三話 ぐちゃぐちゃの感情
優弥が目を覚まし、最初に見たものは薄暗く狭い天井だった。それを見た途端、優弥の意識ははっきりと動き出す。寝る前とは違う場所にいることに驚き、飛び起きるというその一瞬に、聞き覚えのある声が聞こえ、優弥の動きは停止した。
「お、目ぇ覚めたか。まぁこんなうるさけりゃ起きるわな。警察署まではまだ結構かかるから寝直したいならそうしな、あと、起こさなかったことには文句言うなよ。嬢ちゃん全然起きる気配なかったんだからな」
体を半分ほど浮かせた状態で固まる優弥は男の声を聞きながらも、自分の状況をうまく飲み込めないでいた。自分がベッドに飛び込んだまでは覚えているものの、こんな場所は優弥の記憶にはないからだ。だが、どこか既視感を覚える場所でもあった。
そして、ようやくはっきりしてきた視界にその既視感の正体を優弥は理解し、それと同時に困惑した。
「え……俺なんで車乗ってるんですか? てか警察って普通こっちに来るもんなんじゃないんですか?」
「わざわざ俺ん家まで来る余裕がね―んだとよ。前までは近くに交番があったんだけど爆破されててよぉ。んで、俺の車で警察署向かってるってこったな。まぁ、こんなクソ治安悪ぃとこだと警官やってる方が危険なのも人手が足りねーってのも分かるけどよ……だったらもっと優秀な奴を増やせって話だよなぁ」
「え……あ、そう……なんですね」
爆破されたとか治安が悪いとかあまりに自分の持つ常識からかけ離れた話に、優弥は苦笑いしながら返事を返すしか無い。
その様子を見た男は深くため息を付いたあとゆっくりと口を開いた。
「なぁ、嬢ちゃん……あ~いや男だったかアンタ。何が目的でこんなとこ来たか分かんねぇけどよ、自分の故郷に帰ったほうがいいと思うわ。ここで魔道士に術掛けられただけで済んでんなら、まだマシだろ。ああ、そういやアンタの故郷ってどこ?」
そう問いかけてきた男の言葉にどう返そうかと優弥は考える。まず別の世界から来たということを正直に打ち明けるのが一番いいとは思うのだが、それを言った所で男が何かをしてくれるとは限らない。悪ければキチガイ判定されてこのまま見捨てられる可能性もある。そもそもなぜ男がこれほどまでに初対面である自分の世話を焼いてくれるのかも分からない。その理由がわかれば少しはこの不安もなくなるのだろうか。
だが優弥がこの場でできることは正直に自分の境遇を打ち明ける。どれだけ考えた所で恐らくそれ以外の答えは出ないだろう。
「……あ、えと、俺……っがっ、……あ、かっ……が……」
自分の境遇を優弥が話そうとしたその時、優弥の首を何かが締め出した。それにより優弥の呼吸が一瞬にして奪われる。
そして、優弥が自分の首を締めているなにかを引き剥がそうとして首に触れてもそこには何もなかった。何かが自分の首を絞めている感触はあるというのに、実際にそれはないということが首を絞められた事による恐怖心をさらに倍増させていた。
その優弥の異常に気がついた男が車を道路の脇に止め優弥のもとに駆け寄る。
「おい! 無事か? おっ、……よし、なんとか収まったみてぇだな」
「ぶ、無事、じゃない……です。首、締められた、んですよ」
意識が遠のき始めた頃にようやく首の圧迫感がなくなった。息も絶え絶えになりながら男にそう言う。なんなら普通に泣きながらだ。
というより何が『よし』だ。何もよくなんて無い。それとも何だ。この世界ではいきなり首を絞められることだけでもマシだというのか。それにこの男もしかしたらこうなることを知っていたのではないか。あまりに落ち着きすぎている。
運転席に戻っていく男を優弥は苛つきながらジトッとした目で見る。
「んな苛つくなよ。ま、呪いの発動条件が分かっただけ良いじゃねぇか。その魔道士は自分の新たな居場所に来るなってアンタに伝えてんだ。……もう分かってると思うけどよ、アンタが帰れる可能性は期待しねぇほうがいい」
「は……?! なんで……ですか?」
「アンタ多分魔道士に知識とか奪われてるだろ。いや、元々知らねぇのか……あ~簡単に言うとな、自分の居場所を吐かないようアンタに呪いをかけるくらいだ。アンタの居たとこがよほど気に入ったか目を付けられてたかだ。ご丁寧に女にもしてるしな。どっちにしろアンタが帰ったとしてもそこにはアンタの居場所はねぇよ」
まるでそれが当然のことと言わんばかりに男は優弥にそう言った。いや、この場ではそう考える優弥のほうが異端なのだろう。だが、だからといって到底納得できるものではない。あのような訳のわからないものに巻き込まれてたった数時間で自分の望みは絶たれてしまったというのか。
