秋の夜ながのふしぎな体験
『 序 章 』
夜の診察終了。
久しぶりに、サンクターボで夜の峠に出撃するよ。
エンジン始動!
サンクは、秋にわたしのところにやってきた。その時、機嫌が悪かったエンジンをなだめすかして調節してもらった。なので、今の時期が一番機嫌がいいんだよね。
暖機中にiPodをセットする。
音楽は何にしようかな...。
しばらくして水温計が動き出した。
ライトを点ける。行き先が照らされる。
クラッチを踏み、ギアを1速に入れ、サイドブレーキを戻す。
エンストしないようにゆっくりとクラッチをつなぐ。
一瞬エンジンの回転が落ち、そしてサンクは動き出した。
しゅっぱ~つ!!
しばらくはわざと裏道を通ってサンクの体を暖めてあげる。
十分暖まるまで水温計の針はしばらくふらふら揺れてるけど、やがて直立で安定する。
幹線道へ。
2速。回転計は4000ほど。
規則正しいエンジンの音。どお?気持ちいい?
でも、これじゃぁ、排気音がうるさくって音楽が聞こえない。
3速。
のんびりいこう。
幹線道を外れて峠道へ。
左右に不規則に蛇行するアスファルト。
ライトが慌ただしく変化する道の状況を映し出す。
どれだけ速く走れるかなんて、無理はしない。
どれだけスムーズに走れるか。
サンクは、アスファルトに吸い付くようにカーブを曲がってゆく。
ゆっくりでも、この感じが気持ちいい。
大きなカーブ。先は全く見えない。
ブレーキを踏み速度を落とし、不測の事態に備えそのままブレーキペダルに足をかけカーブに侵入。
突然視界に入る通行止めの看板。
迂回路、右。
ハンドルを切る。
右への侵入を確認して、足はブレーキからアクセルへ。
そして加速。
え?!
その先でライトが照らしているのは、遥か遠くの木々。
道がない!
次の瞬間、体が浮いたような気がした...。
『 本 編 』
なんだか、体がふわふわするなぁ...。
うわ!
急に体に力が加わる。
引き寄せられる。
どこに?!
.......。
急激な力で混ぜ返された澱が、少しずつ沈んでゆく...。
徐々にはっきりする意識。
「いらっしゃい。よーきたな」
どこからか、そんな声が聞こえた。
覚醒。
ゆっくり目を開ける。
薄暗い部屋。
わたしの前には大きな古びた木の大きく長いテーブル。そしてわたしは薄汚い椅子に座っていた。
「ここ、どこ...」
周りを見る。
広い部屋なのかな? 暗くってはしっこの方はよく見えないや。
一つ扉はあるけど、窓はなさそう。
あれ? テーブルのわたしとは反対側のすみの方がぼんやりと光っているような...。
そうだ。声の主は?
わたしは急に恐くなって椅子から立ち上がった。
がたんと音を立て、椅子が後ろにずれる。
「まぁ、そー、慌てんと。ゆっくりしてきぃや」
ひえ...。
恐怖は頂点に達した。周りを何度も見渡し、必死に声の発信源を探る。
「ここやがな」
声がするのは、テーブルのすみがぼんやり光っている方向。
目が慣れたのか、そのぼんやり光っていたのはパソコンのモニターだとわかった。
そしてモニター越しにわたしを見つめる顔。
!!
あああ、もう、ダメ、声でない...。ちょっと、ちびったかも。
恐怖に後ずさりしたわたしは、さっきまで座っていた椅子にぶつかり、しりもちをつくようにまた座ってしまった。
「そない驚かんでもええがな。取って食うわけやないし。誰もがとおる道や」
その声の主は、立ち上がるとゆっくりと近付いてきた。
近付くにつれ徐々にその姿がハッキリしてくる。
小柄な男性。老人。眼鏡をかけた、しわだらけの...、え?なんだかひょうきんそうな顔。
おまけにスーツ着てるしぃ...。
似合ってないよ、それ。
なんなんだ、こいつ?
