一瞬の夢
「瀬尾、佐渡島と交代だ」
突然佐倉さんに告げられた。
俺は「はい」 と言いながら、渋々ベンチに戻った。
実は試合前日に佐倉さんとこんな会話があった。
「瀬尾、8回から明日佐渡島と交代できるか?」
「え、なんでですか。俺完投できますよ」
俺は正面から反論した。
「いや、お前の問題じゃない。佐渡島の問題だ」
「佐渡島も、甲子園という舞台でまだ一度も投げたことないままもし全国で投げるとなったら、
新たな心配もでてくる。まだ全国の他校からの偵察も少ない予選だ。
だからなるべくここで慣らしておきたいと考えた。」
8回、9回の2回のみの登板ということだ。
そして佐倉さんは小声で続けた。
「佐渡島のひじも、少し慣らしておきたいから」
そうして俺は渋々2回の登板を譲ったというわけだった。
8回では下位打線から上位打線へと繋がる場面だった。
佐渡島さんがベンチから立って大きく伸びをしながら、丁寧にグローブを手にはめる。
その手に何か言い聞かせているようだった。
自分を落ち着かせるためか、呪文なのか。
宮峰がネクストサークルから「今かよ」と不思議そうに佐渡島さんを見た。
たしかに中途半端な交代だと言える。
そして佐渡島さんは交代する俺と颯とすれ違いながらゆっくり歩いてマウンドに立った。
背番号1番。エースピッチャー。
今回が甲子園初登板。
宮峰が「佐渡ヶ島さんだ」とニヤニヤしていた。でも馬鹿にしたような笑いではなく、背番号を見たのかどこか期待したような表情をしているように見えた。
佐渡島さんが試しで佐倉さんにストレートを軽く投げた。速さは約時速120キロ。普通のピッチャーにすれば普通の速さだ。しかし、普段の佐渡島さんを見ている俺らや、もちろん本人からすればもうとてつもなく遅く感じてしまうことが恐ろしく感じた。
バッターが立つ。バッターは見た感じ少し腕がこわばっていて緊張しているように見えた。
佐渡島さんは納得したように佐倉さんに向かって頷くと、ボールを胸の前に添えた。
そしていつものように目を閉じ、何か言い聞かせるように静かに息を吐く。
見た感じ、いつもの様子と変わらない。
緊張‥してなさそうに見える。
佐渡島さんが目を開け、手を大きく天に向かって振り上げ、それを思いっきり体を傾けながらひじの後ろへと引っ張る。
そしてついに、甲子園一発目の佐渡島さんから、渾身のストレートが放たれた。
音はなく、光の閃光のように一本の直線を引きながら、それとほぼ同時に佐倉さんのミットに収まる音が球場一杯に響いた。
バッターがしばらくこちらを見ながらバットを構え、固まっていた。佐倉さんのミットの中に収まったボールを理解して見るのに少し時間を要していた。
その顔は驚きを通り越して怯えに変わっていった。
俺と同じ、いや俺よりも反応できていない。
時速150kmをゆうに超えるその速さは全国でも上位に入ると思われる。
しかし、この人のそれはあくまでストレートのみ。
それが知られるのももう時間の問題だが、今は少しこのストレートでどれだけのバッターを地に落とすことができるかが1番の問題だ。
2球目、そして3球目もこの光速ストレートをまっすぐに佐倉さんのミットに投げ込んだ。
すべてストライクのまま、バッターは手も出せずにたちまちアウトとなった。
速い。アウトを捕るスピードも、佐渡島さんの球も、すべてが速い。
佐渡島さんがマウンドに立ってから、まるでそれまでストッパーがかかっていた球場の流れが一気に開放されたような雰囲気となった。
そして宮峰がバッターボックスに立った。
佐渡島さんからの絶対アウトにしてやるという熱量が伝わってきた。
まず1球投げ込んだ。すると宮峰もバットを振ることはできなかった。よし、このままいける。
2球目、今度は俺にやってきた手法を佐渡島さんのストレートにも使ってきた。
ボールがまだ佐渡島さんの手元から離れた直後からバットを振る。
ボールの速さに対抗するにはそれ相応のバットを振る速さが必要になることを、宮峰はわかっていた。
タイミングは良かった。しかし、それも虚しく空振りとなった。その時俺は初めて、宮峰の顔から余裕を意味していた笑みが跡形もなく消えていた事に気がついた。宮峰の手法に対抗できた佐渡島さんのもう一つの武器。
それは、ありえないほど厳しいコースを狙えること。
佐渡島さんは、先程の宮峰の手法を俺の投球のときにベンチから見抜いていたんだ。
そして、速さで対抗するよりも、コースで対抗することを選んだ。
1球目はど真ん中。そして今回の2球目は宮峰の胸元をぎりぎりかすめそうなほどのインコース。
そして3球目。
揺さぶるために、こんどはストライクゾーンいっぱいのアウトコースに投げると俺は予想した。
そしてその直後、宮峰もそう予想した。
しかし、次に宮峰も同じように予測すると考え、俺は逆にインコースに投げると予測した。
そして肝心の佐渡島さんが投げた3球目のコースは、まさかのど真ん中だった。
宮峰のバットが空を切った。
宮峰の顔は引きつっているように見えた。
佐倉さんと佐渡島さんの作戦勝ちだった。
その次のバッターもアウトにし、交代となった。
佐渡島さんと佐倉さんがベンチに戻ってきながらグローブ同士でハイタッチをした。
俺はこの時一瞬、脳裏にこんな戯言を浮かべてしまった。
この人のストレートは、時速160kmを狙えると。
すべての球児の夢。
まだ過去数年前に2人ほどしか出したことがない球速を、この人ならいつか。
出してしまうんじゃないかという期待は、少しだけ悔しく感じてしまったため、胸の奥にしまっておいた。
次は9回に入る。ここで逆転しないと、
俺たちの甲子園はここで終わる。
俺たちはバットを持った。
ただ唯一の希望、それは次の打順の開始が
4番の小利木さんだということだけだった。




