第1話 金髪碧眼の義理の妹は俺のことが好きすぎた
「お兄様、私は義理の妹だからブラコンには該当しないと思うんです」
一学期が始まって間もなく、リビングで澪がそんな愚痴をこぼした。お兄様こと俺——戸川絢斗は、たった今彼女が入れてきてくれたばかりの紅茶をすすりながら、ほうと一つ息を吐く。紅茶は美味いがその話題はマズい。いや、けっこうマズいかもしれない。
「……と、言うと?」
困った顔でお盆を持ったまま佇んでいる澪に、静かに訊ねた。
「名前は伏せますが、今日の放課後、隣のクラスの男子に告白されました。大好きな人がいるからごめんなさいと答えたら、誰なのか訊かれたんです」
「で、答えたの?」
「ええ。一緒に暮らしている義理の兄だと」
思わず俺はこめかみに手を当てた。
澪はいたって真面目な顔をしている。本当に綺麗な顔だ。金髪碧眼で、その目は星屑を含んだ吊り目。贔屓目に見ても、とても美人である。俺の一個下、高校一年生になったばかりだというのに、落ち着いていてどこか大人っぽい。
そして、その純真無垢な瞳で見つめられたら、澪にその気はなくとも、並の男はドキッとしてしまうだろう——が、問題は、純真無垢すぎる点にある。春巻きが好きなくせに、オブラートに包むという概念がない。ちなみに餃子を作らせたら日本一だ。
言いたいことは山ほどあったが、いったんここでは我慢することにした。
「それで……フラれたその男子が、ブラコンって言ったのか?」
澪は「いいえ」と首を振った。
「告白されたことをお友達に言ったら、そのお友達がからかう感じで『澪ちゃんってぇ、やっぱガチのブラコンじゃん♪』と……」
……ギャルか? そのお友達。あと、無駄にギャルの口調上手いな……。
「なるほど、そういうことか……」
「だから否定しておきました」
「義理の妹だからブラコンには当てはまらないって?」
澪は、さも当然と言わんばかりに「ええ」と言った。そこで俺は一言、
「いや、いろいろダメだろ」
と言った。
「えぇっ!? そ、そんな……」
全否定されたことにショックを受けたのか、澪はよろよろと後退した。オーバーリアクションすぎて演技をしているようにも見えるが、これは本当に驚いているときのリアクションである。
「そんなに驚いていることに俺は驚きなんだけど」
「だって……私の対応は、完璧だったはず……ダメなところなど一つも……」
「いやいや、完璧どころか穴ぼこだらけだからね、その対応」
俺は澪と向き合い、お互いに正座した。たまにこうして膝と膝を突き合わせるのだが、たいていは澪を諭すときである。
「まず、良かった点はどこかというと、告白をきちんと断れたこと」
「はい……まあ、それは当然かと……」
「その当然がなかなかできない人もいるんだ。でも、澪はきちんと断れたんだから、それは意思が強くて良いことだと俺は思う」
「ありがとうございます……」
「だが、問題はその意思の強さにある」
「……と、言いますと?」
どうやら本当にわかっていないらしい。
「澪の将来の夢はなんだっけ?」
澪はなにを今さらといった感じで、俺の目を真っ直ぐに見て、
「お兄様と結婚することですけど、それがなにか?」
と、はっきり言った。
「そこだよそこ、そこが強すぎるんだ……——」
——こういうとき、なにからどう伝えればいいのか。俺は、はたと悩む。
澪は俺が小学校五年生のときにできた義理の妹である。当時から澪は「お兄様と結婚する」と言って、俺をドギマギさせたものだ。
しかし、小学校で終わると思っていたお兄様大好きムーブは、中学に上がっても変わらなかった。学年が進むにつれて、次第に意思を固めたようにも思える。
さらに澪が中二に上がって、バスタオル一枚で「お背中をお流しします」と勝手に風呂に凸してきたときは、さすがの俺も閉口した。
それくらい澪は真面目で一途なのである。
そうだ——。
そのことについて、一つ、印象深いエピソードを思い出した。
澪が中三のときの話である。
学校で実施された一回目の進路希望調査の第一志望に「お兄様」と書いた。ちなみに俺は高等学校ではなく、低能兄貴だ。当時の担任は、さすがに冗談だろうと思い、澪に書き直しを求めた。当然である。俺が担任でもそうする。
ところが澪は頑なに応じなかった。それどころか、
「もし進む道が高校進学しかないと言うのなら、進路とはまるで針の穴を通るように細く儚いものですね」
という名言チックな迷言を残したらしい。
あとから人づてにその迷言を聞いた俺は、思わずこめかみに手を当てた。アイタタタ、である。その仕草は、今ではすっかり俺の癖になっている。
しかしその迷言は担任の心を迷わすのに十分な効果を発揮した。
そもそも、澪の成績は体育以外オール五。数々の表彰を受け、休日は学校外のボランティア活動にも顔を出し、地域貢献も当たり前のようにする。そんな品行方正で、しかも生徒会長まで務める彼女が、果たしてそんな冗談を言うのだろうか。
担任もだんだん冗談ではないと気づき始め、薄っすらと不安を覚え始めた。
そして、いよいよ親が呼ばれることになった。うちの母は真っ赤な顔で担任に平謝りし、こう言った。
「すみません、澪はお兄ちゃんが大好きなもので……」
「それはとてもいいことなのですが、澪さんの大事な進路ですので、その……これではまるで『お兄ちゃんと結婚する』と言っているような感じに受け取られてしまいますし」
担任は母を気遣って冗談っぽく笑ってみせた。が、母の顔は深刻そのものだった。
