四の月 ~ワジャ領へ~
【Bunny】
ワジャ領へやって来ました。
ここは知る人ぞ知る山あいの温泉郷です。美肌の湯として女性に人気があり、奥地には万病に効くと言われる秘湯があるそうですよ。
四年前までお隣リント王国の領土でしたが、ワイヴァン陛下の怒りを買い我が国の一部となりました。なんでも好色な前領主が、婚前旅行で陛下とお忍びで訪れていたリズ様を無理やり愛人にしようとしたのだとか。
ぞわっ。
番以外の男性から執拗に言い寄られるなんて、あまりのおぞましさに鳥肌が立ちます。
かつて獣人は耳としっぽを出した半獣化の状態で暮らしていましたが、人種差別や人身売買などの問題が起こり、いつしか人間と同じ人の姿でいるのが当たり前となりました。
そのため、獣人だと知らずに求婚する人間は多いのです。リズ様は華奢で可愛らしいお顔立ちですからモテるのでしょう。
恋愛事情を考えれば、外見で見分けがつかないのは不便ですよね。誰かに言い寄られそうになったら半獣化してみるのも有効な手立てなのかも……。
とはいえ、子どものころは面白半分によく半獣化していたものですが、大人になってからはまったくしていません。
今でもできるのかしら? 試してみましょう。
にょき。
あ、できました。
車のバックミラーにわたくしの長い白耳が映っています。その耳を隣に座っているウォルフが優しくなでて言いました。
「もうすぐ到着するよ」
慌てて耳としっぽを引っ込めます。
「疲れただろう、バニー。宿に着いたら、夕食までのんびりしよう」
ずっと座っていたわたくしよりも、曲がりくねった山道を運転しているアーサー卿のほうが疲れているはずなんですけど……。
アーサー卿もそう思っているのか、顔がヒクついています。
「そうね、早く温泉に入りたいわ。アーサー卿もゆっくり日頃の疲れを癒してくださいね」
「アーサーのことなんて気遣わなくてもいいんだよ。彼は運転手としてついてきただけなんだから」
ウォルフが口をへの字に曲げ、アーサー卿も「好きでついてきたんじゃありませんよ」と苦笑いしています。
そうなんです。本来、騎士である彼がわたくしたちのバケーションのために運転するだなんてあり得ません。しかし。
「アーサーもワジャへ行っておいでよ。遠いし不便な土地だから、交代で運転できるように運転手はもう一人いたほうがいい。それにここ数年、まとまった休みを取っていないだろう?」
というワイヴァン陛下のご指名で、否応もなくアーサー卿が同行することになったのでした。
でもね、運転ならわたくしもできるんですよ? 以前、サプワンの街を走ったときは爽快でしたもの。
そう訴えたのに却下されてしまいました。
「バ、バニーは座っているだけでいいんだよ。そういう面倒なことは俺たちがやるから」
ですって。
まったくウォルフときたら、過保護なんだから。
凹凸やぬかるみの悪路を想定したオフロード車での旅は快適。少し窓を開けると、清々しい新緑の風が吹き込みます。
ああ、いい気持ち。
そうこうするうちに到着したようです。
車を降りた目の前に、風格のある木造建築の湯宿がありました。
こちらはワジャ温泉郷の中で最も古い高級宿。ワイヴァン陛下がわたくしたちのために宿ごと貸切ってくださいました。
さあ、お風呂です!
チャポン。
湯の跳ねる音。
リン、リーン。
名も知らぬ虫の鳴く声。
サワサワと木々が揺れ、ピチュピチュ小鳥がさえずります。
晴れた空に山領が望める見晴らしの良さ。
これぞ露天風呂の醍醐味。
「はい、バニー。冷たいジュース」
湯につかりつつ、 ウォルフから柑橘系の香りがするグラスを受け取ります。のぼせないようにとの配慮でしょう。さすがウォルフ、気が利くわ!