「悪いようにはせーへんさかい、まぁ、気を楽にしといてんか」
それに、このいかにもうさん臭そうな関西弁。
いつしかわたしの恐怖心はどこかへ飛んでしまい、近寄ってくるそのおかしな相手の存在が滑稽にさえ思えてきた。
そうなると、もう恐くなんかないぞ。
わたしは両手を力一杯握り、気合いを入れた。
よし。
「あのぉ、いくつか質問してもいいですか?」
「かまへん、ええで」
スーツ姿の老人は、テーブルのはしに寄りかかるように手をかけると、わたしに向かってウインクした。
けとばしたろか、こいつ...。ま、ぐっとこらえて。
「まず、あなたは誰ですか。そして、ここはどこですか」
「ま、今の状況では適切な質問やな」
そう言いながら、老人はしわだらけの顔でにこりと笑った。
「驚いたらあかんで。まず、わては何を隠そう、あんたらの世界でゆーところーの、死神や。そして、ここは、まぁ、死の世界へ入る前室...みたいなとこやな」
なんだか、唖然。
その展開に、返す言葉もないわ...。
「おおお、その顔は、全く信用してへんな」
「だって、失礼ですけど、あなたのどこが死神?」
老人は小さなため息をついて肩を落とすと、次に大きく息をすってしゃべりはじめた。
「なにゆーてんねん。これでも気ぃつこうてんで。ほな、わてがでっかい鎌もって黒いマントでも着てて標準語しゃべっててみ。こわーてしゃーないがな。はじめての場所でそんな怖がらせてもーたら、これからの第2の人生散々やろ。わてがこないかっこしとんのも、はじめてのヒトでも、まぁ、ここに来るんはみんなはじめてやけどな、怖がらんよーにってんで、サービスやがな。最近はきちんとサービスせんと、すぐに苦情が来るさかいな。ほんま、やりにくなったわ。ふは...」
一気にしゃべりきった自称死神は、酸欠になったのか肩で息をしている。そして、よろよろとこちらに来たかと思うと無理矢理わたしを椅子からどけ、わたしの座っていた椅子を奪い取ると、崩れるように座った。
「ふぅ...。一気にしゃべると息切れるわ。年寄りに無理させたらあかんで」
そんなおかしな老人をほっておいて、わたしは考える。
どうしてこんなことになってるのだ?
なんだか、思い出してきたぞ。
そうか、わたし、サンクで走ってて、通行止めで、曲がったら道がなくって...。
体が浮いてたような...。
ってことは...。
「あの...、わたし、死んじゃったってこと?」
深呼吸して息を整えてる死神に聞いてみた。
「いや、まだ正式には死んでぇへん。ここは死の世界の前室っていったやろ」
死神は一旦話を止めて、一回深呼吸。そして続ける。
「まぁ、今からわてがあんさんを死の世界へ送るかどーかここで審査するってことやな」
なんだか、すごいことになっちゃったな。
でも、わたしが死んじゃうってどんな感じなんだろ?
「まぁ、はじめての経験やから、すぐには受け入れられへんのもしゃーないわな。けどな、わてかて鬼やない。見たとこ、あんさんまだ若そーなねーちゃんやで、ここで死なせたらもったいないがな。まかせとき、もとの世界に戻れるチャンス与えたる。どや?!」
もったいないって...なにが?
ところで、なんで、見ず知らずのおかしなじーさんにわたしの生き死にをどーこーされなきゃいかんのだ?
