第 零ノ壹話 悪魔の囁き
「先生! それはなんですか?」
彼は私が腰に差しているものを指差して質問した。
彼の名は分からない。
「これはね。“刀”と言って武士が持つ武器の一つだよ。まぁ、銃の方が使い勝手が良いけどね」
「じゅう?」
そうか……それも知らないのか……
彼は記憶が無かった。
何故、記憶が無いのか分からない。
私は清田家の道場の先生を務めている。
ある日、清田家の当主である清田 蛇流がある子供を連れてきた。
それが今、私の目の前にいる彼である。
蛇流殿によると、道端で倒れていたので連れてきたという。
すぐに水やご飯を与えようと家に上がらせたが、何を出しても口に入れようとはしなかったそうだ。
そして、口も一切利かず、段々痩せていく体を見て入れられなくなった清田家は私に相談してきた。
道場で何人もの子供に接してきた私ならば彼にご飯を食べさせたり、話させたりできるかもしれないということで無理やり、清田家から少し離れた私の家に持ち込んだのだった。
しかし、何人もの子供と接してきたからと言って対処などできなかった。
話しかけても応答せず、食べ物を出しても食べない。
どんどん痩せていく彼。
そんな彼を観察していると 彼は不思議なことをし始めた。
土の上にいた蟻を眼に入れようとしたのだった。
急いで蟻を掴んだ腕を止め、蟻を捨てさせる。
『何をしようとしているのですか! あなたは!』
つい、大きな声を出してしまった。
そこで今までの行動と蟻を眼に入れようとした動作で記憶が無いのではないかと分かった。
おなかが減ったけど何をすればいいのか分からない。
目の前に出された物が何なのか分からない。
何を言っているのか分からない。
彼にとって当たり前のことは意味の分からないことでしかなかった。
一年経った今ではご飯も食べられるし、文字を書くことはまだできないが話せることはできるようにまでなった。
しかし、彼は記憶をいまだ取り戻していない。
いや、このまま取り戻さない方がいいのかもしれない。
失った記憶は自分から失いたいと思った記憶なのかもしれないのだから。
◇
俺は小さい頃、普通に暮らしていた。
なのに、母親は俺を殺そうとした。
俺と母親は“えた”“ひにん”などと呼ばれる民で毎日、差別に合い、貧乏で苦しい毎日であった。
しかし、それでもちゃんと暮らしていけていた。
だが、母親は俺を養うほどの収入が無くなり、俺を殺そうとしてきたのであった。
鋭い刃物は俺の頬を掠った。
その後、俺は逆上して母親を殺したのだろう。
母は死に、俺が生き残った。
“だろう”と言う曖昧な言葉なのは自分でも良く覚えてはいないからだ。
俺は母を殺した自分を責めた。
自分が死ねばよかったのだと思った。
“過去を変えたい”
そう頭の中で願いながら歩いていると、悪魔の囁きが聞こえたのだった。
“過去を消し去りたくは無いか?”
いや、その時は天使の声に思えた。
そして、そいつの言うとおり、ある丸い粒を口の中に入れて飲み込んだのだった。
瞬間、体の中に何かが入ってきたかのように胸が痛くなった。
胸の中で何かが暴れているかのような感覚。
地面に倒れた俺はそのまま気絶し、記憶を失った。