優弥は喉の奥がきゅっと締まるような感覚に襲われる。上手く息ができなくなってきた。
「まぁそんな顔すんなよ。アンタのその顔なら水商売だったら稼ぎ放題だろうしな。なんなら紹介してやろうか? つかまだ俺の名前言ってなかったな。エナミヤだ。アンタは?」
「……天沢優弥です。あの、本当に俺は帰れないんですか?」
「気持ちは分からんでもねぇが諦めろって。まぁ魔道士が飽きて他の場所に移るのを待つしかねえんじゃねえか」
「そう、ですか……ありがとうございます」
恐怖、落胆、絶望。今まで味わってこなかったとてつもないものが体の中からジクジクと蝕んでくる。
気がついたら優弥の両目からはボロボロと涙が出てきた。必死に止めようとするが止まる気配はない。そうして聞こえてくる自分のすすり泣く声で更に心を追い詰められる。
――俺の声はこんな可愛らしい声ではない。俺の手はこんな細いはずがない。なんで俺の胸は膨らんでいるんだ。この世界は何なんだ。帰りたい。帰りたい。帰りたい。帰してください。神様でも悪魔でも何でも良いから、こんな事ができるんだったら戻ることだって出来るはずだろう。
どれだけ優弥が願っても、なにも起きはせず、ただ自分の泣き声が車内に流れるだけだった。
*****
車はもうすでに警察署に着いた。だがそれでも未だに優弥は泣き続けている。恐らく車が止まっていることにも気がついてはいないだろう。
このまま無理やり連れ出しても良いがその様子を見られた場合、間違いなく自分はブタ箱行きだとエナミヤは考える。だが、幸いにしてエナミヤに明日の予定は何も入っていない。このまま魔道士に姿を奪われた哀れな少年が泣き止むのを待つことにした。
車が止まってから三十分ほど経ったころに優弥は落ち着きを取り戻した。といっても涙はまだ止まっていないが。
先程までの勢いがなくなったのが分かったのかエナミヤが後ろを振り返る。
「落ち着いたか? ごめんな、アンタが此処の出身じゃねぇのは分かってたのにな。色々一気に話しすぎた」
「いえ、大丈夫です。泣いてスッキリしましたし……でもまだ完全に諦められたわけじゃないです。やっぱり、元の場所には帰りたいって思っているので」
「そうか。まぁそれでいいと思うぜ。じゃ、アンタは気づいてねぇと思うがもう目的地には着いてるからよ。ほら、行こうぜ」
「……っ!? ご、ごめんなさい」
言われてそれに気がついた優弥は慌てて車から降りる。目の前には刑事ドラマなどでおなじみのバカでかい建物があった。その大きさから察するにこの地域は都会なのかもしれない。あまり覚えてはいないが車から見えた景色も、建物がひしめき合っていたように思う。
そして自分が乗っていた車が白色の軽自動車であることを確認することになる。自分のいた世界と何ら変わらない形態をした車を見ていると、
「良いだろこれ。ほぼ新品なのにタダで手に入ったんだぜ。前に買った奴の奥さんが子供を放置して、そのまま子供は死んだらしくてさ。しかも奥さん浮気してたみてぇで、思い出すの辛いからってそいつが故郷に帰る時に譲ってもらったんだわ」
衝撃の事実を聞いて優弥の背筋が凍る。
ただでさえ追い詰められているのに更に追い打ちが飛んできた。叫びだしたくなるのを必死に抑える。元来怖いものは苦手なのだ。
「は、早く行きましょうよ」
「……おー」
明らかに怯えている優弥を見て、エナミヤはニヤつきながら返事をし歩き出した。その後を優弥が追いかける。
そして警察署の扉まで来るといきなりその扉が開け放たれた。
「えっ!? 嘘!? わああああ!!」
「うおおっ!?」
飛び出してきた誰かに優弥はぶつかり、二人分の悲鳴が上がる。最初の悲鳴からワンテンポ遅れた悲鳴は優弥のものだ。
抱きしめて受け止めるが、そのぶつかられた勢いのまま優弥ともう一人は後ろに倒れ込む。だが、地面に叩きつけられる前にエナミヤの影から黒いクッションのようなものが飛び出し、それは優弥の下に潜り込みその体を受け止めた。
「ん〜〜! ん〜〜!」
優弥が下を向くと、自分の胸に挟まれている茶髪の少女がうめき声をあげていた。
少女は優弥に抱きしめられているためそこから抜け出すことが出来ずにいるのだ。バタバタと手足を動かしている。
「っごめん。大丈夫? 苦しかったよな」
「……うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛良がっだぁ〜〜〜〜!! やっぱり人だああ!! 良かったあああ!!」
少女は優弥を見て数秒固まったあと泣きながら優弥に勢いよく抱きついてきた。