議題:ヒロイン入学前から悪役令嬢がバグってる件について
スランプの息抜きには新作を書け。
あ、わたし死んだな。と、やたらめったら刺繍が多い制服を規則正しく着こなした齢十七の少女は悟った。
名をシャルロッテ・エカテリーナ・アチェンスタという。
栗毛に緑の瞳のごくありふれた少女は父に子爵の位を持つ子爵令嬢であった。ざっくり公侯伯子男で分けられた貴族階級の下から二番目である。平民からはまとめてお高く留まったお貴族様と敬遠され、貴族社会ではたかが子爵の娘と侮られるどうにも胃が痛いポジションだ。であるからして、権力を持つが故に権力に苛まれるいたいけな少女がここ、貴族学校ブリューフェル学院で息をするには後ろ盾が必要だった。
それが、目の前の彼女──レティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオン公爵令嬢だ。シャルロッテは学院にて女王然として振る舞うレティーシア嬢の所謂腰巾着であった。苛烈な性格をしているレティーシアの後ろで「わたしもそう思います」と大した追撃にもならない相槌を打つ係である。彼女の荷物持ちであり背景である。彼女から発せられるギラギラ高慢エフェクトに隠れるモブである。それを内気かつ卑屈で小狡いシャルロッテは正確に理解していたし、この社会で生きるにはそうあれかしと己に課していた。
そう、モブたるもの常に主役の陰であれ──と。
しかして、慎ましやかに日陰生活を送っていただけのシャルロッテは現在窮地へと立たされていた。己……どころか学院の女主人のように振舞っていた女がよりにもよってシャルロッテの落としたハンカチに足を滑らせ壁へと激突したのだ。
どうして。
シャルロッテは常に彼女の後方に徹しているので、まさかハンカチを落としたタイミングで彼女が金髪縦ロールをぶん回しながら振り返るだなんて夢にも思わなかったし、さらにまさか彼女の校則違反ぶっちぎりのピンヒールブーツがご丁寧に己の総レースハンカチを踏み付けるとも思わなかったし、ましてやすっ転んで床に尻を打ち付けるどころか何の引力が働いたのか横にスライドしていき廊下の壁に突っ込むだなんて、神にも父にもとりあえず被害者の彼女自身にも誓ってシャルロッテは思わなかったのである。想像すらできるものか。
やばい。
シャルロッテは悟った。自分の首はこれで飛んだ、と。なんなら一族諸共飛んだ。
これが貴族社会の現実である。平民は貴族であるというだけで国から庇護を受ける卑怯者と事ある毎に貴族の青い血を批判するが、貴族とて常に御上の機嫌窺いをし首の皮を一枚だけで繋ぐストレスフル生活をしている。そして今、シャルロッテはその命綱を断たれたのだ。
相手はレティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオン公爵令嬢だ。王家の姫君が幼いうちは、実質この国のお姫様のようなものだ。蝶よ花よと慈しまれ、彼女自身、己の価値を過分なくらい理解しているし利用して生きてきた女傑である。
その、彼女を。一切の含みない正真正銘の事故とはいえ己のハンカチが害した。ゆるされるわけがない。
「きゃあぁぁ! レティーシア様ッ」
「ご無事ですか、ル・ヴェリオン公爵令嬢!」
「なんということを──そこの、そこのおまえ! 彼女を捕らえなさい! ル・ヴェ・リオン公爵令嬢に対する不敬ですわ! いいえ、もしかすると暗殺かも──」
「何故このようなことを!? アチェンスタ子爵令嬢!」
どこから現れたのか、鎧を身に纏った男達が非力で無抵抗のシャルロッテを拘束する。無理矢理に膝を着かせ、蒼白のシャルロッテに現実をよく見ろと面を上げさせる。そこには美しくも恐ろしい────打ち付けたこめかみを片手で押さえジッと青い瞳でシャルロッテを見下ろす女がいる。
シャルロッテの死神だ。
ああ、お父様、お母様──あなた達を巻き込んでこの人に殺される無力な娘をどうかおゆるしください……
「レティー、シア……様……」
シャルロッテはほろりと涙した。いつだってシャルロッテの涙と欠伸とたまに鼻水を隠してくれたハンカチは未だレティーシアの校則違反ブーツに踏んづけられている。たぶん貫通している。もう誰もシャルロッテの絶望を柔らかに覆い隠してはくれないのだ。
ただ、ひとり、目の前のその人を除いては。
「────英理子?」
その時、騒然としていた空気が奇妙な形を保持したまま沈黙した。
誰もが思っていた。レティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオンが次に口を開いた時──シャルロッテ・アチェンスタは無慈悲に断罪されると。ヒステリックに金切り声を上げて、凶器にも見紛う長さを有した爪で頬を叩き少女の柔肌を裂いてしまうだろうと。
それが、なんだって?
