彼らが二人きりで暮らすあの部屋で、 僕は一体何ができただろう
六月下旬のある日、僕は高校時代の友人である隆志の住むアパートに遊びに行くことになった。新作のゲーム機を手に入れたというので、それを見せてもらおうと思ったのだ。
高校を卒業して以来、他の同級生も交えて何度か遊んでいたが、家に行くのは初めてだった。隆志は高田馬場のアパートで二年間、大学時代にバイト先で出会った三歳年上の「深山さん」とルームシェアをしている。深山さんについては僕が一方的に隆志から話を聞いているだけで面識は無い。そんな状態で家に行くのは気まずいし迷惑だろうと自重していたが、隆志にゲーム機を見せてもらうのに自分の家まで来てもらうのもおかしな話だし、それに友達がどんな人と同居しているのか内心興味があったから、これを機に会ってみることにした。
細胞すら溶けそうなほど暑くても形を保っていられる手土産を、と前日の会社帰りに高島屋を歩き回り、目についた六個入りのゼリーを買った。店員さんが包み紙を折り曲げる素早い手つきを眺めながら、同級生の家に持っていく手土産にしては仰々しいのではないかと思い始めていた。しかし既にゼリーは花びらの中に閉じ込められて僕の手に渡された。自分で食べることにして買い直そうかとも考えたが、先輩がどんな人かもわからないし、丁寧であるに越したことはないだろう。翌日、僕は田無から高田馬場までの電車の中、高島屋の袋をぶら下げて吊革にぶら下がって揺れていた。「大人」になってから友人の家に行くのは初めてだ。
東京は今年初の猛暑日を記録している。隆志の住むアパートは駅から結構距離があるという話は聞いていたが、坂道が多いことは今日初めて足で知る。隆志たちと出会った高校生の頃は、上り坂なんてこの世に存在しなかった気がする。あれから約六年の歳月を経て、当時は存在しなかった標高を全身に感じながら歩く。
最後の長い坂を上り終えると、隆志から事前に聞いていた通り、そのアパートは赤いレンガのような模様を全体に纏っていた。きっと狼にも吹き飛ばされない家だ。錆びついた手摺には頼らず階段をのぼり、最上階である二階の一番奥にある部屋のチャイムを押した。十数秒経っても何の反応もないので、もう一度押そうとしたら鍵の開く音がした。
細い腕が扉を押した。隆志は寝癖で逆立った金髪を手で梳かしながら、「おはよう」と言った。腕時計を見ると、短針は二と三の間を指している。きっとまた深夜まで酒を飲んでいたのだろう。白と黒のストライプのパジャマを着たその姿は、たてがみを金に染めた愚かなシマウマみたいに見える。しかし寝起きのときに外見を揶揄うと拗ねるのを知っていたので、想像上のシマウマは喉の奥に飲み込んで、ゼリーの入った袋を差し出した。
「なにこれ」
「ゼリー。深山さんと食べて」
「まじで。ありがとう」
隆志は重い瞼を開けるのに精一杯な様子で、仰々しい包み紙と花柄の袋については何の感想も言わなかった。
二人並ぶほどの幅が無い廊下を、隆志の後頭部の寝癖と日焼けした首を眺めながら歩く。玄関から入ってすぐ右側にトイレがあり、少し進んだところに風呂場が隣接している。突き当りの部屋はダイニングキッチンになっており、隆志はここで生活しているらしい。そしてこの部屋の更に奥にある扉の向こうの洋室が、深山さんの居室だという。
隆志は、床に散らばっている衣服を足で部屋の端に向かって蹴飛ばしている。
「深山さんは?」
「出かけてるけど」
がっかりした。深山さんに会うことが、ここに来る上での楽しみの一つだったからだ。
「どのくらいで帰ってくる?」
「さあ。あと一時間くらいじゃない」
「どこ行ってんの?」
「買い物だと思うけど」
「スーパーとか?」
隆志は足の動きを止め、僕の方を振り向いた。
「何でそんな気になんの?」
眠いときの目つきの悪さとはまた違う、瞼の下から遠い星みたく眼光を飛ばして僕を見ている。