熟したオレンジにグレープフルーツの苦みと酸味を足したような不思議な味わい。
「美味しい……」
「この辺りの山でしか採れないジャボンという果実だそうだよ。気に入ったのならゼリーとジャムもあるって」
そう言って、ウォルフもグラスを手に湯に入ります。
部屋にも小さな専用風呂があるのですが、せっかくの貸切ですもの。やっぱり大浴場ですよね。
男湯はアーサー卿、こちらの女湯はわたくしたち夫婦だけです。
ごつごつとした岩の湯船で二人並んで足を伸ばします。肩が触れ合うほど近い距離。癒されるわ……。
チャポン。
リン、リーン。
わたくしたちは、しばらく無言で露天風呂からの美観を堪能したのでした。
旅先というのは、気分も開放的になるのでしょうね。
どちらからともなく顔が近づいて……。
ちゅっ。
口づけを交わします。
ジャボンの甘苦いキスは、きっと、この旅のいい思い出になることでしょう。
「ウォルフ……」
「バニー……」
もう一度、口づけをしようと顔を近づけると――。
「いけません、今日は……」
「お黙り! 少しの間くらい、いいじゃないの。わたくしを誰だと思って?」
「おやめください! お嬢様っ……」
女性の言い争う声が聞こえてきました。
わたくしとウォルフは顔を見合わせます。
「どうしたのかしら?」
「さあ? そろそろ部屋に戻るか」
すっかり気分がそがれてしまいました。
湯から出た瞬間、出入り口に立っているバスタオルを体に巻いた若い女性と目が合います。縦巻のダークブロンドにブルーのつり目。少しふくよかで、良家の娘を思わせる色の白さをしています。
「キャァァ! なぜ女湯に男がいるのっ? ち、痴漢!!」
顔を引きつらせて絶叫する令嬢。そのすぐ後ろから、年かさの女性従業員が追いすがるようにやって来て「だからお止めしたのに」と泣きそうな声を上げました。
言うまでもなく、わたくしたちは素っ裸です。
見ず知らずの女にウォルフの裸を見られるなんて!
痴漢、いえ痴女は、そちらじゃないかしら。
そもそも、貸切なのにどうして別の客がいるの?
「出て行って! この宿はわたくしたちの貸切よっ」
わたくしは咄嗟にウォルフをかばうように前へ出て、大声で怒鳴っていました。
【Wolff】
「こちらの不手際で不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」
我々の部屋で、宿の支配人が床に額をこすりつけんばかりにひれ伏している。しかし、バニーは相当おかんむりのようで、そっぽを向いたまま一言も発しない。
俺も気分が悪い。せっかくバニーといいムードだったんだぞ。邪魔しやがって。
「ここは高級宿ではなかったのか?」
つい嫌味が口を衝く。
帝都には国内外から上質なものが集まる。ファッション、料理、インテリア……サービスも例外ではない。
貴族御用達のレミントンホテルの従業員は、顔を見ただけでその客の名前と身分をそらんじることができる。また、支配人ともなれば交友関係に加え、好きな花からステーキの焼き加減まで把握しているのだ。だからこそ、敵対する派閥の家門同士がうっかり顔を合わせるようなこともなく、塵一つない清潔な部屋は好みの花と香りで満たされ、料理は常に最良の状態で提供される。
俺たちビーモント家の獣人は最高水準のサービスに慣れているが、旅先では勝手が違うことも承知している。ましてや、こんな山間地だ。
それにお忍びで訪れたから、客室係やほかの従業員は我々が貴族であることを知らない。
でも、だからって、これはないだろう? 俺たち以外の客を入れない。簡単なことじゃないか。
「すみません。まさか、お嬢様がいらっしゃるとは……」
支配人によると、そのお嬢様の名はレイラ・ホールデン。十七歳になる人間の女性ということだった。
ホールデン家はこの宿の持ち主で、当主は代々ワジャ温泉協会の会長を務めている。そして四年前に追放された前領主の代わりに、現当主のレイラ嬢の父がその任に就いた。いわば地元の名士だ。
一人娘のレイラ嬢は母親を早くに亡くし、父親に甘やかされて育ったらしい。我がままなうえ、麓の領主館で暮らし始めてからは、周囲に対して高圧的な態度をとるようになったのだそうだ。さしずめ温泉郷の女王様といったところか。
「そちらの事情は、我々には関係ない。とにかく二度とこんなことがないようにしてくれ」
支配人に言い渡して、ひとまずこの件を収める。
その夜は山羊のチーズに衣をつけて揚げた郷土料理を味わい、食いしん坊バニーの機嫌も直った。
ところが、だ。
数日経っても、レイラ嬢は帰ろうとしない。宿側の人間だから客じゃないけど、普通、居座るか?