エリコ……………………………………………………………………………………英理子?
「おまえ、英理子だよな? なんだその服、コスプレか? 髪もいつの間に染めたんだよ、やべーくらい似合ってねーぞ。しょうゆ顔のくせに」
「………………」
「おい、なんだよ、なんか言えよ。ブスがもっとブスになってんぞ。つか俺の声もなんか変だな…………っうわ! なんだこれ、おっぱいじゃん! 見ろ英理子、俺におっぱいが生えてる!!」
「………………………………」
「英理子? 兄ちゃんを無視すんなよ、おーい、英理子ー?」
シャルロッテは目の前が真っ暗になっていくのを感じた。なぜって、あのレティーシア嬢が下町の悪ガキも真っ青な粗雑な言葉を使い、挙句の果てに己の豊満な胸をむんずとわし掴んではシャルロッテへと見せ付けてきたのだ。何様あたくし様女王様なレティーシア・ル・ヴェ・リオンが無邪気にシャルロッテを英理子と呼ぶのだ。ツンと済ました凍える美貌ではなく鼻たれ小僧みたいな顔付きで大口を開けているのだ。まるであの人みたいに。
そう、まるで────
限界をとうに飛び越えたストレスから意識を放棄しようとするシャルロッテの頭に存在しえない記憶がなだれ込んでくる。シャルロッテ・アチェンスタが持つはずのない『過去』 ──大学生の自分、アルバイト代をこつこつ貯めて買った念願の乙女ゲーム、やたら構ってくる鬱陶しい一つ違いの兄、全クリからの隠し神エンディングに興奮して泥酔のまま駆け出した夜道、自分を殺害したであろう煌々とした光と走行音────────ああ、そんなまさか。
シャルロッテは気絶する間際、運命に抗うようにして叫んだ。目一杯、命からがらに訴えた。
「うるせーッ!! 公共の場でおっぱい連呼してんじゃねえぞ、このデリカシー皆無のクソバカ兄貴ィ!!」
アニキィ…………ニキィ………………キィ……………………
かくして、シャルロッテ・エカテリーナ・アチェンスタは自分が大田英理子というごく普通の日本人学生であったこと、この世界が『イノセント・イノセンス』という名の乙女ゲーム、通称『イノ・イノ』の設定そのままであること、目の前の悪役令嬢の中身がどう考えても不肖の兄・大田健であることを思い出したのだった。
『イノセント・イノセンス』──通称『イノ・イノ』は〝悪魔の血〟と呼ばれる世界を蝕む泥を浄化する能力を発現させた主人公を操作することによって、選択肢(時たまミニゲーム)から攻略対象のうちの誰かと恋愛関係に発展していく、所謂乙女ゲーと呼ばれるジャンルの恋愛アドベンチャーゲームだ。攻略対象は主に五人から形成され、パッケージにもでかでかと描かれる看板的存在の王太子──その幼馴染かつ乳兄弟の側近──女遊びが激しい軽薄な先輩──一番初めに友情を紡ぐ同級生──子犬のように主人公を慕う後輩と、定番中の定番が揃えられている。ルート毎にバッドエンド・ノーマルエンド・グッドエンドの三種を用意されているので、全エンディングを網羅しようとすると十五通りにもなる計算だ。さらには、やり込み要素として全エンディング回収後に隠しルートが追加される為に実のところエンディング数は十八にも及ぶ。その隠しルートこそが真のエンディングであるとファンは専ら口にする──それが『イノ・イノ』の世界である。というのも、隠しルートによって漸く主人公の能力とその真実が明かされるからである。
