一話 あまりにも唐突な幕開け
――これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ、覚めろ、覚めろ、覚めろ、覚めろ……
彼の頭の中にはそれ以外の言葉は浮かばなかった。いや、それ以外を考えることができなかったという方が正しいだろう。
教室での体験、目を開けば知らない部屋にいるという恐怖、止まらない頭痛。それら全てが彼を追い詰める。
しばらくの間、頭痛が止まっても、ピクリとも動けなかった彼は、『覚めない夢』を見ていると自分に言い聞かせ始めた。それならばこんなわけの分からぬ状況にも説明がつくと考えたのだ。夢ならばよくあることだと。
だがその希望は、彼が部屋に立てかけてあった鏡を見つけ、そこに映る『自分』の姿を見た事により打ち砕かれてしまった。
彼の視界にある鏡に写っていたのは、自分と同じ制服を着て、なおかつ自分と瓜二つの顔をした少女だったのだから。
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天沢 優弥はある高校に通う十六歳の高校生である。アニメやゲームが好きで、その趣味を共有できる友人もいる。学校の成績に飛び抜けて悪いものはないが良いものもない。そんな、どこにでもある生活を続けてきた。
しかし、その生活は高校生活三ヶ月も間近に近づいたある日に終わりを告げることになる。
優弥は、いつものように登校を終え、三階にある一年生の教室に向かう。教室に入り、机に座る。この学校に入学してから繰り返してきた行動だ。そして、残念ながら優弥とそこまで親しい者は彼らの中には居ない。
だから、ただ机に座って何をするでもなく呆けていた。すると突然視界が一瞬歪み、見ている風景がおかしくなった。場所は教室に変わりないが自分のいる場所が違ったのだ。
困惑する優弥の目には退屈そうに椅子に座っている自分、笑い合っている数人の男女に、優弥と同じように一人でいる者たち、彼ら数名がいる朝の教室が映っていた。
そして、時計の秒針が十二時を指した瞬間、教室から人は消えていた。なんの前触れもなく突然人が消えたのだ。時計の音と『外から聞こえる声』だけがここに存在している。
――あ、ヤバいやつだこれ。これこのまま教室におったらだめなやつだわ。ヤバイヤバイヤバイ……
人の消えた教室で一人焦っていると視界が一瞬にして移り変わり、教室には元の賑やかな音が戻ってくる。青い顔をした優弥に気がついた一人が心配そうにこちらを見て、声をかけてきた。
「おい、大丈夫お前、保健室行っとく?」
「ごめん。ホントにごめん」
純粋に優弥を心配してくれたであろう彼女に、早口でそう言うと、優弥は教室のドアへと向かって走り出した。優弥を心配した彼の驚いたような声が聞こえると優弥の走りが少し鈍った。彼を見捨てた罪悪感が襲ってくる。
だが、今更優弥が立ち止まるということはないだろう。
そして、優弥が教室のドアから半分ほど身を乗り出したところで、秒針は十二時を指し示した。
*****
「ホント……勘弁してほしいんだけど」
鏡に映る姿と、それを見た瞬間吐き出し続けた嘔吐物を交互に見ながら優弥はそうつぶやいた。気がおかしくなりそうな状況にも関わらず、発狂していない自分を褒め称えたい気分になってくる。
だが、何度見直しても自分の姿は少女となっているのだ。もはや喉は吐きすぎて痛みが引かない。その痛みがこれは現実だと訴えているようで、さらに優弥の気分は重くなる。
「今からでも、夢が覚めるには遅くないと思うんだけどなぁ……」
ないとは分かっていても、これが現実だと、素直に認めることなんてできるわけがない。未来予知的なのができたのなら、時間を巻き戻すこととかもできないものか、とも考えたが、そんなご都合展開がホイホイ起こるはずもなく、何も現状は変わらなかった。
「こうゆうのってさ、普通イケメンになったり、クソ強だったりするやつだよなぁ。まさかまさかの黒髪ロングの女の子になるとかあり得んでしょ。いや二次元で楽しむのが一番なんだけどさ……てかゲロ片付けないと」
本当ならもっと愚痴を言っていたいのだが、いつまでもこの部屋をこのままの状態にしておくわけにはいかないだろう。匂いが結構部屋に溜まっていた。換気したほうが良いな、と思い部屋にある窓を開ける。部屋の内装はこざっぱりとしており、見たところベッドと本棚しか部屋においていない。部屋の大きさは自分の住んでいる団地の部屋とそう変わらないだろう。
「……最近の異世界って、電気も水道も完備なんですねー」
嘔吐物の処理をしながら感情のこもらぬ声で、優弥は現状を語る。今まで吐き続けたり、気が動転しすぎていたため気が付かなかったが、驚くことに部屋は電気によって明るくなっており、近くにはきれいに整頓された台所があった。
そこから取ってきたタオルで嘔吐物を片付け終わり、ゴミ箱にそのゲロタオルを突っ込む。休息をとろうと、部屋の床に座り込んだ。なんだかどっと疲れた。ため息が漏れ出る。
「っはぁ〜……マジ疲れたんだけど。確実に人ん家であろう場所でゲロ処理とか、色んな意味でキツいっつーの……。しかも俺、完璧あいつらのこと見捨ててるし。……最低じゃん」
教室の出来事を思い出すと、優弥の中の罪悪感が呼び覚まされた。もしあの時声をかけていたら、一番ドアの近くに居た人ならば助けられたかもしれない。どうしてもそれが頭の中から離れない、その自己嫌悪に陥っていると、不意に音が聞こえた。それは鍵の開く音だった。
この家の鍵が開いたのだ。優弥がその考えにたどり着くと、体中から汗が吹き出し、心臓が高鳴る。だが、床の軋む音はこの部屋に少しづつ近づいてくる。ここに近づいてくる足音が人間である保証も、自分に対して危害を加えない保証もなく、恐怖が優弥を包み込む。優弥はその場から逃げようとするも、どこに逃げれば良いのかわからない上に、恐怖により足が動かない。
そして、ついに部屋のドアが開かれる。
と同時に、優弥とドアを開いたスーツを着たオールバックの白髪の男と目が完全に合った。
「……は?」
困惑したその男の声が部屋に響いた。