1.プロローグ
真紅の双眸が見つめている。獲物を見つけたかのように、ギョロリと瞳を動かした。
……殺される。オレはこいつに骨の髄までむしゃぶりつかれ、死んでいくのだろう。後悔だけ残して。
……生きたい。オレは死ぬためにここに来たわけではない。こいつを討伐するためにここに来たのだ。だから、動かなければならない。
わかっているのにオレの身体はまったく動かなかった。
動け。オレの身体に念じてみる。しかし、動かない。竦んでしまっている。微動だにしなかった。
そんなオレの様子を見て、こいつ……『災厄の魔女』はニタリと笑みを溢した。その笑みは嘲りや哀れみ、オレにとって屈辱的な意味を持つものであった。
オレはその笑みにより立ち込めてくる怒りによって、若干ではあるが身体が動くようになる。カタカタ、カタカタ、と身体を振るわせてオレは地面に置き捨ててしまっていた剣を握る。鉄の塊だ。これで、魔女を殺す。オレが殺る。殺せ。殺せ。殺せ。こいつを殺せ。殺される前に。
まわりにある屍の山を意識するな。こいつに殺された者たちを弔う時間にはまだ早い。オレがこいつの首を討ち取って、世界に平和を取り戻す。その後、弔ってやれば良い。
感情は捨てていけ。無心であれ。気持ちを落ち着かせ、何も考えることをせず、オレはただ剣を振り、こいつを殺せば良い。それが正義。この世界での、正しいことであるのだから。
オレはジリジリと魔女の方に寄る。剣を構えて。
来いよ。オレは自分の命が大事な人間だが、無闇に逃げ惑うような人間ではない。魔女……お前という化け物を退治できるように、オレは剣を携えている。
オレは弱いかもしれない。戦闘力だけでいえば、捨てゴマのようなもの。けれども、目の前に安寧を脅かすものがいるのであれば戦わねばならない。それが剣士というものだから。
間合いに入り、オレは唾をのんだ。息を吐き、魔女を睨む。
集中。集中だ。この一太刀を失敗してしまえば、オレの命はないと言えよう。必ず当てる。急所にこの剣を突き刺し、動けない身体にしたところを滅多斬りにする。
イメージトレーニングは終えた。想像上では完璧に動ける。想像上では。
だが、問題なのは魔女の力はオレの想像の遥か上をいってしまうこと。この魔女はそれほどの力を持っている。
……考えるな。それがどうした。そうだとしても、オレはこの魔女を斬り殺さなければならない。それがオレの使命であり、オレの僅かながらに残っていた生きるための道なのだから。オレが生きて帰ってくるためには、この険しい道を行くしかないのだ。
戦え。戦え。戦え。戦え。戦え。殺すのだ、この忌々しい魔女を。
至近距離まで来た。このまま振り下ろせば、最低でも傷は負わせられるだろう。オレ程度の力であっても。
……だけれども、この距離までオレが近づくのを許すこの魔女はどうにもおかしい。なんだ。何を企んでいる。オレはお前を殺すために、剣を握っているのだぞ。舌打ちをして、剣を魔女の首に突きつけた。
抵抗を……しない、だと!?
オレは魔女の行動に驚愕する。こいつは首に剣を突きつけられて尚も動こうとしなかった。
突きつけられても、オレを殺れるってか? 馬鹿にしやがって。
憤る。見くびりやがって。オレは、驚異にもならないってか? ああ、そうか。そうかよ。弱いから、心底どうでも良いと思っているのだろうよ。今に見てろ。吠え面かかせてやるぜ。
オレは、握っているこの鉄の剣で魔女の首を貫こうとした。
「……酷く、怒っているようだな」
魔女は突然口を開く。煽りか。オレを煽ることで何がしたい。オレが醜いってか? オレが薄汚れているってか?
……お前にだけは言われたくない。国を滅ぼそうと軍を壊滅させ民たちに不安を与えた、『災厄の魔女』であるお前だけには。
プルプルと剣を持つ腕が震える。既に大きな怒りを溜め込んでいたオレにさらなる怒りが溜め込まれてしまう。悔しいのだ。自分の力はこの魔女に侮られてしまう程度のものだというのだから。舐め腐っていやがる。反吐が出そうになる。嗚呼、五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い。ハエのようにブンブンと五月蝿い奴だこと。
「『災厄の魔女』よ。言い残すことはそれだけで良いんだな?」
唇を噛み締め、訊く。震えが酷い。聞く前に剣が魔女の首を撥ねてしまいそうだ。
惨たらしくオレに殺されろ。そこに転がっている屍のように、お前も屍と化せ。オレはお前が憎い。嗚呼、憎い。憎い。憎い。憎い。
オレの平和を脅かす者は誰もかれも憎い。散らばれ。お前の悪名も今日で終わりだ。お前に明日はない。オレという凡なる才の剣士に斬り殺され、お前は土に還るのだ。凍えるような冷たさの大地の中で、お前は無念さを抱えて死んでいけ。
どうだ。オレに殺されるのは怖いか。怖くなってくれたか。お前はオレをここまで寄ることを許してしまった。そして、今剣をお前の首に突きつけている。これがどういうことだかわかっているか?
……お前は死ぬということだよ。死に絶えるのさ。
なあに、オレは生憎悪に浸かってしまった人間ではない。生まれたときから清く日々を過ごしてきた。従って、オレはお前を弔ってやるくらいはする。十七の若造に弔われる気分をせいぜい味わうが良い。ああ、そう考えたら楽しみだ。ケヒヒ。お前と同じようにオレにも笑みが溢れてきてしまった。魔女。お前のおかげだよ。お前がいるからオレはお前を殺すことができる。感謝しなければならないなぁ?