そして、恋愛を燃え上がらせるスパイスにあらゆる方向からの障害は付き物でありその象徴となるのが王太子の許嫁たる悪辣な公爵令嬢レティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオンなのだ。ドリルかってくらいクルンクルンに巻かれたうるさい金髪にしっかり吊り上がった眉と瞳、唇には鉄壁装備の真っ赤なルージュを引いて、いざ制服を脱ぎドレスを着込めば大輪の真紅が舞い踊る。公式絵師が全力で遊んだとしか思えない悪女っぷりを顔面で見せつけてくる美女、それがレティーシア・ル・ヴェ・リオン、通称レティだった。
ああ。
ああぁあぁ~…………。
思い出した。そして理解してしまった。私はおそらく徹夜と感動と酒でぐちゃぐちゃの顔のまま交通事故で死んだ大田英理子だし(運転手の方には心から申し訳ないことをした……)ここは『イノ・イノ』の舞台ブリューフェル学院だしわたしはキャラプロフどころか立ち絵すらも存在しないモブ中のモブ、シャルロッテ・エカテリーナ・アチェンスタだ。レティがたまに「そうでしょう、シャルロッテ!」と叫んだ際に「レティーシア様のおっしゃるとおりですわ」辺りの台詞が浮かぶだけのイエスマンモブだ。なんてことだ。
誰かが運んでくれたらしい医務室のベッドに突っ伏して頭を抱える。お貴族様にご満足いただくため極限までふわふわにされた羽毛布団は絶望する私をどこまでもふんわりと包んでくれる。やさしい。そんなところまでも憎らしい。
これって。そうだ。所謂なろう系というか──そういう流行りの──そう──異世界令嬢憑依ものだ! ここから前世知識を活かして強くてニューゲームするのが主流で、実は性格が最悪だったりする正ヒロインを『ぎゃふん!』と言わせて『ザマァ!』しちゃうのが王道なのだ。
──────私が悪役令嬢のレティーシアならな!!!
なぜだ。なぜなのだ。なぜレティーシアが…………クソバカ脳筋兄貴の大田健なんだ!? 意味がわからない。明らかに魂の入れ先間違ってますよ神様。
「うそでしょお」
心の友たる総レースハンカチちゃんが悪女のピンヒールによって殉職した今、ピンチヒッターの羽毛布団さんに甘やかされながらうぉんと泣き声を上げる。すると、恐ろしいことにそれに返ってくる声があった。
「あ、英理子起きた?」
「………………レティ」
「いやタケルだけど。おまえの兄ちゃんですけど」
レティーシア・ル・ヴェ・リオン──否、レティーシアの姿をした兄がそこにいた。貴族令嬢としてエベレスト山よりも高いプライドを持つレティならば絶対にしない胡座をあられもなくかきながら、こめかみを氷嚢で冷やす兄が隣のベッドに寛いでいた。ついにはうぐぅと豚の嘶きのような声が漏れ出る。
ヤメテ……レティの顔でそんなはしたないことしないで……私は主人公や五人の攻略対象は勿論のこと、悪役のレティだって大好きだったんだから!