「ええ。ですから、進路希望調査書にそう書いたのだと……」
そこで担任は、ようやく事の本質を理解し、
「あー……では、せめてお兄さんと同じ高校は、どうです?」
と、目を逸らしながら言った。
……要するに、投げたのである。自分には無理だ、と。
当然である。俺が担任でもそうする。
後日、再提出された進路希望調査書には「お兄様」の文字の後ろに「と同じ高校」という文字が追記されていた。ちなみに、第二、第三希望は空白だった。
そして澪は俺と同じ高校に通うことになった。その気になれば偏差値七十超えの高校に進学できたのに、偏差値四十七の平凡な学校に進んだのは、俺に合わせたためだった——
「——澪の言う通り、義理の兄妹だから、ブラコンには該当しないかもしれない。俺のことを好きなことも知っている」
「違います。好きではなく、大好きす」
「あ、うん……そこ、今はこだわるところじゃないからね?」
俺はゴホンと一つ咳払いした。
「義理の兄妹うんぬんは置いといて、問題は、一つ屋根の下で一緒に暮らしている高校生の男女が、周囲からどういう目で見られるかということだ。周りの人はどう思うと思う?」
澪は深くじっと考え、静かに口を開いた。
「……羨ましい、とか?」
いやいやいやいや。
そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
「……まあ、そういう見方もあるだろうけど、もうちょっとよく考えてごらん? ほら、もうちょっとよく考えてごらんよ?」
本当にわからないのか、澪は心の底から悩むような顔をした。
「私は、お兄様がなにを問題視しているのかよくわかりません……」
「だから、対面的な話だよ」
「……つまり?」
「つまり、俺のことはいいとして、澪のイメージが悪くなっちゃうだろ? そもそも一般的にブラコンって言葉がマイナスイメージなんだ」
澪はそこでようやく「なるほど」と納得したようだった。
その顔を見て、俺は少しばかり安心した。この義妹に、まだそういう一般的で常識的な部分があったのだ。
「つまり、お兄様が言いたいことは、こういうことですね? 現在、私がブラコンと呼ばれているのは、すでにマイナス評価を受けている状況なのだと——」
そうそう、と俺は頷いた。
「——だから、プラスのイメージに転じるように、周りの常識を改変しろ、と」
「ごめん、いったんストップ」
ダメだ。なんにもわかっちゃいない。むしろ、今の一言に俺は恐怖すら覚えた。
「どこかの独裁者か新興宗教かと思ったよ。あのね……周りの常識を捻じ曲げるんじゃなく、自分が変わるべきだと思わないの?」
すると澪は、少しばかり切ない表情になった。
「私がお兄様のことを大好きという気持ちは、これからも変わりません」
重いけど嬉しいけど重い。
「あ、いや、そういうことじゃなくて……せめて学校ではそのことを隠すとか」
「つまり……『隠しデレ』、というやつですか?」
どこでそんな言葉を学んだのだろうか。
「えっと、まあ……もうそれでいいや」
俺は少しばかり諦めて、せめて隠す方向に持っていくことにした。そのほうが、きっと澪にとっていいのだろうと。
「わかりました。では、これからは隠れてデレますね?」
澪はにっこりと微笑んだ。
その綺麗な顔に、心臓が思わず高鳴ってしまった。……いや、デレなくていいんだが。
「それにしても、お兄様は隠しデレがご趣味だったんですね?」
「あー、違う違う……俺の趣味とかじゃない」
「ちなみに、私のクラスメイトは、私がお兄様のことを大好きだということを知っていますが、どうしましょう?」
「えっ……友達関係だけじゃなく? 高校に入学してまだ一週間だよね?」
思わず訊ねると、澪は照れた顔をお盆で隠した。
「最初のクラス全体の自己紹介のとき、好きなものはお兄様で、趣味はお兄様のことを考えること、と話しましたので……」
そのときの様子が容易に想像できた。おそらく澪は、今と同じ感じで、ポッと頬を赤らめながら言ったのだろう。ギャグとは思えないノリで……。
まあ、つまり……すでに手遅れだったらしい。
初手で完全に外堀を埋めていくストロングスタイルに、俺は思わずこめかみに手を当てたが、諦めてはならぬと偉大な先人たちが背中を押す。今ならまだ間に合う。この一週間でどれほど噂が広まったか想像すると、ぞっとするのだが。
「じゃあ、まあ……次からは隠す方向でいこう」
「わかりました」
やれやれと思いつつ、俺は立ち上がろうとした。ところが、ずっと正座していたために足がしびれていたらしく、
「うわっ!」「きゃっ……!」
そのまま澪を押し倒すかたちで倒れてしまった。そのせいで澪のスカートはめくりあがり、ピンク色のショーツが丸見えの状態。俺の片膝は澪の股下十センチあたりにあり、その白い太もものあいだにある。
わざとではない。
大事なことなのでもう一度言っておく。
わざとではない。
「ごめん、澪——」
「お兄様……こういうことは結婚するまでダメです! ……が、お布団ならば!」
「つまり、ダメじゃないってことだね? お布団ならばってなんだ、ならばって……」
ひょっとすると、人生の中で、これほど俺のことを好きになってくれる人は現れないかもしれない。そういう意味で言えば、澪ほど奇特で、尊くて、危うい義妹はいないだろう。
ただ、澪の気持ちを安易に受け入れられない事情もあって、これでも俺は、それなりに悩んでいるのである。