒場〈ホタル〉は、昼夜の概念が薄い月でも、なぜか“夜”を感じさせる店だった。
外観は古びているのに、店の奥へ進むにつれて、照明は落ち、客の声は小さくなり、空気が少しだけ深くなる。
「入ってええで」
佐渡が手慣れた動作で奥の扉をノックすると、短く電子ロックが外れた。
そこは“VIPルーム”と呼ばれる、実質的にオーナーの私室だった。
壁には古い月面開拓期の写真が飾られ、棚には年代物の酒瓶が並んでいる。
広くはないが、落ち着いた空気があった。
「おう、佐渡。久しぶりやな」
部屋の奥で手を振ったのは、〈ホタル〉のオーナー。
年代不詳の男で、笑うと一気に若返る不思議な顔をしていた。
「今日は三人か。……まぁ座り。飲み物は勝手に取ってええ」
「助かるわ」
三人が腰を下ろすと、しばらくは雑談が続いた。
航路の近況や月面の噂話、火星の物価の話。
だが佐渡はどこか落ち着かず、グラスを指でなぞり続けていた。
やがて、彼はふっと息を吐き、決意したように口を開いた。
「……今日は、相談や。大事な話や」
戸来と海斗が姿勢を正す。
佐渡はグラスを見つめ、しばらく黙っていた。
やがて顔を上げ、まっすぐ二人を見つめた。
「俺は、船を降りる」
その一言が、部屋の空気を変えた。
照明の静かな明かりが、三人の表情を淡い影で区切る。
「……船長、本気、っすか?」
「本気や」
海斗が言葉を失い、戸来も一瞬、返せなかった。
佐渡は、ゆっくりと言葉を続けた。
「春海も船を降りる。子どもも生まれるしな。……宇宙に縛られたまま生きるには、守るもんが多くなりすぎた」
彼はグラスを置いた。
カランと氷が鳴り、その余韻がやけに長く残る。
「宇宙はまだ好きや。死ぬまで好きやと思う。でも……“好きやから”って、命預けるわけにもいかんのや」
海斗が眉を寄せる。
「じゃあ……どうするんです?」
「ここで居酒屋やる。〈ホタル〉の親父にも話つけた。小さい区画譲ってもらうてな」
オーナーがニヤッと笑い、うなずいた。
「佐渡の料理はうまい。あいつが店やるなら、月面の名物になるかもしれんな」
「料理って……缶詰開けるだけやないですか」
「おまえ誰のせいで缶詰生活しとった思てんねん!」
佐渡が海斗にツッコミを入れ、場が少しだけ和んだ。
だが本題はこれからだった。
佐渡は、テーブルの上に小さな銀のデータチップを置いた。
「……〈ホシノナギサ〉の船籍データや」
戸来の喉が鳴った。
「戸来。お前に、ナギサを譲る」
海斗は目を丸くした。
「戸来さんに!? 船長、本気で!?」
「本気や。月へ戻る途中で考えてた」
佐渡は静かに続ける。
「技量、判断力、そして……あの宇宙を知ってる強さ。全部、お前に信用を預けられる」
戸来は言葉に詰まった。
佐渡の視線は厳しくも、どこか優しかった。
佐渡は手元の端末を操作し、立体投影で航路図を表示した。
赤い火星、巨大な木星、その軌道を結ぶ細い線が浮かび上がる。
「月から火星、火星から木星衛星群……今なら参入する価値がある」
彼は、淡々と、その“利点”を説明した。
・宙族の目撃例はほぼゼロ
・GA(地球圏勢力)は木星圏では弱い
・PR/EU/GAで勢力が棲み分け
・開発初期で、輸送船の需要が高い
・補給拠点として人工惑星〈メンバメイ〉〈コボルスミ〉があり、長距離でも運航可能
・政治衝突もまだ本格化していない
「つまり……やりやすいってわけですか」
「せや。落ち着いとる今のうちに入るのが鉄則や。荒れ出してからじゃ遅い」
佐渡は、地図の火星を指で示した。
「火星までの旅費は高いし、仲間も必要や。そこは覚悟して進めなあかん。けど……チャンスは、今だけや」
静かな沈黙が落ちた。
戸来は航路図を見つめた。
木星の向こうに広がる空虚な黒。
そこに灯る微かな希望。
そして──過去の影。
棚田と引田。
〈ユリカゴ3号〉の、あの静寂。
二人の笑い声は、今もどこかで漂っている。
もう一度、あの宇宙へ。
今度は、失わないために。
戸来は拳を握り、ゆっくり口を開いた。
「……行きます」
「戸来さん!」
「火星–木星航路。……引き受けます」
佐渡は深く頷いた。
「ほな、決まりや」
海斗が席を蹴って立ち上がった。
「俺も行きます!」
「海斗?」
「俺、ずっと思ってたんです。“帰る場所”がどこにもなかった。でも……今なら作れる気がするんです。火星でも、木星でも。どこだっていい」
海斗は不器用に笑った。
「戸来さんの隣がいいっす。よろしくお願いします」
戸来は小さく笑い返した。
「勝手についてこい」
佐渡が天井を仰いだ。
「……お前ら、無茶せえへんようにしてくれよ。ほんまに」
佐渡は深く息を吐き、グラスを傾けた。
部屋の外では、月面都市の灯りがいつものように静かに輝いていた。
GA:大亜細亜共栄連邦
PR:環太平洋連盟
EU:欧州連合




