中編 欠月と香雲の狭間で
暁を迎える直前の空は深い葡萄色で、**浮遊環礁**から伸びる“暁の浮橋”が、その闇に薄桃の靄となって滲んでいた。橋脚は空鯨の背骨で編まれ、足裏をくすぐる微細振動は鼓動めいて心拍に重なる。
**煙生 水月は、夜露を吸った岩肌の匂いの奥に、白檀と潮の甘塩辛さを感じ取り、深呼吸した。胸腔を満たす空気は冷え切っているのに、心臓は焼けた鉄のように熱い。隣を歩く鵺山 燈子**が、しとどに濡れた前髪を払いつつ、楽しげに笑った。
「転移者って、もっと怯えるかと思った。あなた、妙に馴染むわね」
「現実逃避の才能なら、地球でもトップクラスだったから」
そう言いながらも、水月は彼女の歩調に合わせて一歩だけ前に出た。橋の隙間からのぞく紺碧は底無しで、そこへ落ちるくらいなら自分が盾になったほうがマシだ、と衝動的に思う。
霧が濃くなる。橋梁の装置が発する微振動が温度を上げ、靄が湯気めいて肌へ絡みついた。
「わっ、熱っ……!」
燈子が軍衣の襟を押さえた拍子にファスナーがずれ、豊かな谷が月光を呑む。霧が視界を曇らせ、水月は反射的に腰へ手を回し、彼女を引き寄せた。濡れた布越しに感じる体温と柔らかさ、そして金木犀と汗が混ざる甘い匂い――心拍が耳奥で雷鳴のように跳ねる。
「……まだ見惚れてる場合?」
「護衛中だ、仕事熱心なだけ」
ふたりは互いの頬を朱に染めながらも、足を止めなかった。霧の向こう側、何か鋭いものが待ち構えている気配が濃くなる。
やがて靄が割れ、黒衣の騎士団が姿を現した。顔を覆う仮面は泣き鬼の三つ目。隊長は華奢な肢体に長槍を抱え、名を哭虎アロゴスと名乗る。
「器の還収が最優先。転移者は副産物にすぎん」
金石を擦るような声。数十本の槍が雨垂れのごとく闇に並び、空気は硝煙と湿塩の匂いへ塗り替わる。
燈子は胸の**妖燈石**を押さえ、蒼白い顔で一歩後退した。石の脈動とともに軍衣がぴたりと肌へ貼りつき、鎖骨が震える。
「……来たわね、王都の犬」
「一発、啖呵を切っても?」水月は唇を歪める。
「どうぞ、ヒーロー」
少年のように笑う彼女の背を押し、水月は前へ出た。
「おい仮面野郎。女の子を泣かすやつは、俺の世界じゃモブ以下だ」
アロゴスは微動だにせず槍を構える。返事は、重力を裂く疾駆音。漆黒の槍が射線となり、月光を割って突きくる。
水月は《星潮》から舞い上がった光粒を掌に集め、拳より刃を錬成――虚星刃拳。
(名前は派手でも原理はシンプル。速さと決意でぶつけるだけだ!)
蒼白の拳刃が槍を受け、衝撃で足場の骨が軋む。鼻の奥を刺すのは鉄と真夜中の土埃の匂い。
戦端が開く。燈子は霧閃刀で横合いの槍を斬り払い、軍衣の裾が跳ね上がり太腿が覗く。匂うのは焦げた竜脂と、熱で蒸された彼女の肌。
水月は背中合わせに跳び、思考を刹那で回す。
(俺が攻め、彼女が裁ち、互いの死角を埋める。呼吸が、鼓動が、同期して――)
槍と拳刃が交錯するたび、月光は粉になり霧の彼方へ散った。
激闘の果て、アロゴスの仮面に裂け目が走る。砕けた破片の下から現れたのは、年若い少女の頬だった。
「私は……あなたと同じ《胎》。星鏡の歯車は、もう止まらない」
涙と血が混ざる顔を、燈子がそっと抱きとめる。
「歯車なんて砕けばいい。だって空は誰のものでもないもの」
水月は拳を下ろし、湿った風を吸い込んだ。戦塵に混ざる白檀が、ほんのり甘い。
騎士たちは退き、橋は静けさを取り戻す。だが妖燈石はなお速く脈動し、燈子の呼気は荒い。
「時間がないね」
「ああ。星鏡宮廷の頂で鎖を断ち切る――間に合わせる」
頷き合った瞬間、橋の縁で温噴泉が湧き上がる音がした。補給用の足湯施設らしい。
靴も靴下も汗と血で重くなっていた二人は、短い休息を取ることにした。湯に足を浸すと、硫黄と檸檬を混ぜた様な香りが立ち、じわりと筋肉がほどける。
湯底で偶然触れ合った指先。水月が慌てて引こうとすると、燈子が逆に絡め取る。
「拳も刃も出さないで、触れられる時間って貴重よ」
「……じゃあ三十秒だけ」
湯気越しに見る彼女の睫毛は濡れた夜空の星屑みたいで、水月は視線を逸らした。
再び立ち上がるころ、欠けた月が夜空へ滑り込み、霧は香雲へ姿を変えていた。
歩き出す背中越し、燈子が囁く。
「もし星鏡を壊しても、空が救われる保証はないの。怖くない?」
「怖いさ。でも、怖さより――君と未来を見たいって気持ちのほうが強い」
燈子は小さく息を呑み、足取りを速めた。水月も肩を並べる。橋の果て、白い螺旋都市が星灯を瞬き、二人を待っている。
月が欠けても夜は終わらない。欠片をつなぐように、ふたりの影はひとつへ溶けていく。