乗り越える
試合が動いたのは、5回だった。
フォアボールで一塁2ランナーを置いた時だった。
二階堂さんの投げたボールが佐倉さんのミットから逸れて、ワイルドピッチとなった。
佐倉さんも意地でなんとか前に転がしたが、それでもロスは大きい。あいにく足の速い選手で1、2塁にランナーが進んでしまった。
しかし、進塁はさせてしまったが、それよりも重大なこと起きていることに気づいた。
ふとホームベースの方をちらっと見ると、そこには佐倉さんが足を押さえてうずくまっていた。
ワイルドピッチに手を出した打者の打球が予期せぬ方向にバウンドをしたらしく、防具のつけていない足の内側に直撃したらしい。
投球が直接当たった訳では無いが、打球も相当勢いがあるから防具をつけていない所に当たるととてつもない痛みを伴ってくる。
急いで控えていた2年の先輩が湿布作用のあるスプレーを持っていって吹きかけた。
佐倉さんは足を押さえながら荒い息をしていた。
しかし数分すると、その痛みに耐えていた表情もだんだんと元に戻っていき、完全ではないがマシになったと言って立ち上がった。
するとマウンドに残っていた二階堂さんは、デッドボールをしたわけでもないのに帽子を取って深々と頭を佐倉さんに下げた。
先輩への謝罪の意味だろうか。
すると佐倉さんは立ち上がったまんま、その表情を曇らせることなく、むしろ笑顔で「ストライク」のハンドサインをした。
多分このサインの意味は「ストライク」ではなく、「大丈夫」という意味で使われたのか。
デッドボールをきっかけに調子を狂わすピッチャーも多いが、佐倉さんの温かいハンドサインによって固くなっていた二階堂さんの表情も柔らかく戻った。
やはり自分になにかトラブルが起こってもすぐに平常に戻すことができる、そんなキャプテンは心強い。
佐倉さんは周りにバレないように、まだ足をさすっているのがこちら側から見えたが、そのまま構え直した。少しの心配もあったが二階堂さんには悟られないように、佐倉さんはミットを上下左右に動かし、どこに投げても良いという合図を出した。
「最低6回投げられれば上等だ。」
試合が始まる前にキャプテンが二階堂さんに言っていたのが聞こえた。
あと一回、あと一回耐えられれば俺と交代できる。そう願いながら試合展開を見守ることにしたが、このあと二階堂さんは俺の予想を遥かに超えてくることを、俺はまだ知らない。
6回、神栖工業の強力打線がここぞとばかりに二階堂さんの球を打ち崩しに来た。
狙いをストレートに絞り、インコースだろうとアウトコースだろうと積極的に力技で責めてきた。
そのスイングはここまでの5回で二階堂さんの投球をすべて解読したかのような大胆さを見せてきた。
そしてあっという間に1、2塁にでた神栖工業をゲッツー体制で警戒していたものの、4番にライト線ギリギリの長打を放たれてしまった。
その間に2塁の走者は帰還。
そして中継でショートがボールをホームに送ろうとしたその時。
ショートの視界の隅を、走者が通ったのがわかった。
まさかこの距離で1塁からホームを狙ってきたのか?
一度振り向いた時間がロスとなってしまい、バックホームと足がベースにつくのがほぼ同時であった。
審判の判定は、
セーフ。
6回、ついに試合が動き、2対0となった。
前半は極力まで相手を深く読み込み、中盤から後半にかけて一気に点を入れてくるというタイプのチームだということは事前に手に入れていた情報だった。
しかしさすが全国レベル、ここまでの押しようだと押されている側の腰が引けてきてしまうのもわかる。
しかしここで負けるなんてありえない。
二階堂さんはいつものように頭を下げて、帽子を深く被っていた。
多分、打たれたときの癖だ。
そろそろピッチャー交代と声がかかるか、と腕を軽く回した。
しかし、交代の声はかからない。
すると二階堂さんが帽子をくいっとあげる。
その光が入った瞳は、まだ生きていた。
この前まで俺が言うのも何だが豆腐メンタルだった二階堂さんが、2点取られてもなお、笑顔を保っていることに俺は驚きを隠せなかった。
「大きな舞台は、大きな責任を伴う。でもそれだけじゃあない。責務を全うした時、その何倍もの成長をも手にすることができるはずじゃ。」
となりの颯がつぶやいた。
そしてこちらを見て、「新田監督のお言葉でござるよ」とニッと笑いながら言った。
メンタルと実力が着いてくるとは限らない。
二階堂さんが大空に向かって手を振り上げる。そしてかつて無いほどの勢いでそれを振り下ろした。
コントロールより、球速を優先したのだろう。
そのボールは大きく曲がり、そしてバッターのインコースへと入っていった。
パシッとボールがミットに入る音がする。
佐倉さんが大きくうなずく。
そして二階堂さんが帽子のつばををより高くむけ被り直し、大きくうなずく。
多分、俺達はたった今、一人の選手が何か壁を乗り越えてその景色を初めて見るような表情の瞬間を
この目に捉えることができた気がする。
「律、ずうっと球速を優先するか、コントロールを優先するか悩んでたんだ。どっちかを優先したら、どっちかが潰れるってわかってたんだろうな。」
そう頭で予想する。
『俺はお前たちと違って要領悪いからさ。』そう優しくも少し悔しさを帯びた笑顔を向けながらいつの日か
言っていた言葉を、小利木は思い出していた。
二階堂律。
あとから一条と入れ替わるように入部してきたお前のことをずっと好きになれなかった。
試合では経験豊富な一条と違ってすぐ打たれるし、すぐそれで流れが持ってかれるし、要領悪いし。
その代わりに野球以外は完璧だし。
それでも律は佐渡島さんと競るように練習終わり最後の最後まで残って投げていたのを俺は知っている。
球速が、コントロールが、そんなことを悩みながらいっつも口にしていたのを知っている。
自分が初心者だと自覚して、手の皮がむけるほど投げていたのも、実は知っている。
まだ一条の、佐渡島さんの代わりになるピッチャーとは認めない。
まだ心の底から悪いイメージを払拭することはできない。
それでも多分、あいつは頑張ってる。
努力と呼べる領域まで投げている。
そしてたった今、お前は打たれた瞬間にまさかの賭けに出て、コントロールと球速を兼ね備えたかつて無いお前にとって最高のボールを投げた。
お前は一条にも佐渡島さんにも劣らない、努力家だ。そしてそれをここで、証明できるピッチャーだ。
それだけは認めてやるよ。
その後、二階堂さんは1失点で8回、佐倉さんに交代を告げられる。
交代の相手は俺ではなかった。
2回だけ投げるのなら良いだろうと言う事になった。
3対0。そろそろ板切の攻略をも本格的にやらねばあとがない。
残された機会はあと8回、9回の2回。
絶対そこで3点分、巻き返す。
そしてピッチャー交代のアナウンスで響き渡った名前は、佐渡島さんだった。