そう、これが数多とある乙女ゲームの中でも『イノ・イノ』が異色とされ注目される理由だ。『イノ・イノ』は主人公があまりに善い人すぎて、タイトル通りイノセントすぎる為に自己投影型プレイヤーから戸惑われてしまう不思議な現象を生み出したゲームなのだ。さらに面白いことに、自己投影でなく主人公も一人のキャラクターとして見立て彼女の性格に合わせた善い選択肢を選べば選ぶほどエンディングがバッドへと転がっていく。それはもう乙女ゲー界に大混乱を巻き起こした罪深きイノセントヒロインなのである。結果、悪役令嬢レティーシアの方が人間味があって理解できると真逆の評価を生む事態となった。
(……それもまるごと、制作側の狙いだったわけだけどね)
主人公がいいこちゃん過ぎて共感できないなんて批判はなんのその。善=バッドの謎仕様すらも伏線に絡めて、全ルート制覇後の真エンディングによって主人公と悪役の評価がでんぐり返りしまくる異例の乙女ゲーム、それが『イノセント・イノセンス』なのである。
だというのに。
「裏の主人公とも云えるレティの中身がうちのバカ兄貴とか……台無しにも程がある……」
「よくわかんねーけど今さらっと俺のことバカにしたろ」
レティの顔した兄にぐりぐりとゲンコツをお見舞される。これが我が大田家での日常的やり取りの一つであったなら何すんだバカ兄貴と私も盛大に相手取っていたところだ。だがしかし──レティなのだ。顔がかの美貌の悪役令嬢レティーシアというだけウッと心臓が跳ね上がる。ルージュでピカピカぷるぷるの唇が目に毒すぎる。顔面からの美の暴力が酷い。
「うぅぅ~っ、レティ兄貴ィ゛~」
「コラ、名前をキメラすんな」
キメラなのはどっちだと中身が大変なことになってしまった愛すべき悪役令嬢に鼻水を擦り付ければ、うへぇばっちぃ! とばかりに逃げられた。かなしい。レティの顔で汚いものを見る顔をされるのは正直ご褒美めいたものがあるけれど普通にかなしくもある。
「とりあえずさ、おまえ大田英理子でいいんだろ? この状況──兄ちゃんにもちゃんとわかるように説明してくれよ」
そうして、中身はともかくレティ様のおねだり尊顔に負けた私はつい先日隠しエンディングまで情緒をめちゃくちゃにミキサーされながら連徹クリアした『イノ・イノ』の世界観と、つまりはこの世界は乙女ゲームでありあなたはレティーシア・ル・ヴェリオンという悪役であることを包み隠さず伝えた。それはもう懇切丁寧に、誠心誠意魅力もまるっと詰め込んで伝えた。
しかし兄は────深々とため息をついた。
「英理子さ…………その歳でその妄想はそろそろキツくね?」
「じゃあ鏡見てみろよバカ兄貴! 自分がどんな美少女になってると思ってんの!? 悪女でさえなけりゃ普通に顔だけで国堕とせるからね! 傾国だから!」
「ん、それはわかる。めっちゃキツイけどめっちゃ美人だった。あと乳がデケェ」
「あたりまえよ。私達のレティ様だぞ。そんで勝手にレティ様の乳に触んな羨ましい」
無遠慮にレティの胸を揉んでは「F……?」だとかサイズの確認をしているデリカシー皆無男へと心底軽蔑した眼差しを投げ付ける。私が知る限りそれなりにカノジョだっていた筈なのに結局は同性の友達とするマリカの方が楽しいとほざく兄は、ついには女体を手に入れたところで女性の扱いを理解するには至れなかったらしい。
ううんと元来の吊り目をあどけなくまん丸にして上目遣いにこちらを見遣る美少女の有様に胸がキュンと高鳴る。悔しい。だってこれは大田健……大田英理子の実の兄なのだ。現実がバグっている。運営には早々にメンテナンスをお願いしたい。
「レティねえ……。その、えーと……レティ………るおん?」
「レティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオン。……ジーンはミドルネームだからレティ・ル・ヴェリオンとだけ覚えておけばなんとなると思うよ」
「おう。で、俺がその〝れてぃ・るべりおん〟であるからにはワルっぽく振る舞わなくちゃいけねーってことだな?」
「もうそこから私としては自分も含めて意味わかんないんだけどね……。──兄貴、なんでそうなってるわけ?」
とうとう、踏み込んだ。