意味不明で理解できない。
腹立ってきたし...。
もー、どーでもよくなってきたぞ。
なんだか、投げやりな態度とっちゃいそう。
そしてわたしは鼻息荒くぶすっとする。
「おいおい、戻るチャンスやで。もっと食い付いてこんかい」
椅子から追い出されたわたしはテーブルに腰掛け、ふてくされ天井を見上げた。
「死んじゃったなら、それでもいいけどぉ...。別に痛くなかったし」
「そんなこと、言わんといてや。このままあんさんを送ったら、わての仕事のーなってまうがな」
視線を死神に移す。
「じゃぁ、審査ってどんなことするの?」
「審査はなぁ、クイズや!」
死神は得意げに親指を立てた。
意味分かんない...。
「もう、いいよ...」
わたしはテーブルで座り直して死神に背を向けた。
きっとわたしの背中には『あなたにつきあってる暇はない』って書いてあったに違いない。
「なんやねん、その態度は。これも怖がらせへんためのサービスやがな。ったく、最近の若いもんはヒトの気遣いちゅーもんがぜーんぜん分からん、困ったもんや」
「そー言いますけどね。遊びじゃないんだから、クイズで生きるか死ぬかなんて決めてもらいたくないですよ」
死神に背を向けたまま、わたしは言った。
「せやな。それもそーや。じゃぁ、クイズやのーて、試験ちゅーことにしよう。それならええやろ」
「そんな...、言い方変えただけじゃん」
死神はわたしの言葉を無視して立ち上がると、はじめにいたパソコンの前に移動し、一本の指でゆっくりとキーボードを叩きはじめた。
時折、目を細めたり、眼鏡をずらしたりしてモニターを見つめる。
「まぁ、このコンピュータァってもんは、わてらの歳にはきっつーてたまらんわ。せやかて、これ覚えへんと仕事のーなってまうしな」
わたしは死神のいなくなった椅子に座り、頬杖をつく。
「よっしゃ、あんさん、名前は?」
「あいざわ けい」
「年齢」
「二十歳」
キーボードを叩く死神の手が止まる。
「ウソはあかんで」
「35」
「ま、妥当な線やな」
ふん、だ。
「職業」
「獣医師」
「なんや、あんさん、獣医さんか」
死神はキーボードからマウスに手を移し、何度かクリックした。
職業欄はプルダウンメニューなのか?
最後にポンと勢い良くキーボードを叩くと、死神はモニターを覗き込むために曲がっていた背中をギシギシと音を立ててのばした。
「今、あの世にあんさんの情報を送ったさかい、折り返しあんさん用の試験が送られてくるわ。もうしばらく待っとってや」
何かすごい仕組み。
それにしても、まさかこの歳になっても試験を受けるなんて思ってもみなかったな。死ぬのも大変だ。
「あんさん、獣医さんってことは手術したりもするのんか?」
手持ち無沙汰の死神が話しかけてきた。
「まぁ、そうです」
「たくさんの動物を助けはったか?」
「どうかなぁ...」
「助けられへんかった動物もたくさんおるやろなぁ」
「......」
いやらしい言い方...。
ひょっとして、助けられなかった動物の数で地獄ゆきが決定するのかぁ。
まいったな、こりゃ...。
「お、来よったで」
わたし用の試験が到着したらしい。
死神は何度かマウスでクリックした後、真剣な顔でモニターに見入った。
「あんさんにぴったりの試験問題やな」
死神はモニターから視線を外すと、テーブルについているいくつかのスイッチのうちの一つを押した。
突然明かりが消える。
真っ暗...。
「ありゃ、ちごーたがな。こっちやな」
明りが戻ったところで隣のスイッチを押した。
突然わたしの前のテーブルの一部が四角く持ち上がったかと思うと、モニターが出てきた。すぐに電源が入り画面が明るくなる。
「これからその画面に映し出されるのは、あんさんの心の奥底に眠っている記憶の一部や。ただし、あんさんがそれを覚えているかどうかは別問題やけどな」
死神はそこでいったん話を止めた。そしてモニターをしばらく見つめたあと、軽く咳払いをし、真剣な顔つきでこちらをみた。
「ええか...。そこに映し出されるのは、今までにあんさんが助けられへんかった動物たちや」
ああ、やっぱりそう来たか...。
地獄ゆき、決定。
「まぁ、そー硬くならんときぃ」
死神は、視線をこちらに向けたまま、ずれた眼鏡をかけ直した。
「ところでなぁ、助けられへんくて亡くなった奴らが、一番報われんちゅーのはどーゆー時やと思う?」
突然の質問の意味が、地獄ゆきで頭がいっぱいのわたしには理解できなかった。
沈黙...。
そして、死神はわたしの答えを期待することなく話しはじめた。
「生きてるもんはいつか必ず死ぬ。病気であれ、事故であれ。それはそいつの運命やからしゃーない。せやから、助けられんかったことをとやかくゆーてんやないんやで、そこんとこ間違えんといてや。報われへんのはな、助けられへんかったやつのことを忘れてしまった時や。忘れられたら、死んだやつはほんと報われへんのや」
死神のちいさな瞳に力が入る。
次に呼吸を整え、ゆっくりと大きく息を吸う。
「さて、あんさんが助けられへんかった動物たちを今でも忘れずに覚えているか、とくと見させてもらうで。それがあんさんの試験や!」
意気よーよーと言い放った死神は、親指を立てると最後にニッと笑った。
そんなのあり?