「いや、友達がお世話になってる人だし、一回ちゃんと挨拶しておきたいなと思って」
何故か弁解するようにそう言うと、隆志「ふーん」と呟いて顔を背けた。そしてキッチンの横にある冷蔵庫を開け、中に敷き詰められているビールを何本か取り出してから、僕が渡したゼリーを包み紙に入ったままで突っ込んだ。
その後、ゲームで電波の向こうの人間に負けて癇癪を起こす隆志を横目で見ながら、僕は新作のゲーム機なんて本当はどうでもよくて、ただ当時の友人の家に遊びに行くことがしたかったのだと気がついた。見知らぬ誰かとの対戦に熱くなる友人の隣で、僕はさっきまでの彼の眠気が移ったみたいにあくびを繰り返していた。
「お前もやる?」
「いや、そのゲームやったことないし」
すると廊下の方から扉の開く音がした。僕は会社で上長が外出から戻ってきたときのように自然と起立していた。その様子を訝しげに見上げる隆志の視線を感じながら、廊下を歩いてくる足音に耳を澄ませていた。
扉が開き、深山さんが部屋に入ってきた。
「こんにちは。お邪魔してます」
頭を下げると、少し間があってから「ああ。こんにちは」とくぐもった声が聞こえた。顔を上げ、初めてその姿を目にする。高い背丈を申し訳なさそうに猫背で畳み、細く開いた瞳が伏し目がちに瞬いている。量の多い黒髪が顔の輪郭から首と肩の境界あたりまでを覆い、黒い馬のたてがみのようだ。唇は薄く鼻も小さく、発声に不得手そうな印象を受ける。黒いTシャツの半袖から伸びる腕は意外にも筋肉がくっきりと浮いているが、スーパーで働いているそうだから、労働の賜物だろう。総じて隆志とは何もかも正反対に見える。
二人の活動もまたある意味では正反対と言えるかもしれない。主に地下のライブハウスでけたたましい歌声を轟かせている隆志は、いつか渡米してアメリカのレーベルと契約を結ぶのが夢だという。一方、深山さんは自主映画の監督をしていて、彼の友人が運営するミニシアターで短編映画を上映し、数名の濃いファンを動員させている。資金が溜まったら渡仏して、現地の映画監督と交流を深めつつ長編映画を撮るのだそうだ。
あと十年経ったとき、二人は一体どうなっているのだろう。自分が生きている現実だけを肯定したいという我儘な気持ちが、僕を少し意地悪な想像に駆らせる。
「こいつ、ゼリー持ってきましたよ」
隆志はゲームの画面から一瞬目を離し、深山さんに向かって言った。
「えっ、ありがとう」
その低く小さな声の中に、子供のような純粋な喜びが一粒の山椒のように存在感を放っていて、見た目よりも親しみやすい人なのかもしれないと感じた。
「どこにあるの」
「冷蔵庫です」
僕が答えると、深山さんは冷蔵庫を開けた。
「高島屋で買ってくれたの?」
「あ、そうです」
深山さんは感心したように何度か頷くと、包装紙に貼ってあるセロテープを一つ一つ爪で剥がし出した。見ていて少しまどろっこしくなるほどの時間をかけて、ようやく解けた。
六色のゼリーの一つ一つを手に取って眺めた後、深山さんは立ち上がって調理台の脇に干してあった様々な食器の中から細いスプーンを選んだ。緑色のゼリーのフィルムを慎重に剥がして、表面に浮いたシロップを垂らさないようしているのか、銀色のスプーンをそっとゼリーの中に差し込んだ。すくいあげた小さな欠片を、最低限に開けた唇の内側に滑り込ませる。何か言いあぐねているみたいな口の動きをさせた後、喉が僅かに膨らんだ。僕も、そして気づくと隆志もその様子を黙って眺めていた。
「うん。美味い」
最もシンプルな感想にまとめられたのを聞いて、この人の口は物を言うための口ではないのではないかという風に思えた。
「食う?」
深山さんにそう聞かれた隆志は、ゲーム画面に視線を戻しながら不愛想に答えた。
「あとで食べます」
「そう。寺岡くんは?」
