エピソード9、ガラスの剣と盾
月の希薄な大気圏を抜けた瞬間、〈ハナミズキ〉の外殻がわずかに震えた。空気に噛みつかれたような、ごく短い震え。
その震えが指先まで伝わったとき、戸来は思った。「ああ……生きてるって、こんな触り心地だったっけ」と。
浮力が身体を緩く抱きかかえ、窓の外には銀灰のポート。クレーター縁に設けられた巨大な構造体が、眠たげな光で輪郭を縁取っていた。
「……着陸です」海斗の声が、乾いた金属の甲板にころがった。
操縦席から立ち上がった佐渡が、ひとのびしてから通路へ向かう。月ポートC-2──もしくはドック七番。名前はひどく冷たいのに、彼らには“帰る場所”のただの別名にすぎなかった。
ハッチが開く。しゅわ、と空気が忍び込み、月塵がふわりと舞い落ちる。照明の下で金粉みたいにきらめいた。
一歩踏み出した佐渡の足音が、妙に頼りがいのある響きを返してくる。
「……地面って、やっぱり重いな」
そう言って、佐渡はかかとを確かめるように踏みしめた。戸来と海斗は、互いの顔をちらりと見て頷いた。帰ってきた、って感じがあった。
外で待っていたのは、淡い制服の女性職員。名札には《ロバート部隊補佐官付・カトー》。
迎え……というより、たぶん“ここから先は大人の事情ですので”係の人だ。
カトーは、三人をひとりずつ丁寧に見つめた。その目の奥に、ひっそりと「無事でよかった」が忍ばせてある。職員のプロらしからぬ、やわい感情だった。
「お疲れさまでした。こちらへどうぞ」
声は落ち着いていて、機械的ではない。だが、どこか仕事帰りの夕方みたいな余韻も含んでいた。
佐渡が頭を下げ、その後ろを戸来と海斗がついていく。廊下を抜けて、専用エレベーターへ。昇降音が胸のあたりを撫で、三人の鼓動を静かに並べていった。
エレベーターが止まり、ドアが左右に割れた瞬間、空気の温度が変わった。
会議室はやけに静かで、壁そのものが“ここで嘘をつくな”と睨んでくるようだった。
淡いグレーの壁面、クレーター光が窓から滴るように射し込み、テーブルには黒い影を落としている。
日本側職員が三人。
名札は「外宇宙調整局・村上」「技術監査官・林」「輸送契約部・奥田」。
三人とも黒スーツで、固く結んだネクタイが縄のように喉を締めている。
最初に口を開いたのは村上局長。書類を軽く押さえながら、目だけが笑っていなかった。
「まずは、お怪我なく戻られて何よりです。我が国としても、今回の事態を重く受け止めております」
その“重く”のひと言が、鉛みたいに机に落ちる。
佐渡が「ありがとうございます」と返した声は落ち着いていたが、指先が微かに震えた。
林監査官が資料を開く。
紙の擦れる音が、まるで刃物を研ぐみたいに鋭い。
「確認されている事実です。
・輸送船〈ホシノナギサ〉、火星ポート進入軌道から逸脱
・宙族と思しき輸送艇二隻と接触
・軍籍船の波形痕跡を確認──」
“軍籍船”に差しかかった途端、海斗がびくりと肩を跳ねさせた。
林は、それを見逃さなかった。視線だけが、獲物を捕まえる蛇みたいに細くなる。
奥田が、柔らかい声で割って入る。
「一点、念のため。軍籍船の“関与”にあたる決定的な証拠──お持ちですか?」
言い方は丁寧なのに、“言わない方がいいですよ”が含まれている。
「波形痕跡だけでは断定できませんし、外交カードとしての扱いもありますので……詳細をお願いします」
佐渡が静かに息を吐き、視線を下ろす。
「……実際、軍の船影は見ました。ただ、襲ってきたのは宙族です。軍の直接関与はありませんでした」
その一言で、室内の空気がほんの少し沈む。
“そう答えると思っていたよ”という沈み方。
村上がペンを回しながら言う。
「では“軍籍船の目撃証言”として扱います。口外は避けていただく方向でよろしいですね。ご安心ください。情報保護措置は万全です」
“ご安心ください”だけが妙に丁寧で、逆に怖かった。
佐渡がうなずく。
「はい。三人でそう決めています」
林が黙々とチェックを入れ、奥田が淡々と言う。
「輸送船〈ホシノナギサ〉ですが、積荷と船体は日本側で引き取り済みです。火星ポートでの最終引き渡しは三ヶ月後の見込みです。よろしいでしょうか?」
「……三ヶ月」海斗が小さくつぶやく。
「はい。必要な措置ですので」
奥田の笑顔はホテルのフロントと同じ角度だった。
村上が締めるように軽く頭を下げる。
