エピソード1、宇宙へのいざない。
本編は、【短編 宇宙のアルバイト ──最終日──】の後日談にあたります。
上記の短編を読んでいなくても大丈夫ですが
できれば、短編を先にお読み頂けると良いかと思います。
月の朝は、やけにうるさい。
音はしないのに、光がやかましい。太陽の光が遮るものもなく地面の砂ひと粒ひと粒まで自己主張している。黙っていても眩しい。だから戸来はいつもサングラスをかけて港へ向かう。癖みたいなもんだ。
彼の仕事は、月面港〈グレイライン第七ドック〉での積み下ろし。輸送船の腹に詰め込まれたコンテナを降ろして、台車で仕分け区画まで運ぶ。それだけ。
地味だが腰を壊す確率は高い。無重力でもなければ自動搬送でもない。重力が中途半端にある分、地上の引っ越し屋よりタチが悪い。
日雇いだが、食うには困らない。それで充分だと、今の彼は思っている。
休憩中、地平線の向こうに地球が浮かぶ。青くて、やけに遠い。
あの向こうに、戸来の人生の“前半戦”が埋まっている。
訓練学校時代、禁止されていた宇宙アルバイトに手を出し、親友を二人、宇宙の闇に置き去りにした。
棚田と引田。
あの〈ユリカゴ3号〉の残骸が今もどこかを回っていると思うと、胸のどこかが冷える。
それ以来、彼は宇宙船には乗らない主義だ。乗れない、が正確だろう。
──なのに、だ。
「にーちゃん、うちで働かへんか?」
その声を聞いたのは、夜勤明けの──とはいっても本当の月の夜ではない。じゃないと半月間働きっぱなしになってしまう。──月面酒場〈ホタル〉でのことだった。
ビールの泡がしゅわっと浮かぶ音が、やけに懐かしく響いた瞬間だった。
声の主は四十代後半くらいの男。日に焼けた顔に皺が走り、笑うと全部の皺が集合して顔が一回り小さくなるタイプだ。名を佐渡という。
服装は整備服のまま。袖口は油で黒光りしている。
「うちって、輸送船?」と戸来。
「そ。月‐火星間。ちょいとした個人事業。で、今、ひとり足らんねん」
「人手不足、ってやつですか」
「まぁ、そう。嫁さんが降りることになってな」
「……降りる?」
「妊娠や。まぁ喜ばしいっちゃ喜ばしいけど、三人乗務義務があるから、そっちが困っとる」
佐渡は笑いながらグラスを空けた。氷がカランと鳴る音が、月の夜にはどうにも似合わない。
「なんで俺に?」
「見とったんや。昼間のドック。積み下ろし、手際ええな。あんだけの手つきできるやつ、そうおらんで」
“手つき”という言葉に、戸来は思わず自分の手のひらを見た。
ごつごつして、古傷がひとつ。〈ユリカゴ〉のハッチに挟まれた時の跡だ。
「俺、宇宙は……」
「苦手か?」
「まあ、ちょっと」
「誰でも最初はそうや」
「最初じゃないんですよ」
その言葉に、佐渡の眉がほんの一瞬だけ動いた。けれど、すぐ笑ってごまかした。
「まあ、無理には言わん。ただ、出発時期を逃すと往復で半年無駄になる。燃料も倍や」
「急いでるわけですね」
「急いどる。けど、命の急ぎはせん」
佐渡はそう言って、ポケットから端末を取り出した。
画面には小さな輸送船の写真が映っている。
「〈ホシノナギサ〉。ちっちゃいけど、まあ、腕があれば走る船や」
外観は思ったより悪くなかった。中古っぽさはあるが、機体の痛みは見えない。
「救難ビーコン、救命艇、全部積んでる。一応、宙族対策に武装もしとる。メンテも昨日済んだ。荷物も全部積み込み済みや。今からでも行けるで。心配なら、明日、月の周回軌道で試運転するからそれに同乗してみ。あかんと思ったら断ってええ。そっこーで月へ送り返したる」
軽く言うが、その軽さが逆に怖い。
戸来はグラスを傾けながら、しばらく黙った。
酒が、少し金属の味がした。
宇宙。
その単語を聞くだけで胸の奥がざわつく。
それでも、行かなきゃならない気がしている。
棚田が言っていた。
「怖いけど、じっとしてる方が怖い」
あの言葉が、まだ耳のどこかに残っている。
戸来はグラスを置いた。
「……試運転だけ、行ってみます」
佐渡の目が細くなった。
「ええ判断や。明日朝、六時、ドックC‐7集合な」
こうして、戸来は再び宇宙へ向かうことになった。




