後編 星鏡は恋を映して墜ちる
白亜の螺旋都市――王都は、夜半でも祝祭のざわめきを湛えていた。花弁状の光路を彩る提灯が風に揺れ、遠くのテラスからは竜肉を炙る甘焦げた匂いが漂う。だが中心部、漆黒の中枢塔だけは人影もなく、月光を吸い込む墓標のようにそそり立つ。
煙生 水月は塔の裾へ足を踏み入れた瞬間、全身を圧し潰す重力の奔流に膝をつきそうになった。肺を満たす空気は硝煙と撫子が混じる湿熱。隣で鵺山 燈子吐息を漏らすたび、鎖骨が震えて軍衣の胸元がわずかに揺れた。
(ここで折れたら、橋の上で誓った言葉が嘘になる)
奥から靴音が響く。玉座に腰掛けた妖艶な女――迦楼羅 グレイヴレンド。深紅のドレスに翡翠の羽飾り、瞳は夜獣のごとく光を孕む。
「器と鍵、揃って来たわね。鎮星詠を奏でなさい、燈子。あなたの哀哭が空を縫い止める」
拒む間もなく、燈子の胸の妖燈石が激しく脈動し、布地を下から突き上げる。肌へ滲む朱。
水月は思わず彼女を抱き寄せた。重力の檻が二人を圧するが、密着した体温だけは互いを守る楯になる。
星鏡が悲鳴のように共鳴すると、重力は急停止し、塔内の空気が真空めいて弾けた。ふわりと浮く瞬間、水月の腕の中で燈子の軍衣の裾が翻り、滑らかな腿と腰曲線が月光を掠める。
「わ、私……!」
「恥ずかしがる暇はないさ!」
彼は彼女を引き戻し、地を蹴るように宙へ回転して着地。足裏にかろうじて残る重力の微片を感じ取り、拳を握る。
「愛は、システムごと書き換えるバグだ――覚悟はいいか、女王様」
水月の掌に集まった星潮の光粒が拳刃を形作る。虚星刃拳。
迦楼羅は唇を吊り上げ、指先から闇色の鎖を放った。鎖は重力そのものを編んだ呪鎖で、触れた空間を押し潰す。
(怯むな。俺が止まったら、燈子は——空は——)
水月は鎖の狭間をすり抜け、拳を妖燈石へ重ねる。轟音。鉄と花蜜の匂いが爆ぜ、燈子がか細く呻く。
「水月っ、石が……私の心臓ごと砕ける!」
「心臓は守る。鎖だけ断つ!」
怒号と共に拳を振り抜く。石に亀裂が走り、そこから放たれた白い光が塔内を貫く。瞬間、迦楼羅の鎖が悲鳴を上げ、周囲に散開した。
女王は嘲笑を浮かべるが、その瞳に初めて怯えの色が混ざった。
「星鏡は崩れても、空は自重で墜ちるだけ。救いは来ない!」
「救いは作るものだ!」
水月は再度拳を振りかぶる。燈子も震える腕で霧閃刀を逆手に構え、二人の意志が光柱となって星鏡へ突き立った。
鈍い破砕音。鏡面がクモの巣状に砕け、塔を包む重力が四散する。
無重力の空間で瓦礫と光屑が舞い、二人も投げ出される。水月は躊躇なく空を泳ぎ、燈子の腰を抱き寄せた。彼女の涙が頬を滑り、水月の唇を濡らす。
「生きて……いいの?」
「生きよう。空が墜ちても、一緒に落ち続ければ地面なんて無い」
唇が重なり、星屑が祝福のように降り注ぐ。
やがて瓦礫が静止し、結晶化した星潮が新たな列島を描く。崩れたはずの空は、逆に自由な秩序を得たのだ。
迦楼羅は玉座の残骸にもたれ、遠いものを見る目で呟く。
「器を壊されても……空が立つ? 恋の熱は理を凌駕するか……面白い」
微笑のまま意識を手放す女王を、燈子は静かに見送った。
石の残骸が胸元で冷たく光る。心臓は確かに打ち続け、血は温い。
「終わったの?」
「いや、始まったばかりだろ」
水月は彼女の手を取り、塔の裂け目から覗く黎明を指差す。薄紅の雲が破片状に広がり、遠くで竜が歓喜の咆哮をあげる。
金木犀の風が吹く。互いの汗と涙と血の匂いが混ざり合い、新しい空気を作る。
「星鏡がなくても世界は廻る。なら――俺たちの足で歩けばいい」
燈子は微笑み、頬を染めたまま言葉を重ねる。
「ねえ、水月。未来、覗きに行こうか。欠月でも、香雲でも、きっと星は綺麗よ」
「案内人は君だ。俺はその背中を守る」
二人は崩れた塔を背に、柔らかな重力を踏みしめる。足跡の先で朝陽が昇り、白亜の都市を桜色に染め上げた。
世界が終わらなかった代わりに、ふたりの恋は終わらない。星屑の中で交わした誓いは、夜明けより強く輝いていた。