颯の「明日」
少し重量がある防具とミットをカバンに入れて背負って、兵庫県の地の上を歩いていた。
また気づけば後ろで澪馬がのんびり一人離れてゆっくりと歩いているのが見えて、「澪馬ー早くしろー」と声をかけた。
まったく成斗といい澪馬といいのんびりやが多くて大変だ。
光哉だけがさっそうと前を歩いてくれていて、助かる。
先ほど少し緊張しながらも開会式を終えた。監督の姿を探すも人の数が多く、やはりなかなか見つけることができなかった。
関西は、長野のようなむしっとした暑さだった。俺は汗を拭いながら先輩の前をついて行った。
俺の名前は「颯爽と自分の道を歩む」という意味で「颯」と名付けられたと最近親から聞いた。
その名の通り、俺は自分のキャッチャーとしての道を歩んでいる。しかし、高校に入ってからたまに過去の自分にこう問いかけることがある。
「いつから、人を真正面から見られなくなったのだろう」
多分、物理的な問題ではないはずだった。でもいつからか、心の角度から影響されたのか人の真正面に立つのが怖くなった。実をいうと、澪馬が俺の前でマウンドに立つ瞬間、体が少しビクッと震えてしまう。
まだ、怖い。ここにいてはだめな気がする。
それと反比例するように、口からは明るい言葉を紡ぎ出す。
中学の時も、こんなキャラだったと自覚している。日常で面白い話を探しては面白く話して、たまに盛大にボケる。そして友達がなにか話していると、ちょうどいいタイミングで絶妙にツッコんでやる。
笑いはバッチリ。
中学2年になる頃までは、バッチリだった。
そこからどんどんうけを取るどころか、少しめんどくさがられているのが感じ取れた。
俺は「明るいやつ」から「明るいけどうざいやつ」になった。長所とは、意外と簡単に短所になってしまうのかも知れない。
その代わりに、そのもどかしさをぶつけるように俺はキャッチャーの勉強に打ち込んだ。
ピッチャーが投げる球の属性や習性はもちろん、対戦する相手の研究や、他のキャッチャーの癖など、ありとあらゆる物を詰め込んだ。
けれど新田監督のクラブチームだから、人気だった。層も厚くて、どれだけやっても1番のキャッチャーにはなれないし、1番のピッチャーには出会えそうもない。
それでも新田監督はずっと俺をレギュラーに置いて、そして様々なピッチャーとバッテリーを組み直された。なぜなのか、未だにわからない。
野球に打ち込んでから、ますます学校での立場が無くなった。
最終的にはだれにも相手にされなくなり、当たり前のように無視をされ、存在を無いも同然に扱われた。
それでも俺は友達だと思っていたやつには片っ端に話しかけ続けたし、ツッコんでやったりもした。
でも、だめだった。
もう、周りには誰もいなかった。
そんななか俺はいつもの放課後の野球をしていた最中に、ぶっ倒れた。
気がついたらそばに新田監督がいて、ベンチの上に寝かされていた。
「軽い貧血じゃな。休め。」とベンチに座っていた監督はこちらを見ずに言った。
俺は野球しかなかった。だから、監督に初めて抵抗した。
「俺にボールを捕らせてください。お願いします、強くならなきゃいけないんです。だから」
そう訴えて必死にベンチから立ち上がってラウンド上に戻ろうとすると、監督に肩を抑えられた。
「休め。」
そう一言言われたときの顔は、温厚な表情の新田監督と比べて、少しいつもより険しくて怖かった。
俺はベンチに座るしかなかった。座って下を向いていると、自然と涙がこみ上げてしまったのがわかったから、こらえようと上を向こうとしたけれど、青すぎる空は自分の目には目をそらしたくなる眩しさで、自分の頭はそれを見るのをすぐに拒否した。
「俺には、野球しか無いんすよ。なんで、なんで…」
瞳だけでなく、声も震える。
「なんで誰も俺を認めてくれないんですか」
そうだ。そうなんだ。俺は、俺自身の存在意義が欲しくて、あると誰かに言ってほしくて、
ずっと拒まれても友達に話しかけ続けたし、野球もやれるだけやったんだ。
誰かに認めてほしかったんだ。
数年ぶりに手のひらに落ちる涙を見ながら俺は情けなくて、悲しくて、悔しくて、辛くて。