バニーは完全に無視している。
あれ以来、大浴場は男湯を使用して万が一にもかち合わないようにしているし、食事も部屋で取るか近所のレストランへ足を運ぶことにした。なのに、やたらと目につくんだよな。
「うふふ、楽しみねぇ」
バニーの浮き立った声。
そうそう、今日は洞窟の中にあるという秘湯へ行くんだ。
アーサーが車の用意をしている間、俺たちは正面玄関で忘れ物がないか荷物を確認する。タオルよし、入浴着よし、軽食も持った。
「お待たせしました。さあ、乗ってください」
アーサーが車のドアを開けた直後……。
「アーサーさまぁ」
玄関ホールの奥からドスドスと足音がしてレイラ嬢が現れた。小太りなのに華奢なパンプスを履いているせいか、バランスが悪くよろけそうになっている。
「わたくしも連れて行ってください。いいでしょう? レイラもアーサーさまと温泉に入りたぁい」
は? 何を考えているんだ。一緒に行く義理なんてないぞ。
レイラ嬢は甘えた声でアーサーに駆け寄り、腕にしがみつく。
それを見たバニーは、ピクリと右眉を上げ不快感を露わにした。
「あのあとレイラ嬢は、たまたま見かけたアーサー卿を気に入ったらしくて、ずっと付きまとっているの。美麗の騎士様も大変よね」
「え、そうなのか?」
レイラ嬢が宿内をうろついているのは、どうやらアーサーが部屋から出てくるタイミングを窺っているためらしい。客に付きまとうなんて常識を疑う。いくら温泉協会の会長の娘だからって、自分勝手にもほどがあるだろ!?
「アーサー卿だけならともかく、こちらにまで害を及ぼすのはよくないわね……」
バニーが独り言のように呟く。指先からバチバチと小さな音が鳴っているのは気のせいだよな?
その視線の先では……。
「お断りします。せっかくの休暇を邪魔されたくないので」
アーサーが腕にしがみつくレイラ嬢を片方の手で引き剥がしながら、にこやかに拒絶している。
ポカンとするレイラ嬢。それからやっと断られたことに気づいたらしく、顔が真っ赤になった。
ああ。こいつは、笑顔でキツいことを言うやつなんだ。番の本能がない人間の令嬢たちは、はっきり断らないとしつこく迫ってくるし、冷たすぎる態度だと悪い噂をばら撒かれることもある。だから、こういう対応らしい。
獣人だらけのエレギア国内では、獣人だとわかった時点で身を引く良識のある人間がほとんどなのだが、国外ではそうもいかないもんな。
特にワジャは閉鎖的な人間社会だ。色ボケ前領主が追放されてもあの強烈なレイラ嬢がいるのでは、とてもじゃないが陛下に再訪なんて勧められない。
「そんなぁ…………」
あからさまに肩を落とすレイラ嬢に一瞥もくれず、バニーは「そろそろ出発しないと日が暮れちゃうわ」と車へ向かう。
だが、すれ違いざまにレイラ嬢がバニーへ暴言を吐いたのを、俺は聞き逃さなかった。
「何よ。男を二人も侍らせて、ふしだらな女ね」
なんだとぉ! 絶対に許さん。
「君……!」
声を張り上げた瞬間、バチッと音がした。この距離では耳のいい俺ぐらいしか拾えない小さな魔力音。
「きゃぁっ」
レイラ嬢が転ぶ。スカートの裾がめくれ、太い足がむき出しになった。脱げた靴が転がり、ピンヒールがポッキリ折れている。
まさか……。
思わずバニーを見ると、素知らぬ顔で後部座席に座っていた。
「ウォルフ、早く」
「お、おう」
バニーに急かされて、俺も車に乗り込む。続いてアーサーも運転席へ。
車が走り出す。窓からはレイラ嬢を起き上がらせる支配人の姿が見えた。
「アーサー、おまえも災難だな」
「大丈夫ですよ、慣れてますから」
しみじみ言うと、カラッとした口調で返された。その屈託のない笑顔が逆に不憫だ。
とにかく、早急にレイラ嬢の父親と会って対処せねば――。
「ねえねえ、秘湯は混浴なんですって。冬は猿も温泉に入るらしいわ」
さっきの暴言などなかったかのようにバニーははしゃぐ。
彼女は気持ちの切り替えが早い。いつだって目の前の楽しみに一生懸命なのだ。それがまた可愛いんだけど。
そうだな、今は秘湯のことだけ考えよう。
俺はバニーの柔らかな髪をなで「温泉にはタヌキも来るらしいぞ」と囁く。
アーサーがハンドルを切り速度を上げると、全開の窓から爽やかな風が吹き抜けていった。




