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光の先へ一歩進むと、そこに舞台の床はなかった。
わたくしは盛大な音を立てながら転がり落ちる。どうにか受け身をとったけれど、腰を強く打ち付けた。
痛みが全身に広がり起き上がれない。
こう言う時でも兵士は手を貸そうともしないのね。
よろよろと体を起こし顔を上げると、太陽に照らされた木々があった。小鳥がチチチとさえずっている。
わたくしの目に映る先の先まで木々が広がる。まるで森のようだわ。
混乱する頭を左右に振り、呼吸を整える。
わたくしは広場にいたはずだわ。
周りには兵士はおろか、人ひとり見当たらない。振り返ると、幌馬車が一台あった。
高さから考えて、転がり落ちたのはこの馬車の荷台かしら。
一頭で引く小型の荷馬車は、幌が所々補修されている。荷台の側面には傷が多数あり、板を打ち付けている所まである。
下人が使うような馬車だわ。
まさか舞台の上で意識がなくなったのかしら。そしてこの幌馬車に乗せられた……。
いいえ、そんな馬鹿な話はないわね。意識がないなら、兵士が引きずれば済む話だわ。
それなら、どういうことかしら。
「あ? 誰だ、あんた」
わたくしの右側から男の声がした。とっさに体を固くし、声のした方を見る。
道のない、いわゆる藪から男が草木をかき分けて出てきた。兵士のような鎧を身につけ、腰に剣を差している。
「さっき光ったのはあんたの魔法か」
男は短い赤髪をかきながらわたくしに近付く。
魔法? 見なりはともかく、まともそうに見えるのに、どこかおかしいのね。
まともでないのなら、わたくしの話が通じるとは思えないわ。わたくしの運は、あの舞踏会の日までに尽きてしまったのね。
男はそのまま近付き、わたくしの前で止まった。しゃがみ込み、わたくしと目線を揃える。
死は覚悟していた。けれど辱められるつもりはない。
男の茶色い目を威嚇するように見据える。今わたくしができる最大限の抵抗は、毅然とした態度を示すだけ。
もしものことが起こるなら、舌を噛み切って、始まる前にこの命を終わらせてやる。
「おいおい、そんな恐い目でにらむなよ。聞いただけだろ」
「言葉の通じない方とはお話できませんわ」
「何言ってんだ。通じてるじゃねえか、言葉」
さも当たり前のように男は言い退けた。呆れ顔の頬をポリポリ掻き、わたくしの反応を伺っている。
嘘をついているようには見えないわね。この男の頭が正常なら、魔法は何かの隠語かしら。貴族社会しか知らないわたくしには、平民の言葉は理解できないわ。
「まあ、いいか」
男はわたくしに興味がなくなったように立ち上がった。目線もわたくしから外し、男がやってきた藪の方向を見ている。
「馬車の陰に隠れろ」
急に命令され、体の奥から警戒心が湧く。
「わたくしに命令しないで」
「早く隠れろ!」
男が怒鳴ると同時に、藪から獣が飛び出した。
一頭の黒い狼が低く唸る。目が赤く、体が子牛ほど大きい。
いいえ、この獣は狼ではないわ。
王宮にあった狼の剥製はもっと小さかった。自分が仕留めたと陛下が自慢げに話していたから、あの剥製の狼が小さな個体だった訳ではないはず。それなら、この黒い獣は何?
「ダークウルフか。面倒だな」
男は、言葉とは裏腹にニヤリと笑った。大地を蹴り、一足飛びに黒い獣との間合いを詰める。
腰に差していた剣が、空気を切るように獣の眼前へ振り下ろされた。刹那に剣が光り、バチリと火花が散る。獣は左へ飛んだ。
男の攻撃は避けられた。
黒い獣の赤い目がわたくしを捉える。
男が言うように馬車に隠れていれば良かったわ。今はもう、歩くことはおろか、立ち上がれる気がしない。
恐怖と言う感覚すらどこかへ行ってしまった。ああ、わたくしは死ぬのね。
獣の赤い目がゆらりと揺れる。そして、そのまま横へ倒れた。
「さすがにこの巨体には効き目が遅いか」
男は黒い獣に近付き、懐から出した短剣で喉元を突き刺す。獣の目より赤い血が飛び散った。
顔に付いた返り血を袖で拭いながら、男は困ったような顔をわたくしに向ける。
「だから馬車に隠れろっつったろ。悪かったな、恐がらせて」
「獣の血も赤いのね」
「ん? ああ、ダークウルフの血は赤いな」
男はどこからか大きな布を取り出して、黒い獣を包み始める。
「それ、どうするの?」
「売るんだよ。ダークウルフの中でもでかい方だから、良い値になる」
「剣が光ったのはなぜ?」
「魔法剣だからな」
「魔法?で剣が光るの?」
「俺は雷魔法しか使えねえし、距離も出せねえんだよ。だから剣に魔法を乗せて攻撃してる」
本当に魔法があるのかしら。確かに剣は光ったし、そのせいで獣は倒れたように見えた。それに黒い獣なんて書物にも載っていなかったわ。
「何も知らねえんだな。あんた名前は?」
「人に聞く前に自分から名乗るものでしょう」
「あんだけ質問に答えたんだから、名前くらい教えろよ」
「わたくしが聞いたことは常識的なことなんでしょう? 名前は個人的なことよ。比べられる物ではないわ」
「はあ? 何だそれ」
男は獣を包んだ布を縛り、肩に担いだ。大きくため息をため息を吐いた後、ニカっと笑う。
「俺はエドガーだ」
「わたくしは……」
パトリツィア・カルリネスカ、と言おうとして止めた。
わたくしを捨てた家名などいらないわね。
「わたくしはパトリツィアよ」
「なんだ、本当に言葉が通じにくいのか。名前は訛ってんだな」
「何を言ってるの」
「話し方は訛らないんだな」
本当に、何を言っているの。
わたくしの困惑をよそに、エドガーは笑いながら荷馬車へ向かって歩いた。