いきなり自分の苗字を呼ばれたことに少し驚いたが、隆志が家に来る友人の名前を同居人に伝えることは何ら不自然ではないとすぐに気づいた。
「いえ、僕はいいです。お二人で召し上がってください」
「じゃあ頂くね。ありがとう」
食べかけのゼリーを持って自室の方へ向かおうとしたかと思うと、不意にこちらを振り向いた。
「また僕ので遊んでたね」
深山さんの視線の先には、ゲーム機を操作する隆志の手がある。
「深山さんのやつなの?」
「うん。だって俺そんな金ないし」
隆志は週三のコンビニバイト生活だが、深山さんはスーパーで正社員として働いているらしい。年齢も上だし当然、収入も貯金も深山さんの方が多いだろう。しかし、節約のため他人と同居するという選択肢をしておきながら、高額なゲーム機を購入する金銭感覚は少し奇妙に思える。
隆志は対戦中の画面のまま、黙って深山さんにゲーム機を差し出した。
「別にいいよ、遊んでて」
「いや、深山さん得意でしょ。こいつに見せてやってくださいよ」
まるで誰かに言わされているかのような感情の無い声色で言う。深山さんは手の中にあるゼリーを見つめ、キッチン内をうろうろ歩いた後、冷蔵庫にそれを入れた。そして僕らの間に胡坐を掻いた。
確かに深山さんのゲームの腕は見事だった。骨ばった指の下でスティックは素早く縦横無尽に動き、隆志の生み出した苦境をみるみるうちにひっくり返していく。画面に相対した目は眩しげに一層細まって、有利になっていく戦況を無関心そうに見つめていた。
その隣で隆志は激しく貧乏ゆすりをしたり、しきりに手の甲で鼻をこすったりと落ち着きがない。自分のゲームプレイを否定されたようなのに苛立っているのか、スポーツ観戦をするような感覚で高揚しているのだろうと、特に気も留めずに画面を見ていた。
するといきなり隆志の両手が深山さんの頭を鷲掴みにした。そしてそれを物凄い勢いで自分の顔面にぶつけた。額の骨同士が当たる鈍い音が部屋に響く。その残響が鼓膜を不愉快に震わせているうちに、今度はゼリーの汁を啜るような音がした。
隆志が深山さんの唇を食べていた。薄い唇に何度も吸い付き、歯で引っ張ってこじ開けたところに舌を捻じ込んでいた。縞々のパジャマの生地の下に肩甲骨が浮いては消え、脇の下のあばら骨が膨らんではしぼみ、その度に溺れたような息の音が聞こえる。
後頭部を掴んでいた隆志の両手が、しがみついた崖から滑り落ちるみたく、首から肩、背中へ徐々に下がっていき、眠った赤子をベッドの上に寝かすよう密着した深山さんの体をゆっくりと仰向けに倒したと思うと、そのまま全身で覆い被さった。狩った死肉の腹を屠る肉食動物のように、また食らい始める。
その友人の姿は現実のものではないようで、しばらく呆然としていたが、深山さんの右手に握られたままのゲーム機の画面が動いたままなのを見てはっとし、僕は隆志の襟を後ろから強く引っ張った。
隆志はがばっと体を起こし、血走った目を光らせ鬼のような形相で部屋の外に出て行った。扉の向こうで別の扉が開き、閉まる音がした。
唖然としていると、深山さんが床に仰向けに倒れたまま、ゲーム機を自分の顔の前にかざし、「負けてる」と惜しそうに呟いた。その唇は赤く腫れている。
喉に何か詰まったような息苦しさをおぼえながら、恐る恐る尋ねる。
「何ですか、今の」
深山さんは天井を仰ぎながら平然と答えた。
「ああ、よくやられるんだよね」
僕は、必然的に導かれる一つの可能性を確認した。
「付き合ったりしてるんですか」
「誰?」
「隆志と、深山さん」
「僕があいつと? そんなわけないでしょ、彼女いるし僕」
そう笑い飛ばす様に怒りが湧いた。僕の問いは、学生時代の友人の知られざる一面が許されるべきものであるかどうかを決定する分水嶺であり、唯一の希望だったのだ。
「嫌じゃないんですか」
「嫌だよ」
他人の部屋であることを忘れ、つい声が大きくなる。