ヒトの心をもてあそばないでよ。
なんだか、また腹が立ってきたぞ!
「そーいうの、やめてもらえませんか。みたくないです。そんな変なことするくらいなら、このまま死なせてください」
硬い表情でにらみながら言う。
「どあほ!何ぬかしとんねん!」
突然の怒鳴り声と強烈な威圧に、わたしは椅子から転げ落ちそうになった。
「これはあんさんが今まで一生懸命してきたことやないのんか? それを見れんたぁーどーゆーこっちゃ!」
すごい剣幕で怒鳴る死神の顔からは、先ほどまであったひょうきんさは消えていた。
でも、そう言われると返す言葉がない。
しっかり怒られてしまった。
わたしは転げ落ちそうになった椅子の位置を整え、ちゃんと座り直した。
「ごめんなさい。お願いします」
「せやな、そー素直じゃないとな」
死神の顔が急に優しくなった。
ほんと、爺さんなりに精一杯気を使っているのかも。そんなふうに思えてきたよ。
「さぁ、試験は50問あるでぇ」
死神が満面の笑顔で言ってきた。
その笑顔に、一瞬、首閉めたくなった。ところで死神は死ぬのか? まぁいいや。
「あの、合格点は?」
一応聞いてみる。
「なにゆーてんねん。全問正解に決まっとるがな」
「そんなぁ」
「アホぬかせ。亡くなった子に差別があってええもんやないやろ」
「あ...、はい」
もう、いちいち気に触るけど、正しいこと言ってるから言い返せないよ。
「ほな、はじめよか」
死神はそう言うと目を細めながらモニターを見つめ、人さし指でキーボードを叩いた。
「第一問...」
わたしの目の前のモニターに一瞬ノイズが入った。すると、徐々に写真のような映像が浮かび上がってきた。
これがわたしの記憶...?!
イヌの顔。
ちょっと大きめのチワワかな。
映像がスライドショーのようにゆっくりと変わっていく。
診察室? わたしの病院じゃない...。
そうだ、代診の時だ。
手術室。
剣状突起まで大きく開いたおなか。
ああ、思い出した。
あの子だ。
「どや? 覚えとるか?」
わたしはモニターから死神に視線を移した。
「はい。横隔膜ヘルニアの子です。ちょっと大きめのチワワ。男の子でした。手術中に心停止を起こして、直接心マッサージを行いましたが、戻りませんでした」
「ピンポーン!大正解」
死神はそう言うと、親指を立てニッと笑った。
「あの、そーいうノリやめてもらえませんか。ただでさえ、心の中におかしな年寄りが土足で入ってきてる感じなんだから」
わたしがにらむと、死神は手を挙げたまま親指だけ引っ込め、反対の手で白髪だらけの頭をかいた。
「まぁ、そー怒らんでも...」
しょんぼりとした小さな声が聞こえた。
モニターの裏に小さくなって隠れる死神。
しばし沈黙...。
重い空気が立ちこめる。
ふと視線を感じる。
モニターから半分顔を出し、彼が申し訳なさそうにこちらを見ていた。
きっと行動の一つ一つが、怖がらせないための彼のサービスなんだろうな。
仕方ないなぁ...。
「次、お願いします」
モニター越しに見える彼の顔がほころんだ。
すると、モニターを乗り越え、ひょこっと顔を出す。
「ほな、いくで。第二問」
わたしの前のモニターに、今度はネコの顔が浮かび上がった。
白い子。
後ろ足を引きずって痛がってる。
ああ、あの子だ。
「分かりました」
「お、早いやないか」
「心筋症で、血栓の手術をした子です。腎臓への血管も詰まってしまったので緊急で手術しました。でも、血栓の摘出後、心不全で亡くなりました」
「正解やな」
モニターに映し出された画像がきっかけとなり、それ以外にもわたしの頭の中に次々と関連した記憶がよみがえってくる。
「第3問」
モニターに映る小さなネコ。
ガリガリに痩せて、下痢と嘔吐。