「本件、“保護的措置”として進めます。皆さまのご協力に感謝します」
その“感謝”がどこまで本気なのか、誰も判断できなかった。
三人が会議室を出たとき、温度だけが背中に貼りついて追ってくるようだった。
部屋を出ると、海斗が小声で戸来に寄る。
「…………“口外禁止”とか“情報保護措置”とかって、あれ、脅しっすよね?」
戸来は海斗の肩を軽く叩き、苦笑した。
「仕方ないさ。軍の船影なんて、喋れば剣、黙れば盾だ」
佐渡が横から口を挟む。
「“国”対“国”なら鉄やけど、俺ら庶民やとガラスの剣に、ガラスの盾や。使ったらだいたい自分が怪我する。騒がんかったら、一応守ってくれる。証言は外交カードやしな。〈ホシノナギサ〉が返ってくるんも、ログとデータのバックアップ全部とってからや」
「だから三ヶ月……」海斗が頭を抱える。
「そゆことや」佐渡は肩をすくめた。
「GA側も、さすがに全データの改竄は船ごと消さなきゃ無理だろうし、証拠は残るよ」戸来が補足する。
「個人端末もっすか?」
「もちろんや」佐渡。
「えーー! それは……」海斗は青ざめる。
「どうせエロ動画の心配やろ」佐渡が鼻で笑った。
「ちょ! “宇宙美少女きらめき★マミたん”コレクションが!」
「あほくさ」二人の声が通路にこぼれた。
そんなやり取りをしながら、医療棟へ向かうポートの通路を歩く。
壁に等間隔で並ぶ監視カメラが、瞳を動かす生き物のように三人を追う。重力は軽いのに、心はやけに重かった。
医療棟の扉をくぐると、ほんのり暖かい灯りと人の気配があった。
春海がベッドに横たわり、薄い寝具に包まれている。酸素マスク越しに、わずかに胸が上下していた。
「春海……戻ってきたぞ」
佐渡の声が、機器の小さな電子音に吸い込まれる。
春海のまぶたが、ほんの少し遅れて、静かに持ち上がった。
「……船長。無茶したわね」
声は細いが、芯は折れていない。
佐渡はうつむき、すぐ顔を上げて言った。
「すまん。……でも、生きて帰ってきた」
「そう。生きて帰ってきたって、面と向かって言われる日が来るなんてね」
春海は小さく笑った。その横で機器のLEDが、穏やかな心拍みたいに点滅している。
「で、全部話してくれる?」
春海が上体を起こしながら、じぃっと佐渡を見た。
「えっと……言えんこともあるんやけど……」
佐渡の声が、妙に小さくなる。
「私に隠し事する気?」
眉がぴょこんと跳ねた。
佐渡はピン、と背筋を伸ばし、戸来と海斗もあわてて椅子に座った。
「ちゃ、ちゃうねん。えっと、あの──」
結局、佐渡はつかえながらも、端から端まで全部話した。
春海はあきれ顔でため息をつく。
「……あなたたち、どんだけ無茶してるの?」
佐渡の背筋がさらに伸び、戸来は膝を見るふりをして逃げ、海斗は天井を眺めて現実逃避した。
「無事ならいいけど、無茶は無茶よ。燃料使いすぎ、船も積荷もほぼ放置。船盗んで許可なく離陸、って……まあ今更怒っても仕方ないけど」
春海はしっかりした声で続ける。
「で、日本の保護って当てにできるの?」
「……わからん」
佐渡が静かに言う。
「宙族と軍の件は、今までも都市伝説みたいに噂では広まっとるし、大騒ぎせんかったら監視つくぐらいで済むと思う」
「そう……じゃあ“大騒ぎ”したら?」
「事故に遭うやろな」
「あの時みたいに」
「せやな……」
唐突に出た単語に、海斗がビクッとする。
「“あの時”ってなんすか?」
「昔のこっちゃ。今も昔も、理不尽はおっきな手の上にあるんや」
佐渡はどこか遠くを見た。
「は? 余計わかんないっす」海斗は頭をかいた。
「まあ、飲み屋でその話題出たら席離れるこっちゃ」戸来がぼそりと言う。
「はぁ……」海斗はますます混乱した顔になる。
「しばらくは深酒控えて、おとなしくしときなさい。佐渡さんもよ」
春海が釘を刺す。
「なんでや。酒くらいええやろ」
「深酒は、ってことですよね。そう言えば航海中も──」
「戸来! ちょ、おま、ここでその話すなて! あれは──」
「ふーん……その話、詳しく聞きたいわね」
春海の目が光る。
「俺、飲み物買ってきます!」
海斗が逃げに転じる。
「あっ、俺も」戸来も立ち上がる。
「ほんなら俺も──」佐渡も続こうとして、
「あなたは残りなさい」
春海の一言で、佐渡の足が固まった。
病室に流れる平和な空気の底には、薄く、しかし確かに、重く暗いものが沈んでいた。




