少年メイド侯爵の執着
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✼••┈┈┈┈┈⟬挿絵⟭┈┈┈┈┈••✼
「目覚めて下さい、ハナリ」
弓形のドレープを引いて、私のメイドが白い陽光を呼び込めば、私室が聖堂になってしまったかのよう。十六歳の私より二つ上の彼女とは、身分差を超えた姉妹同然の仲だった。エヴは明るい灰みの青紫の長髪を三つ編みにして、右肩に流してる。長い睫毛を瞬けば銀箔を弾くようだし、切れ長の目は透き通る水底から一条の天青を臨む猫目石みたい。捉えられれば、天色の瞳に吸いこまれそうになる。静謐な声音には重厚な気品があって、私達が御祈りする聖母様みたいに綺麗な白磁の顔立ちなの。
「ぼんやりとして……起きたくないのは知っていますが、本邸へ帰って来られるエルヴィン侯爵様の出迎えは拒否出来ません。十年前に命を救われた貴方は、同い年である彼の婚約者となったのですから」
私の心臓はズキズキする。十年前まで……このサマ王国は明星が巡るように、二つの王家による王位交代制にて治められていた。私はその一つ、アジゾス王家の血に連なる公爵令嬢だった。だが十年前、『夕星の動乱』が起きた。アルス王家により、アジゾス王家が王位を継ぐ誓約は破られたのだ。王位継承権を巡る争いに巻き込まれて没落し、奴隷にまで堕ちかけた私がすべすべのシーツに包まれるのは、森から逃げ延びた所を侯爵様に救って頂いたから。それでも……。
「大好きなエヴだから、教えてあげる。侯爵様の瞳は、青硝子針の狼みたいで怖いの」
侯爵様だけじゃない。私は、男の人が怖い。奴隷商から逃げ出したあの日からだ。逃げ遅れた幼いあの子を、野蛮な彼らは森の中で凌辱した。弱い私は小川に飛び込んで、はみ出した木の根に絡んだ朽ち葉に隠れていたから助かったけれど。小さな胎を破られ臓器すら貫かれたあの子が、生きているはずも無く。引き裂かれた小さな軀を埋めた時に、髪から滴らせた私の性愛も死んだ……。
「彼と同じ血を引く、妾子である私と変わらない色彩に思えますが」
「全然違うわ。エヴは、晴れた蒼穹を仰ぐ猫みたいに優美なの。同じなんかじゃない」
エヴは、空虚に微笑む。メイドの立場に堕ちるまで彼女が冷遇されていても、姉弟である侯爵様を悪く言うのは良くなかったかも。
「ハナリこそ、くりくりとした瞳が濡葉のように生き生きと煌めいています。長く揺蕩う金髪は蜂蜜のようですし、艷めく薄い黄桃色も綺麗です。白い貝殻の内側を陽光が撫でるような淡い幻色に魅入られたあの時は……聖域から現れた可憐な妖精かと思いました」
貴族ですら無くなった私が侯爵家の皆に愛玩される奇跡が起こらず、エヴが冷遇されていなければ、私達の立場は逆だった。それなのに私を恨む所か、愛してくれているエヴに縋ってしまっていた。今だって……甘えに伸ばした私の両手に、戸惑う彼女が優しく応えてくれるのを待っている。
「エヴ……起こして欲しいの」
「はぁ……仕方ないですね」
降りる陽光がほのかに強まる。呆れたようにため息をついてみせても、唇の端が柔く綻ぶのを私は目ざとく捉えた。やっぱり、聖母様みたい。エヴの腕に抱かれた私は、猫っ毛の髪筋と柔らかなタブリエに体を預けた。応えてくれなかったら、涙ぐんでしまうところだった。慣れ親しんだ木蓮の香りに甘やかされて、私は息をつく。
「ハナリは、陽光を浴びた雛の香りがします。次は、乳香でも良いですね」
項から髪を指先で梳かれて、ドキリとする。心が読まれたかと思った。
「エヴが、いつも綺麗にしてくれるおかげだよ」
「……そうでしたね。ハナリは私のおかげで可愛いのです」
額を撫でてキスされた。私はまだ愛されているんだと、心の底から安堵できる。エヴの髪色と同じ明るい灰みの青紫がほのかに影を成して、白絹に包まれる世界は私の聖域だ。永遠にこのままで居れたらよかった。
「まだ怯えているの? 本当に君は変わらない」
大輪のピオニーのように白桃色のレースが重なる、灰みの黄緑色のドレスを纏った出迎えなんて、茶番だ。私の勇気を支えてくれるはずの、エヴは隣に居ない。妾子の顔は、彼を不快にさせてしまうらしい。なら、俯いてばかりの私も不快じゃないの?