おそらく私は死んだ。大田英理子は死んだ。だから、こうなったのだ。ならば、兄は──たった一年早く生まれたってだけで兄貴面して、自分のこと兄ちゃんなんて呼んじゃって、精神年齢ガキのくせに妹の面倒を見たがる面倒なこの人は──私の死後どうしていたのだろう。妹の死にどう思ったのだろう。どうして、ここにいるのだろう。
「……ま、それは追い追いってことでいーじゃん」
「……兄ちゃん、」
「俺はさ、英理子が元気ならそれで──」
戸が──開いた。ハッと口を噤み、また兄の毒々しく艶めく唇も咄嗟に手で覆って扉を窺い見る。はらりと金銀の細糸が空気に触れて揺れる。稀代の悪女……になりうるレティーシア・ル・ヴェ・リオンをあろうことかベッドへ押さえつけているように見えるレティーシアの腰巾着(公爵令嬢への暗殺未遂疑惑あり)に翡翠とヴァイオレットの瞳が大きく開く。
「────俺の許嫁に、なにをしている?」
悪役令嬢レティーシア・ジーン・ル・ヴェ・リオンを許嫁に持つ攻略対象の一人、ブラッド・ロイ・ロ・セクシオン王太子殿下と側近ナインツ・ヴァルロイド閣下の登場だった。
「…………」
極限状態における冷や汗というやつは、背中だけでなく顔にも出るのだとこの日シャルロッテ・エカテリーナ・アチェンスタは知った。大田英理子としては就活実習の模擬面接以来だ。
ええと。その。これは。
まるで猛獣でも相手にするみたいに、そろりそろりとレティの口から手を離して心持ち後ずさる。ベッドの上へ戻ったというのに壁に背が着くまで距離を確保しようと身体が勝手に動く。どうか余計なことを言わないでくれと兄に祈りながら目だけは男から離さずに下手くそな愛想笑いを浮かべる。
「ほ、本日は、お日柄もよく……ごきげん、うるわしいようで。セクシオン殿下」
「ああ……見たところ君は麗しくないようだな。随分な顔色だ」
クッと皮肉っぽく八重歯を見せて笑った彼は、金髪も相俟ってまるで小動物に獲物を定めたライオンのようだった。事実、キャラクター紹介や本編テキストでやたらとライオンに例えられる為にそういった先入観を植え付けられているだけかもしれない──いや、これは紛うことなきライオンだ。肉食獣だ。頭のてっぺんから足の先まで俺様オーラムンムンの看板攻略対象様だ。
私は無意識のうちに命をつままれる心地で息を詰めていた。──生のロロ殿下コッッッッッワ!!
ちなみにロロ殿下とはファンによる検索避け用内輪ニックネームである。とある攻略キャラのルートに突入するとロロ殿下のファーストネームが非常に使いにくい展開となるため必然的に生み出された愛嬌ある渾名なのである。──今は愛嬌がどうとか言ってられないけどな! まさしくブラッドを撒き散らしながら頭からバリバリ取って食われそうだ。
そう、本能的に怯える私の前に立つ影があった。
「──レティーシア、さま?」
「……なんの真似だ? レティーシア」
レティーシアが──否、兄の健が私を背に庇い凛と男達を見据えていた。
「怖がってる子をンな目で睨んでんじゃねぇよ。自分の面がどんなもんかくらいはわかってんだろ?」
「────」
金髪に青の目──ヒロインと同じ色彩でありながらヒロインよりも攻撃的な濃さを持つ金髪ドリルがぶんっと振れる。背しか見えない為に正確に把握はできないけれど、おそらく目もヒロインよりずっとずっと強い眼光と深さをもって男達を睨んでいる筈だ。
そうしてヒロインに牽制する悪役令嬢のスチルと──兄の姿を私は知っている。
「兄ちゃん……」
「なんだ、その言葉遣いは。大体、なぜその女を庇う。それはお前を害そうとしたのだろう? 普段のお前なら、肢体の指を切り落とし舌を縫ってから裸にひん剥いて処刑してしまえと喚いてる頃じゃないのか」
「はーぁ? え、このデカパイの悪さってそういうぶっ飛びレベルなの? ……それはキツイな」
「……レティーシア?」
このバカ兄貴、とうとうレティのことをデカパイとか言い出しやがったぞ。
感傷もなんのその、いつも通りに絶妙にデリカシーがない兄の発言に脱力する。すっかり気が抜けてしまう。挙げ句の果てにレティーシアの関係者を捕まえてレティーシアの顔と声で兄は堂々とのたまうのだ。
「ま、なんでもいーや。あんたが何に怒ってんだかは知らないけど英理子を苛めるのはナシな。こいつがあんたを怒らせるようなことしたんだとしても、文句はとりあえず俺……じゃなくて、あたしを通してからにしてよ」