汎白血球減少症で亡くなった子だ。
頚静脈が細くって、カテーテル入れるのに苦労したっけ。
さらにモニターに画像が映し出され、試験が続く。
あ、肺水腫の子だ。
これは交通事故の子。
動物の顔。
飼い主さんの顔。
いくつもの病気。
内科疾患。
外科疾患。
予測できた死。
突然の死。
その度に、よみがえる記憶。
つながる記憶。
記憶の洪水。
ああ、こんなにもたくさんの記憶があったなんて。
止めどなく込み上げる、たくさんの憶い。
そして、後悔。
懺悔...。
ごめんね。
死なせちゃって、助けられなくって、ごめんね。
でもね、みんな覚えてるよ。
忘れてなんかない。
これからも、ずっと忘れない。
絶対忘れないから...。
いつの間にか、あふれだす涙。
モニターが歪んでゆく。
止まらない涙。
みんな、ありがとう...。
どれだけ時間が経ったのだろう...。
気が付くと、わたしは椅子の背に深くもたれかかり、天井をぼーっと見ていた。
目が腫れぼったい。
涙が乾いたのか、頬がちょっと突っ張る。
あ、お化粧、どーなってるかな?
わたしは一つ深呼吸をすると、ゆっくりと頭を戻し、椅子に座り直した。
「よーがんばったな。今まで全問正解や」
いつの間にかわたしの前に立っていた死神が、優しそうな笑顔を向けていた。
「記憶はな、引き出しの中身と一緒や。いっつも中身を外に出しとく必要はない。そのかわり、何がどこ入っとるかしっかり覚えとかなあかん。ええな」
「はい...」
わたしが返事をした直後、その顔はまたいやらしい顔に変化する。
ヒトの心をのぞき見る顔...。
「さて、最後の問題やで」
わたしは目の前のモニターを見た。
ああ、でも、この気持ちは何?
わたしはこころの変化に気付いた。
ひょっとして、期待してる。
そう、期待だ。
また逢える
今度はどの子に逢えるのか。そんな期待...。
「最後は、この子や...」
同じようにモニターにノイズが入った後、ゆっくりと画像が浮かび上がった。
仔ネコだ。
薄汚れてるけど、白い毛の子。
短いしっぽ。変にカギ状に曲がってる。
ガリガリに痩せて...、ノミがいっぱい。
目ヤニと鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。
補液してる。脱水してるんだね。
入院室の様子。入院してたんだ。
わたしジャージにTシャツだ。そうか、夜中に入院室の様子を見に行ったんだ。
でも、この子誰だろ?
FVRで死んじゃったのかな?
わたしはモニターを見つめ、さらに画像が変わるのを待った。
しかし期待に反し、次に現れた画像は一番最初のものだった。
画像がひとまわりしてしまった。
ヒントはこれだけ?
誰?
再び流れはじめた画像を食い入るように見つめる。
どこかに思い出す手がかりがあるはず。
しかし、2周目も終わってしまった。
3周目。
4周目...。
「どないしたん? 最後の問題やで。今まで全問正解のあんさんならお茶の子さいさいやろ」
だめ、思い出せない。
なぜ?
ごめん。
わたしはきみのこと、思い出せない。
この最後の問題ができなければ、わたしはあの世行き...。
でもそんなことはどーでもいいよ。ただ、思い出せないきみに申し訳ない...。
忘れられたら報われない...、死神の言ったその言葉が、わたしのこころに深く突き刺さった。
ごめんなさい...。
「時間切れや...」
死神の声が悲しく響いた。
「どーしても思い出されへんか?」
「はい」
「しゃーないな。ほな、これ見せたるわ」
死神はモニターを確認すると、キーボードを叩いた。
わたしの前のモニターに新しい画像が浮かび上がる。
おとなのネコ。
動いてる。今度は動画?
