プロローグ ~一日の始まり~
【Bunny】
わたくし、バニー・メイ・ビーモントの一日はキスから始まります。
今朝、目覚めたときには、すでに時計の針が午前十時を回っていました。
晩餐のワインをいつもより三本も多く空けてしまったせいかしら? ちょっぴり眠りすぎてしまったみたい。
隣では夫のウォルフがまだ寝息を立てていて……彼はお寝坊さんなんです。だからわたくしが起こしてあげるの。
彼と結婚して一年、毎日続いている習慣です。
ちゅっ。
ウォルフに口づけをすると、ほんのりアルコールの匂いがしました。唇がかさついて、少し硬くなっています。
うーん、やっぱり飲みすぎですね。
ウォルフと夫婦になって初めて気がついたことですが、同じ相手であっても同じキスは一つとしてありません。
蜂蜜のように甘いキス、涙が混じったような苦いキス、深いキス、軽いキス、ついばむようなキス。いつもは柔らかい唇が荒れているときもあれば、不機嫌そうにきゅっと固く閉じているときもある……。
きっと、その日の体調や精神状態が影響しているのだと思います。
わたくしはウォルフとのどんなキスも好きですけれど、健康第一ですからね、今夜はお酒を控えることにしましょう。
そんなことを考えているうちに、彼の瞳がうっすらと開きました。まだ眠いのでしょうか、焦点が合っていません。再び瞼が閉じていきます。
「朝よ、ウォルフ」
そっと耳元で囁きました。
すると、ウォルフの体がビクンと跳ね、反射的にわたくしの背中に両腕を回します。それからアイスブルーの涼しげな瞳がパッチリ開いて……どうやら、目が覚めたみたい。
「おはよう、バニー」
彼に抱き寄せられ、筋肉質の厚い胸板に顔を埋めます。
すぅ、はぁ~。
ベルガモットとシガーが混じったようなウォルフの匂い。胸いっぱいに吸い込んだとたん、多幸感に包まれうっとりします。
好き、好き、好き、大好き……!
え? 変……人、ですか?
普通は朝っぱらから夫の匂いを嗅いだりしない?
まあ、人間からするとそうかもしれませんね。
しかし、この世には人間と獣人が共存しており、わたくしはウサギ、ウォルフは狼の獣人なんです。
獣人は、見た目は人間と変わらないけれど、自分の種族の動物に獣化できます。そして運命の糸で結ばれた“番”と呼ばれる相手が存在し、お互いをこよなく愛する習性があるのです。番以外を恋愛対象として認識しないので、人間と違って浮気の心配もありません。
実はわたくしも番と出会う前までは、毎朝のキスはもちろん、自分が人様の体臭にうっとりするなんてまったく想像していませんでした。
最初のころは、あれ? わたくし、どうしちゃったのかしら!? って、ずいぶん戸惑ったものです。でも――。
『うちは夫がキスして起こしてくれますの。わたくしが朝弱いものですから』
『わたくしなんて、ぎゅうぎゅうに抱きしめられて目覚めますのよ? さすがに夏は暑苦しいですわ』
『夫は香水を嫌がりますの。わたくしの匂いが“ごちそう”なんですって!』
などと、先日もオマリー伯爵夫人のお茶会で盛り上がりましたから、これが獣人夫婦にとってはごく普通の日常らしいですよ。
ええ、断じてわたくしは変人なんかじゃありませんとも。
「おっと、もうこんな時間か。お腹空いたろう? 何か部屋に持って来させようか。それとも食堂へ行く?」
「いいお天気だから、テラスで食べましょうよ」
朝寝坊したのに、のんびりとした会話が交わされます。これが労働階級の夫婦だったなら「遅刻だ!」と慌てふためいていたことでしょう。
ですがビーモント家はエレギア帝国の名門で、当主のサプワン公爵はウォルフの父親です。領地以外にも一族が所有する不動産が世界のあちこちにあり、いくつもの事業に投資しています。
つまり、超お金持ち! 働かなくとも生きていけるのです。
わたくしたち夫婦の住まいは帝都にあります。ビーモント家の別邸の一つなので、領地にある本邸よりもかなり狭い……たった二十部屋しかありません。
けれども屋敷の管理は執事が、掃除や洗濯はメイドがやってくれますし、料理は専用の料理人がいます。ビーモント家の領地と財産管理は、当主の管轄なので手出しは不要。夫婦の個人資産は、優秀な専門スタッフが運用しているため順調に増えていきます。
家門を背負う重責もお金の心配もない……常に番を優先したい獣人にとって、これはとても幸運なこと。時間を気にせず、いつでも愛し合えるのですから。
使用人たちが朝食の準備をしている間、わたくしたちは身支度をします。
顔を洗い、動きやすい室内着に替えてから、わたくしはウォルフの青みがかった黒髪をブラシで梳かしてあげました。
優しく、優しく。
あれっ? つむじにぴょんと跳ねる寝癖が! なかなか直りません。困ったわ。
ふと鏡越しにウォルフと目が合い、彼の端正な顔がくしゃっとした笑顔になります。外では凛としたポーカーフェイスなので、これはわたくしにだけ見せてくれる特別な表情なんです。
んもうっ、すごく可愛い!