「いい加減、顔を上げたらどう? 」
侯爵様の声が冷たく張り詰め、ビクリとする。彼は何が楽しくて、まともに言葉も交わせぬ娘を選んだのか。貴い地位など失ったに等しい娘を……。私には分からない。勇気を振り絞って顔を上げると、息が凍りそうになる。繊細な白磁の顔立ちだ。明るい灰みの青紫の髪は耳下までしか無くても、きっと柔らかい。天色の瞳を満足気に細めて、優しく微笑まないで欲しい。貴方が硝子みたいに冷たい侯爵様で居てくれないと、私が壊れてしまうの。
「僕が戻って来たのは、全てを終わらせる為だ。今夜、君の部屋に行くから。本当は、もう気付いているんじゃないの? 」
嘲る囁きはどんな狩猟笛より、恐ろしい。日が沈むのを静かに感じながら、私はシーツに包まり震えて待った。ついに扉を叩いた音に悲鳴を上げかけたが、薄闇に立つのは明るい灰みの青紫の髪を三つ編みにした彼のメイドだった。私は安堵して走り寄ったのに、エヴは冷たく嘲笑する。静謐で重厚な声音が牙を向いた。
「冷遇される妾子のエヴなんて、初めから存在しない」
真綿の白昼夢で窒息し、硝子の爪で心臓を切り刻まれるようだった。傷を縫える針は、既に支配されていた。彼は真白のタブリエを翻す。エルヴィンが窓を開けば、私はようやく異常に気が付いた。宵の帳が、蘇った朱に阻まれている。満天の星の下で、王宮が燃えていた。
「今宵、『暁星の革命』は成された。アジゾス王家の生き残りが、アルス王家を完全に抹消したと報告があった。ハナリは、元貴族なんかじゃない。アジゾス王家の貴い血を残せる、唯一の公爵令嬢だ。夜明けの治世で、僕と君が結ばれる事には価値がある」
彼の横顔は赫赫と照らされ、すっと通った鼻筋が造り物のように整って見えた。
「アジゾス王家と密かに組み、革命を待っていたのね……。愛している振りまでして、私を飼い殺していたなんて。メイドを演じてまで、私を可愛がって……馬鹿みたい」
十年前から蝕んでいた恐怖に可笑しくなってきた私が肩を揺らせば、狼少年は三つ編みと漆黒のスカートを廻して振り返る。軌跡を引いた青い焔の瞳で、エルヴィンは私を貫いた!
「『男』の僕を、君に溶かす為だ! 僕が『女』の皮を被った犬畜生にまで堕ちなければ、目すら合わせてくれなかったのはハナリだろ! 」
己の心臓に手を触れて咆哮する少年に、私の波打つ鼓動が抉られた!信じられないくらいに気魄を研いだのに、それでも私が愛したエヴだった。
「ハナリは僕のものだ! 僕が梳かした髪も、柔く磨いた真珠肌も、濡葉みたいに潤んで蘇った瞳も、花のように照れた微笑みも。全部、君が僕を受け入れた証だ……! 」
エヴの声が絶え絶えに揺れた。私の足元からの天変地異に、胃が掻き混ぜられそう。いつか……諦念に負けた私が『エルヴィン侯爵様』に恋をする前に、尊厳ごと奪われていたんだ。
「大っ嫌い……だよ、エヴなんて」
子供みたいに、大粒の涙が零れてしまう。『メイドのエヴ』が、お姉ちゃんみたいに大好きだったからこそ許せない。過呼吸を起こしかけた身体は拒絶を訴えるのに、頬に爪を立てても、木蓮の香りを私の本能は拒絶してない。背中を撫でられて、息が整っていく理由なんて分かってる。私を救ってくれて、もう一度笑えるようにしてくれたのが誰なのかも。
「嘘つきのハナリは……可愛い。僕以外の男になんか、触れられないくせに」
宵の焔から隠れてお祈りをするように……白絹のシーツが掛けられた。ここは聖域だ。エヴの天青の瞳が、獣のように浮かび上がる。慣れた手つきで強く抱き寄せられ、固く結んだ唇に触れられた。
「駄目だよ、ハナリ。口を開けなきゃ」
拒食の我儘に困ったかのようにエヴが微笑む。残酷な事に、聖母のような美しさは変わらない。
「僕はハナリを傷付けた事なんか無かったのに、ハナリは僕を傷付けるの? 」
私は雷に打たれたように、眼を開く! 唇をこじ開けようとする親指を噛もうとしたのに、鼓動が悲痛をあげて叶わなかった。エヴの睫毛が透かす、哀しみが変わった。天青への祈りが満ちたように、綺麗に陶酔した顏が寄せられてぼやけ、舌を捩じ込まれてしまう。口腔を温い朝露で満たされ、溺れる前に呑み込んだ瞬間。白羽が舞う脳裏に、煉瓦道で振り返る幼いあの子の足元を見た。私を恨んでいるのね。
吐き気と初恋に
呪われても、
私はエヴから
逃げられない。