どこだろう?
部屋の中を元気良く走り回っている白いネコ。
猫じゃらしで遊んでもらってる。
あっ...。
一瞬映ったカギ状のしっぽ。
さっきの子?
え? どーして?
「まだわからんか。しゃーないなぁ、特別出血大サービスで教えたるわ」
死神はモニターの前を離れると、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「それは、今のその子の姿や。その子は今でも元気良く、しあわせに暮らしとるで」
「え? でも、亡くなった子じゃ」
「だははは、この子はちゃんと生きとるがな。道ばたで倒れとったのを誰かに拾ってもろて、死にかけとったんをあんさんが元気にしたんや。そしていい里親さんにもらわれて...」
そんな子、いたんだ。
もー、何がなんだか分かんない。
「まぁ、最後はひっかけ問題やな」
その、いかにもヒトを上手くひっかけたという得意げな態度、ちょーむかつくんですけど。
ああ、でも、生きてるならいいや。
これで心置きなくわたしはあの世へ行ける。
「残念やけど、最後の最後で正解できんかったな」
死神は手でちょいちょいとわたしを払いどける仕草をすると、わたしが座っている椅子を奪い取って腰掛けた。
「でもな、これでええんや。亡くなった子は忘れられたら報われへん。でもな、助けてもらった子はたとえ忘れても構へん。なぜなら、助けてもらった子がちゃんと助けたヒトのこと覚えとるさかいな。だから、助けた子は忘れてもええんや。さっきの子かて、あんさんのこと、忘れてへんで」
モニターには、部屋を走り回る白いネコの姿が今も映し出されていた。
死神は、椅子から立ち上がるとスーツのポケットに手を突っ込み、何やら大きな塊を取り出した。
「手を出してみ。右手や。手を広げて、手のひらを上に向けて」
わたしは言われた通りに手を差し出す。
死神が、手にした塊をわたしの手に重ねる。
そして少し力を加えると、ゆっくりとその塊をどけた。
手のひらを見る。
そこには、『 X 』と赤で大きく書かれていた。
ああ、わたしはほんとに死ぬんだ...。
死神の顔を見る。
優しく微笑んでいる。
その顔を見て、涙が出てきた。
「ええか...」
死神がゆっくりと口を開いた。
「この手の印はな、あの世へ行くには不適合ちゅーことや...」
え?
もう、涙で、あなたの顔が見えないよ。
「つまり、合格や。さぁ、もとの世界へ帰りぃ...」
優しい声が心に伝わる。
次の瞬間、突然目の前が真っ白に変わった。
体が後ろに引っ張られる。すごい加速。
周りは強烈な光。
何も見えない。
どんどん、どんどん浮かび上がる。
まだ加速してる?
いや、減速?
上はどっち。
右は?
左は?
ああ、光が眩しい。
でもなんだか気持ちいい。
そして、意識が遠のいてゆく...。
『 終 章 』
どっどっどっどっどっ......。
聞き慣れた音。
エンジンの排気音。
サンクの音だ。
ゆっくり目を開ける。
同時にハンドルにもたれかかっている体を起こす。
わたしはサンクの中にいた。
静かにアイドリングを続けるサンクターボ。
ヘッドライトは通行止めの看板を照らしていた。
「帰らなきゃ...。みんなが待ってる。きっとはぐちゃんは、ケージの中でおしっこ我慢してるぞ」
ギアをバックに入れて、少し戻ったところにある待避所でUターンする。
?
シフトを握っている右手に、何かを感じた。
手を持ち上げ、握ったままこちらを向ける。
そして、ゆっくりと手を広げた。
ああ...、
ありがとう...。
わたしはやさしくシフトに手を当てると、ギアを入れた。
そして、ゆっくりとクラッチを繋いだ。