「……なぁ。少年よ。私の頼みを聞いてはくれないだろうか」
ああん? 頼みだと? 死ぬのが惜しくて、卑怯な手段に出たか?
オレの命を狙う奴に頼みを聞いてくれと頼まれ、ぬけぬけと「わかった」と返す奴が何処にいる。
お前は死ぬんだよ。ここで、オレに殺されるのさ。そんなわけで、こいつの頼みは無視だ。そもそも、こいつは何人もの人間を殺してきたと思っている。数え切れないほどの人間をその手で殺してきているのだぞ。そのような奴を、生かせるわけがないだろう。こいつを知っていれば、誰しもが同じことを思うはずだ。
血迷ったか? この魔女は。まぁ、狂ってしまうのであれば勝手にやってくれという話だ。……尤も、狂ってしまったところで、オレが今殺してしまうのだから意味はないのだがな。
「聞いてはもらえなさそうだな。では、勝手に話すとしよう。……少年。お前、私の味方をしろ」
いきなり何を言い出すんだ、こいつは。命を狙ってきて、そして、今はオレに命を狙われているのだぞ。やはり、狂ってしまったのか。
あるいは、そもそもが間違っていたのかもしれない。こいつは最初っから狂っていやがったのだ。
……ああ、なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた。剣を振るうことはやめよう。急に失せてきた。気持ちが。
魔女のことは憎いと思っていたけれど、それはオレの平穏を脅かす者だから憎いと思っているだけで、正直に言うとオレの平穏を脅かさなければオレもこの魔女のことなんかどうでもいいのだ。
剣士なんてやめてしまおう。こんなもの、その辺にぽいっと捨てでもしてオレは新しく辺境の何処か平和な村でのんびりスローライフでも送ることにしよう。その方が良い。何故、オレはこんなものになってしまったんだ。
「意外そうな顔をしているな」
「ああ。これはお前のことが馬鹿馬鹿しくて、呆れている顔だ」
ふざけている。こいつは存在だけではなく、中身もふざけた輩なのだ。だからオレはこいつの相手をしないことにする。今、オレはこの場でこの魔女に殺される可能性が高いだろう。ああ、高いだろうな。
でも、オレの死にたくないという気持ちをこいつの馬鹿馬鹿しさが上回ってしまった。イメージと異なって、リアルなんてものは大抵こんな感じに馬鹿が馬鹿を持ってきて馬鹿を生産するのだ。オレはこれに腸が煮え繰り返りそうだという気分にはならずに、ただただ唖然としてしまうだけだ。意味がわからなさすぎて。
こいつはオレをからかうことができてさぞ楽しいのだろうな。ああ、楽しいのだろう。
だけれど、オレはその挑発には乗らない。既に決めた。オレは馬鹿馬鹿しくなってしまったから、こいつを殺すことをやめる。よくよく考えれば、オレは雇われ剣士としてこいつを殺す任に就いたが、べつにそこらに転がっている亡骸とちがって魔女に執着があったわけではない。仕事が舞い降りてきたから、オレはこいつを殺そうと躍起になっているだけなのだ。
ふぅ。なんだ。意外に、冷静になれるものじゃないか。さて。帰ろう。帰ろう。
と、したら魔女に手でがっしりとオレの腕が掴まれる。
「待て。私が本気で言っていない、とでも思っているのか?」
もちろん、そのように思っていたが。命乞いをして、目敏く生きてやろうという考えなのかと思っていた。
「……ふむ。では、言い方を変えよう。お前のことを好いた。だから、私とともに生きてくれ」
……好かれる覚えがない。こいつ、本当にとち狂ってしまっているのか?
待ってくれ。オレはどうしてこいつに好かれた。オレは何をした。何をしたと言うんだ。
利用しようとしている、のか。読めたぞ。この魔女の考えていることが。この魔女はオレのことを利用しようとしている。
だが、自分で言うのも情けのない話ではあるのだが、オレは利用できるほどの価値のある人間ではない。生まれも育ちも普通。庶民階級。この世は悲しいことに階級社会である。故に庶民階級の者を利用したところで、無駄。国が動くようなことにはなるまい。
「断る」
オレはそれだけ言って去ろうとする。べつに、世界がどうなろうが知ったこっちゃない。オレが平和に生きさえできるのであれば、世界がどうなってしまってもいい。オレは細かいことを考えるのは苦手だし、他人の将来のことを考えるのなんか吐き気を催すほどに嫌いだ。考えることはオレのことだけで良い。自分勝手に生きる。それだけだ。
「魔女。お前に言っておこう。オレに誘惑は効かないぞ。言うことはそれだけだ。それじゃあな。また殺したくなったのなら、勝手に殺せばいい。オレはそういう自分勝手で、テキトーな人間なんだ」
本当にテキトーな人間だ。
「……ほう。逃げるというのか。それは許さないぞ。私と来てもらおう。もう決めた。そう決めた。逃がしはしない」
ジュッ、という何かが焼け焦げるような音がした。オレは振り返る。
「な、なんだよ、これ!? う、動けねぇ!? 炎で進路を断たれた。お前……何故、オレに拘る……」
「……さあな」
魔女はオレを軽々と持ち上げて、そのまま拉致していくのであった。