拭いても拭いても止まらない涙と承認欲求といえるその思考に気づいて、心底俺は俺自身に呆れた。
それでも新田監督は俺の隣でただ座って、何も言わないでいてくれた。
それから、新田監督は俺をますますレギュラーに使うようになった。
俺の技術も少しずつ上がっていった。
そして中学2年の終わりかけのある日、俺の様子を見た担任が俺の親に俺の様子を説明したらしく、母が急遽、転校と引っ越しを決めた。別に寂しいもなんとも思わなかった。むしろホッとした。しかし、ひとつだけ心残りがあった。
クラブチームだった。別にそこにも怖くて友だちを作る余裕もなかったから寂しいということがなかったが、ただ新田監督の元から離れるのはなにか不安があった。
そして最後の練習が終わったあと、俺は一人で監督にお礼を言いにいった。
「小学生3年から5年間、本当にありがとうございました。監督の教え、決して忘れません。」
ペコっと会釈をした。その頃はもう、他人と目を合わせて正面から立つことができなかった。監督の目も、真っ直ぐ見ることができなかった。
「向こうでも、野球をつづけるのかね」監督が落ち着いた声で聞いた。
「機会があれば、一応そのつもりです」と俺は答えた。でも、本当は続ける確信は一つもなかった。
そうか、と監督は頷いて最後にこういった。
「三山、」
「他に変える必要など無い。お前自身で、野球をしなさい」
難しかった。意味がわからなかった。でも、監督の教えてくれた最後の言葉だから、特別大切なことだけはわかったから、今もしっかり記憶している。
そうして俺は野球以外の全部をなくすために、忘れるために長野の城聖に、ここに来た。
初めて瀬尾や光哉、成斗に会った時は正直怖かった。
どんなふうに喋りかければ良いのか、また拒まれるのではないかと頭をよぎった。
やはりそう簡単に忘れることなんかできない。
それでも俺は癖で、隣に誰かを笑わせようと言葉を紡ぎ出す。すると、初めて会った時、澪馬は笑ってくれるどころか「うるさいな」と言われ、気味悪そうな顔をされた。
でも、自然と嫌じゃなかった。数ヶ月ずっとなかったものにされていた自分の存在に、言葉に、反応を返してくれた。それだけで喜べるほど、俺はボロボロだったんだとようやく気づいた。
しかも、澪馬の拒絶の仕方は毒がない。傷付けようという意思を感じない。ただ自分に害が及ばないように、かといって及ばさないようにいい塩梅で距離を取ってくる。
近すぎず、かといって離れもせず。
初めて人と喋って、居心地が良かった。
おまけに光哉と成斗も俺の性格を理解して今のところお笑いには付き合ってくれている。
なんせ、俺のキャッチャーとしての実力を、1チームメンバーとして認めてくれているのが伝わってきた。
明日の神栖工業との試合に、きっと新田監督がいる。
俺を、見てくれるだろうか。
聞きたいことがたくさんあるから、まとめて聞けるだろうか。
その前にあの強豪、神栖工業に太刀打ちできるのだろうか。
いろいろな不安が次々と湧き上がってくる。昨日の会議のときも、そうやっていろいろ考えてうつむいているところを澪馬に見られてしまった。
でも珍しくはっきりと、俺を肯定してくれた。その事がやけに嬉しかった。
多分、今考えていることは明日にならないと解決しないことばかりだ。
少し前まで、来なければいいとさえ思っていた「明日」が、
今は希望になっている「明日」に変わった。
そんなちょっぴりとした発見に、俺はまた嬉しくてつい、笑ってしまう。
「颯ー、何ニヤニヤしてんのー。気持ち悪いんですけどー」と、成斗と光哉がわざと一定の音程で突っ込む。そしていつの間にか近くに来ていた澪馬もめんどくさそうに目をそらしながら「ですけどー」と言葉を二人に重ねる。
俺は「あらら俺そんなに気持ち悪いっすかねぇ?」とわざとおどけた声を出す。
「気持ち悪いっす」と3人の言葉がきれいに重なり、澪馬は相変わらず無表情だったが、多分心のなかでは笑ってくれたんじゃないかな、と勝手に想像した。
だから、4人で顔を見合わせて笑ってしまう。
そんな「今日」も、かけがえのない時間だという素晴らしいことに、俺は少しずつ過去の俺から離れていくことで、少しずつ気づいていく。