「じゃあ嫌って言ったらいいじゃないですか。言うべきですよ」
「何回か言ったけど、やめないし」
聞けば聞くほど、自分の青春時代の思い出が穢されているように感じる。しかし僕のためにも、そして隆志のためにも、現実を正確に知る必要があった。
「いつからなんですか? あいつがあんな風になったの」
「半年くらい前かな」
「どのくらいの頻度で」
「週に一回か二回とか」
「何でそんなことするのかって聞いたことあります?」
「ああ、そういえば無いなあ。でもあいつ、一年前に彼女と別れたし、そういうお店に行く金も無いし、欲望のはけ口が他に無いんじゃないかな」
深山さんは淡々とそう話すと、起き上がって冷蔵庫からゼリーを取り出し、また食べ始めた。まだ赤い唇に緑のゼリーが吸い込まれていく光景に眩暈がした。
数分後、隆志が部屋に戻ってきた。表情には正気が取り戻され、自分のよく知る隆志のように見える。
「近くに居酒屋あります?」
深山さんに僕は聞いた。まだ隆志の声をまともに聞くのは怖かった。
「あるよ。すぐ裏に『とりどり』って店が」
「ありがとうございます。隆志、飲みに行こう」
腹を割って話すには酒が一番だ。それは大人になった僕らの特権であり、欺瞞でもあるかもしれない。
時刻は夕方に差し掛かっていたが、初夏の太陽はまだ道を白く照らしている。その上を僕らは歩いた。
店の看板が見えてくると、隆志が不意に立ち止まった。そして眩しそうに僕の目を見て尋ねた。
「お前、深山さんのことどう思う?」
アルコールで希釈されない生の声がぶつけられ、全身に緊張が走る。言葉を間違えたら取返しのつかないことになる。そんな直感の下、考え得る限り最も無難な返事を探した。
「初めて会ったばかりだし、まだ別に何も」
「エロくない?」
躊躇いなく飛び出たあまりにも露骨な表現に、かえって拍子抜けした。隆志が自分のよく知る隆志であると、何故かそのときはっきりと認識できたのである。
「僕はそう思わないけど」
「まじで。深山さん、何かもう俺のこと好きなんじゃないかって」
そのあからさまな錯語は、相手を堂々と責めるのを正当化するのに十分だった。
「誰に対してどう思うかは自由だけど、実際に行動に移すなら話は別だよ。深山さんはあんなことされるの嫌だって、お前に言ったことあるんだろ」
会社で受けたコンプライアンス研修の動画を思い出しながら喋った。隆志は細い眉を顰めて俯いている。
「傍目から見たら、あれは性暴力だったよ」
僕がそう言うと、隆志は薄茶色の瞳を大きく開き、性暴力、と呟いた。
「どうすればいい」
その縋るような目つきは同情を呼び起こした。深山さんは、隆志のあの衝動的な行為の被害者ではあるが、先輩という立場である以上、その不道徳であることを教えるべきだったのだ。その責任を放棄していた人間の方に、僕は怒りをおぼえていた。
「深山さんから距離を置いた方がいい。もう、別々に住むべきだろうね」
隆志は少し黙ってから、深く二度頷いた。
僕らは居酒屋に入り、今度の計画について話し合った。お互い、酒にはほとんど口をつけなかった。
まずは、隆志が引っ越して一人暮らしをすることを深山さんに伝える。その場に僕もいてほしいと隆志に頼まれたので、来週の土曜日にまた彼らの家に行くことになった。
居酒屋を出ると隆志は、「これを機に俺も、ちゃんと就職するかな」と藍色の空に向かって言った。その吹っ切れたような態度には少し違和感があったが、友人をこれ以上責めるのは気が咎めるので、何も言わずに手を振って別れた。
七月に入り、東京は先週に引き続き猛暑日だった。暑さで朦朧とする意識を、坂の上に運んでいく。
遠くから、サイレンの音が鳴り始めた。それが耳鳴りと混じって聴こえだした頃、二台のパトカーが僕を追い越していった。
長い坂をぐんぐんと上っていくその車を、僕は立ち止まって見つめた。くるくる回る赤い光が、陽炎の中に溶けていった。