『……旦那様、奥様、お食事の用意が整いました』
化粧を終えたころ、ベッド脇のチェストに置かれている通話機から、メイド長ジョアンナの声が聞こえてきました。
先代当主の時代はわざわざ使用人が寝室まで知らせに来たらしいのですが、魔力石を動力源とした魔道具が発達した今では通話機でのやり取りが主流です。このほうが二人きりの時間を邪魔されずにすむうえ、連絡時間が短縮され料理が冷めないので便利なのです。
わたくしたちが中庭のテラスへ赴くと、白いテーブルに用意された金色のコンソメスープからは、まだホカホカとした湯気が立ち上っていました。
ふんわりオムレツ、ポテトとベーコンのガレット、コールドビーフに白パン、季節のフルーツ……美味しそうです。
庭師が丹精込めたスイートピーを眺めながら、ゆっくりといただくことにしましょうか。
澄んだコンソメスープが空腹の胃に染み渡ります。このスープは、たっぷりの牛肉と野菜をじっくり煮込んだ料理長自慢の一品なんですよ。
「このあとバニーの予定は?」
「ジョアンナと打ち合わせよ。来週、ホーウッド夫人を招いてお茶会を開くの。茶葉とお菓子を決めるだけだから、そんなに時間はかからないと思うわ」
ウォルフは父親の持っている爵位の一つ『イサード伯爵』を受け継いだので、わたくしは伯爵夫人です。
社交の一環として晩餐会やお茶会を開くこともあり、準備は妻であるわたくしの役目なんです。
まあ、ウォルフとの時間が大切ですから、必要最小限ですけどね。
「俺も投資顧問のカーティスと打ち合わせがあるんだが、すぐに終わらせるよ。レミントンホテルへコーヒーを飲みに行かないか?」
ウォルフはコールドビーフにナイフを入れながら、わたくしを誘います。
このところ紳士たちの間では、焙煎した豆を挽いてお湯で抽出した飲み物……コーヒーが流行っていてウォルフもすっかりお気に入りの様子。美味しいと評判の店を聞きつけては足を運んでいるようです。
「いいわね! レミントンホテルの喫茶室は、わたくしも行ってみたいと思っていたのよ。コーヒー風味のクリームを使ったロールケーキがあるんですって」
ご婦人方がスイーツに目がないのは万国共通でしょう。かく言うわたくしも、苦いコーヒーよりクリームたっぷりのケーキのほうが好き。
ふふ、楽しみです。
微笑むと、ウォルフに頬をなでられました。
「今日もキレイだよ、バニー。もし喫茶室でほかの男に声をかけられても、返事なんかしなくていいからね」
「あら挨拶くらいは……」
「挨拶もだ。君の麗しい声を聞かせるなんてとんでもない。それから――」
ウォルフは真面目な顔でわたくしに注意事項を伝えます。人間の中には、息を吸うように女性を口説く遊び人もいるのだとか。
それにしても大袈裟ですよね。だってわたくしは、殿方から声をかけられるような絶世の美女ではないのですから。重たげな奥二重の瞼と黒い瞳、髪だってよくある栗色だし、頬にはうっすらとそばかすが散っていて。
それでもウォルフは、毎日「キレイだ」と言ってくれるのです。
惜しみない愛情を注がれ、わたくしはいつも満たされています。
ウォルフの番であること。
それが今のわたくしのすべてです。