「「…………」」
申し訳程度に一人称をあたしと言い換えたところでロロ殿下と二人目の攻略対象──王太子の幼馴染かつ側近のナインツ・ヴァルロイド閣下(ファンからの非公式愛称は、ロロ殿下の声優が彼をナナ君と呼んだところから取られてナナ様である。9様と称されたりすることもある)の珍妙で不可解な生き物を見る目は変わらない。当然だ。今朝まで金髪ドリルを肩からぶんぶん振り払いながらオホホと高慢ちきに高笑いを上げていたお嬢が今やこれなのだ。もしも私が大田英理子でなくシャルロッテ・アチェンスタのままであったなら二度目の気絶をしているし最悪ショック死しているところだ。
もうそこまでにしてくれ……逆に恥ずかしくなってきた、と涙でなく羞恥から顔を覆い彼女──いや、彼? の制服の裾を引けば、漸く自我を取り戻したらしいナナ様がわざとらしい咳払いで兄を冷視した。
「頭部への負荷によりル・ヴェ・リオン嬢の気が触れたという噂は真実であったようですね」
なるほど、意図的加害疑惑がある私と被害者のレティを無防備に同じ医務室へと突っ込んでいたのには、臭い物は纏めて蓋をしとけ的な思惑が絡んでいたらしい。
なにはともあれ、我々が処理せずとも命拾い出来たようで安心いたしました、シャルロッテ・アチェンスタ先輩──そう、言葉と全く真逆の表情で告げるナナ様にロロ殿下が片眉を跳ね上げる。
「シャルロッテ? この女の名はエリコではないのか?」
「いいえ、殿下。この方は第三学年のシャルロッテ・エカテリーナ・アチェンスタ子爵令嬢ですよ。我々より一つ年上の先輩ですから、学生のうちはきちんと敬って差し上げねばいけませんね」
ロロ殿下の翡翠色の瞳とナナ様の紫色の瞳、そしてなぜかレティーシアの海色の瞳までもが揃って私を覗く。目力いっぱいの美形ラッシュに小心者のシャルロッテを倣ってヒィッと羽毛布団の中まで身を隠してしまいたくなる。哀れな私をその最高品質の包容力で包んでくれ、羽毛布団さん。そしてせめて兄貴は不思議そうな顔をするなっての。
「あ、あの、僭越ながらアチェンスタが申し上げます! これはつまり、その──ただの渾名です! ミドルネームのエカテリーナを略してエリコ……ほら、ね、おかしくない! そうですよね、レティーシア様!」
「えっ。あ、うん?」
「ね!!!」
「お、おう……そう、わね?」
「──君の名が何であるかはこの際どうでもいい。我が許嫁レティーシア、おまえに一つ忠告しておく事がある。……くれぐれも明日に迎える平民との間に問題は起こしてくれるなよ」
このままでは埒が明かないと至極当然に判断したらしいロロ殿下が話をぶった切ってまで寄こした本題は、そのたった一本だけであった。要は医務室への訪問だって、頭を打ち付け気がおかしくなったとされる許嫁への見舞いですらなかったのだ。そうして去り行く彼の冷たい背に、気付いた。
………………あれ、もしかしてあの人、クズでは?
二次元キャラクターとして咀嚼する分には俺様な性格も命令口調も強引な手腕もワイルドな個性として美味しくいただいて来られたけれど──現実として扱うには普通に顔と身分くらいしか良いところがないんじゃ……こんなクズのどこに惚れたっていうんだ、我等がヒロインとレティは。
ちなみに稀代の悪女レティーシアはもしかしてもなにも正真正銘のクズなのでそもそも査定するに値しない。エンドによって処刑だったり幽閉だったり暗殺だったり生贄にされたりもする悪役の生き様は伊達じゃあないのである。
だけども、だ。────そんな人が、今は私の兄なんだから。
「……兄貴」
「ん?」
「さっきの二人、顔面偏差値が高すぎるところからもわかる通り攻略対象のうちだから絶対に惚れたりしないでね。ヒロイン目線でグッドの場合、悪役レティのエンディングは大抵が大変なことになるから」
「いや男の時点で俺的にもノーサンキューなんだけど」
「あと、」
「まだあんのかよ……」
「明日一日は無駄に校内を出歩かないこと。……ライバルエンカウント率が上がってロロ殿下以外のルート開拓に貢献しちゃうから」
「……えーと、つまり?」
「明日から『イノ・イノ』本編が開始するってことだよ」