仄暗い水の底へ
現実はまるで地獄だ──
あの子を失ってから、私は毎日ここへ足を運んでいる。冬の寒かった日も、じとじと雨の降った梅雨の日も──
焼けつく陽射しを浴びながら、今日もここに立っている。あの子が殺されたこの場所に。
100メートルほど幅のある広い川は町と町を隔て、何も変わらず流れている。世間も変わらず動いている。私の愛する息子はもう、この世にいないというのに──
あの子はこのドブのような色の川で、水死体となって発見された。頭を鈍器で殴られ、ゴミのように捨てられたのだ。
集団降園する幼児の群れから離れ、一人でいたところを何者かに拐われ、おそらくは何かいたずらをされてから──
犯人は犯行現場に戻ってくるという。
私がこの河原を現場だと思うのは、ただの勘だ。
しかし、母親の勘を侮ってはいけない。
あの子の声が聞こえるのだ。
『おかあさん、ここだよ』
『ここでまっていれば、アイツがやってくるよ』
そんな声が──
そしてそいつは、やって来たのだった。
汚らしい作業着姿のオッサンだった。
夕陽の中、一人で立っている私を、怪訝そうに遠くから見ながら歩いてきた。
私は確信した。
何も根拠はないけれど、確信した。この男が、私のかわいいあの子を手にかけたのだと。
やってくる男に、私は笑顔で声をかけた。
「こんにちは。……いえ、もう『今晩は』かしら」
男は挨拶は返さず、文句を言うように「あんた、何してんの」と聞いてきた。
私は用意していた武器を取り出すと、いきなり男に突進した。
懐に入れていた包丁で、男の胸を刺しにいった。
「わっ! 何すんだ、オバサン!」
かわされた。横に動いて攻撃をかわした男は、おかしな女を見る目で私を見る。
「私はアンタが殺してこの川に投げ込んだ子の母親だよ!」
態勢を立て直しながら、私は喚いてやった。
「あの子のカタキ! 死ねーっ!」
またかわされた。
男は逃げようとする動きをしたが、足を止め、私に問うた。
「お……、俺はなんにもしてねぇよ! それとも……」
男の顔に、不安の色が浮かんだ。
「な……、なんか証拠でも挙がったのか?」
「そうだよ! オマエがやったってことは、もうわかってんだよ!」
「け、警察もか?」
「警察になんか任せてたまるか! あたしがアンタを裁いてやる!」
包丁を突き出して突進した私の足を、男が払った。
私は地面で胸を打ち、あうっと呻いた。
「つまり……警察はまだ知らねぇんだな?」
夕陽を背に、私を見下ろして立つ男が、ポケットから何かを取り出した。
「アンタさえ消せば、俺は安泰ってわけだ?」
男が取り出したのは、大型のスパナのように見えた。
「それであの子の頭も殴ったのね!?」
「息子と同じところへ行かせてやるよ」
包丁を掴んで立ち上がろうとした私の手を、男が蹴った。靴先には鉄芯のようなものが入っていた。
鈍い痛みが脳天を襲った。
数回殴られると、私の身体は動かなくなった。
男は私の服を掴んで引きずると、川のほうへ歩き出した。
夕陽が世界を真っ赤に染め、男の影を長く伸ばしていた。
身体は動かないが、意識はあった。私は最期の景色を見た。
何もなかった。土手の上を通っていくひともなく、周囲に建物のひとつもなく、男の犯行は誰にも知られることなく、ただ中年に差し掛かったばかりの女がひとり死んで、世界はまた変わらずに回り続けるのだろう。
動かない身体に、汗が伝う感覚だけがあった。
じめじめと蒸し暑い世界が私を包んでいた。
水際に投棄されていたコンクリートブロックを私の手首に巻きつけると、男が言った。
「あばよ、オバサン」
男が私の身体を、ドブ色の川へ投げ捨てた。
ざぶん──
あぁ……
なんか、気持ちいい……
あのじめじめした蒸し暑い世界と違って、ここのなんて涼しいこと──
でも、あの子はとても寒かったことでしょう。
あの子がこうされたのは真冬だったから、川の水はさぞかし冷たかったことでしょう。
そう思いながら、仄暗い水の底へ沈んでいくと、あの子の声が聞こえてきた。
「おかあさーん、おかあさーん」
水の底から、あの子が浮かんできた。
私は笑顔になり、あの子に聞いた。
「大丈夫? 寒くなかった?」
「だいじょうぶだったよ。ここはとってもあったかいんだ」
そうね。
ここはとても気持ちいい。
夏は涼しく、冬はあったかいのでしょう。
「いい子ね。ここで一緒に地縛霊になりましょう」
「うん、おかあさん。ずっといっしょだね」
あの男に対する復讐心は薄れていった。
引きずり込んでやってたまるもんですか。
こんな気持ちいい世界に。
アイツはずっと、あの地獄のような世界にいるといい。
私は永遠に、ここであの子と暮らす。