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前編 星屑の門は紺碧に哭く

挿絵(By みてみん)

 雨脚が細く煙る高架下――コンクリートに染み込んだ排気ガスと濡れ落ち葉の酸味が、**煙生(けぶりお) 水月(みづき)**の鼻腔を刺した。薄い缶コーヒーの残滓(ざんし)が舌の奥で渋みを残し、空気はどこまでも重く、湿っている。

 (就活で七社落ち、バイトは解雇、恋人にも逃げられた。俺の人生は煙みたいに立ち昇った挙句、雨に打たれて消えるだけか)

 雨露に濡れた黒髪をかき上げながら、水月はスマートフォンの画面を睨む。闇バイト――<電脳迷宮(デジタルラビリンス)>を標榜する非合法プラットフォーム――から、たった今「報酬支払不能」の一行が届いたばかりだ。

 「はは、傑作だろ。サクラを雇う金があるくせに、被害者へは未払いってか……」

 自嘲気味に笑った瞬間、頭上の朽ちたスピーカーが不気味に唸った。音圧で耳が痺れ、雨粒が弾け飛ぶ。


 > ――転移座標確定。受信者:資質コード“灯狼”――


 耳鳴りと同時に世界が裏返る。瓦解する高架、滲むネオン、冷たい雨滴。視界は白で塗り潰され、次の瞬間、焦げた砂糖と南国の花蜜を溶かした甘い芳香が肺を満たす。

 気づけば水月は、月より蒼い天空に浮かぶ**浮遊環礁(グラヴィアート)**の外縁に立っていた。鎖のように連なる翡翠色の島々。高低差十数百メートルを跳ね下る紫電の滝。雲より高い空気は冷たいが、陽光は赤道直下のように激しい。

 「……異世界転移? 冗談だろ」

 足元の岩肌が脈動するように震え、遠くで竜の咆哮(ほうこう)が木霊する。絶景に息を奪われながらも、水月は本能的に一歩後ずさった。岩礁の端は崩れやすく、蒼藍の奈落が容赦なく口を開けている。

 その時、背後から鈴を振るような声が降ってきた。


 「そこ、危ないわよ。星潮(ほししお)に呑まれると、服だけ先に溶けちゃうんだから」


 振り向けば、藍に(おこ)る焔を抱く少女――**鵺山(ぬえやま) 燈子(とうこ)**が立っていた。漆黒のショートヘアに朱のメッシュ、灰銀の軍衣(ぐんい)は胸元を大胆に開き、汗と霧で濡れた肌が月光を弾く。

 「何か変な物でも付いてる? 名乗るわね――夜冠衆(やかんしゅう)暁色隊(ぎょうしょくたい)副隊長、鵺山燈子」

 「……日本人? いや、んなわけ……」

 「残念、ルーツは秘密。でも“転移者(ドリフター)”をガイドするのがわたしの役目」

 金木犀(きんもくせい)の甘香をまとった笑み。水月の鼓動が跳ね上がり、雨で透けた自分のシャツが肌に貼りつく不快感が、なぜか熱を帯びる。


 (ここで見栄を張れる男だったら、失敗続きの人生でもヒーローになれたんだろうな)

 そう思いつつも、水月は苦笑し、わずかな余裕を装って口笛を鳴らした。燈子が肩をすくめ、雨雲のような睫毛を震わせる。


 「口笛を吹く紳士、悪くないわね。……で、あなたの名は?」

 「煙生水月。冴えないフリーターだ。転移者になる趣味はなかったんだけど」

 「趣味じゃなくて運命かも。――契約成立ね。星鏡宮廷(せいきょうきゅうてい)まで護送するわ。その途中で死なないこと。そして……」

 燈子は一転、声を潜める。

 「わたしの“呪胎(じゅたい)”を解いて。この空を救って」


 浮遊礁を渡る細い岩橋を歩くうちに、晴れ間がのぞいた。陽光に照らされた紫電の雲が虹を孕み、遠方の島陰では白い竜が優雅に円を描く。

 (俺、ゲームのムービーの中みたいな景色に立ってる……)

 胸の高鳴りを抑え込むように深呼吸した瞬間、橋の下から耳障りな雷鳴が轟いた。

 「来たわね――雷鰐(かみなりわに)!」

 燈子が袖口から抜き放った蒼白い大刀**霧閃刀(むせんとう)**が空気を裂く。彼女の二の腕に浮かぶ汗が刀身へ滴り、冷たく飛沫(しぶき)を散らす。

 巨大な鰐の顎が裂け目のように開き、硫黄と焦げ鱗の匂いを撒き散らす。水月は本能で跳び退き、濡れたシャツの裾を破り捨てた。動きを阻害するものは要らない。

 (電脳迷宮で仕込んだ格闘術、異世界でも通じるか?)

 雷鰐が上顎から紫電を吐く。轟然たる閃光。視界が白く弾ける刹那、水月は寸前で踏み込み、拳を顎関節へ叩き込んだ。拳を伝う感電とペパーミントにも似た刺激臭。

 「手慣れてるじゃない!」

 燈子が背後を守るように跳躍し、霧閃刀が蒼の残像を描いた。二人の動きが合わさり、鰐の巨体が悲鳴を上げて浮橋を砕く。

 (背中合わせ――温度と脈拍が伝わる。臆病な俺が、妙に冷静だ)

 雨上がりの風が二人を包み、雷鰐は轟音とともに奈落へ墜ちた。


 日が暮れ、浮遊礁の窪地で焚き火を囲む。湿った木は煙を上げながら燃え、甘い樹脂香と獣脂を炙る匂いが混ざる。

 燈子は軍衣の上着を脱ぎ、タンクトップ姿で炎に手をかざした。肩口の細い傷が赤く染まり、水月は思わず膝立ちで近づく。

 「手当て、させてくれ」

 「優しいのね。じゃあ頼むわ」

 ポーチから取り出した薬草軟膏を指で伸ばし、彼女の肩に塗る。滑らかな肌に冷たい軟膏が伸びるたび、燈子の細い肩がピクリと震える。

 「ごめん、冷たいな」

「いいの、気持ちいい……ちょっとだけ」

 彼女の耳朶(みみたぶ)がほのかに紅潮し、水月の鼓動も一段高鳴る。


 やがて治療が終わると、燈子は炎を見つめたまま呟いた。

 「《呪胎》ってね、空の重力を縫い止める鎖。わたしの心臓と引き換えに、星鏡(せいきょう)の崩壊を遅らせている」

 「器ってことか?」

 「そう。“器”が壊れれば、空は墜ちる。みんな死ぬ。でも器がわたしじゃなくなれば、誰も傷つかない……はず」

 言い終えると同時、胸元の**妖燈石(ようとうせき)**が脈動し、タンクトップの布地を押し上げる。

 (小さな身体で、どれだけの重荷を抱えてるんだ)

 「鎖ごと断ち切る方法はある。――俺が探す。生まれて初めて、誰かを助けたいって本気で思った」

 燈子は驚いたように眼を見開き、そしてかすかに笑った。

 「……驚かされっぱなし。転移者は平凡な救世主なのね」

 夜風が星屑を運び、火花が弾ける音に紛れ、二人の鼓動がゆっくり重なる。水月は天を仰ぎ、光のない宇宙へ向けて握り拳を掲げた。

 (この空を守る。彼女と——少しだけ、俺自身の誇りを)


 その決意を胸に、二人の旅が幕を開ける。夜明け前の蒼い闇で、金木犀の香りと焚き火の煙が混ざり合い、煙生水月の心は、不思議なほど澄み切っていた。

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