夢現
最近流行の演劇は隣国からやってきた燃えるような恋の話。
けれど、現実はそうはいかない。
父や母の世代に比べたら、恋愛結婚をする人も増えたというけれど、貴族はやはり、親が婚約者を決めることが多い。貴族の末席にギリギリ座っているような我が家も例外ではない。
「はじめまして、旦那様。末長くよろしくお願いします」
「ああ」
素っ気ない一言だけ返ってきたが、私に彼のことを教えてくれた人たちはみんな、彼はとても優秀で、少し素っ気ないだけでとてもいい人だという。
だから、燃えるような恋をして一緒になったわけじゃなくても、きっと私は彼のことが好きになれるはず。
私が好きな人たちが、そう言うのなら、そう信じて彼のことを好きになれる気がした。
本当であれば、婚約期間を半年以上設けてから婚姻するものだ。
けれど、本来彼の婚約者であった従姉妹が駆け落ちしてしまい、代わりとなった私にその猶予は与えられなかった。
家格こそそれほど変わらない彼の家だが、彼自身が王宮で要職を務めていることから、結婚にそれほど時間をかけていられない、ということだったらしい。
全ては、書類にサインするまでの間、父から聞かされた話。
彼は忙しく、婚約式も、結婚式も特になかった。
それから、広い屋敷の中、彼を待つ日々が始まった。
「旦那様。次はいつ帰ってこれそうですか」
「わからない。生活費が足りなければ、リードに言っておいてくれ」
生活費が足りなくなることはない。どちらかといえば、貧乏貴族の部類に入る我が家と比べ物にならないくらい、何不自由のない生活をさせてもらっている。
旦那様は、華やかな成果を上げているわけではないけれど、堅実な仕事ぶりで、とても頼りにされているらしい。
そう、信用に足る使用人たちが教えてくれた。
彼らが言うのなら、きっとそうなのだろう。
けれど、私はあなた以外の人からあなたの話を聞くだけじゃなく、あなた自身からあなたの話が聞きたかった。
「お城に、書類を持っていく、ですか?」
「はい。大事な書類ですので、よろしければ奥様に持っていっていただければと」
「行きます!」
本当は知っている。旦那様が信頼している執事であれば、書類を持参する程度、何の問題もない。きっと気を使ってくれたのだろう。私が旦那様のことを何も知らないから。
けれど、せっかく作ってくれたこの機会を、逃したくはなかった。
初めて足を踏み入れた王宮は、とても華やかだった。
旦那様の執務室は、王宮の中心部に近いとこにあり、書類を届ける、という名目がなければ、足を踏み入れることはなかっただろう。
リードとともに何度か来たというメイドに案内され、たどり着いたその扉を叩くと、中から少し疲れた様子の旦那様が出てきた。
「なぜここにいる?」
「リードに代わって書類を届けにきました」
最初こそ私が来ていたことに訝しげな表情を浮かべていたが、リードの名前を出すと旦那様はあっさり納得した。
淡白な反応の彼より、隣にいた同僚らしき男性の方が突然現れた私に興味を示す。
「サイラス、こちらが奥方か?」
「そうだ」
淡々と答えた旦那様に対し、同僚の男性は興味津々といった様子でこちらを見る。少し居心地が悪い。
「失礼、マダム。この仕事人間に奥方がいることは知っていたがどうも信じられなくてね…」
「結婚したのはとっくに伝えていただろう。何を今更」
「そうはいっても…。王宮によく寝泊まりしているじゃないか」
「仕事が忙しいんだから当たり前だろう。もう戻りなさい」
「はい」
同僚の方はまだ何か聞きたそうにしてたけれど、旦那様が嫌がるのであれば、残るわけにもいかない。
けれど、せっかくここまできたのだから、最後にもう一度、姿を目に焼き付けておきたい。
次いつ会えるかわからないのだから。
そう、下心を出したから、よくなかったのだろう。
閉まりかけの扉の向こうから、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「なあ、奥方のことをどうして社交界に連れて行かないんだ?」
「社交界なんて時間の無駄だ。どうせ私も行かない」
「まあそれもそうだが…。奥方は王都に知り合いはいるのか?」
「さあ」
「さあってお前な…。もしいないようなら、うちの姉にお茶会に誘うよう頼んでみるぞ。奥方の名前は?」
「名前なんて覚えていないし、誘いも不要だ」
従姉妹の代わりに、急に決まった結婚だったけれど、私は、私なりに良き妻になれるよう、頑張りたいと思っていた。
けれど、距離を詰めたいと思っていた、その相手は、私の名前すら覚えていなかった。
それがあまりに滑稽すぎて、涙より先によくわからない笑みが溢れてしまう。
確かに当たり前の話かもしれない。私は急に決まった婚約者だし、ほぼ言葉を交わさない旦那様が、私の名前なんて呼ぶ機会もない。
隣で同じ話を聞いてしまったであろう、気まずげなメイドを気にかける余裕もなかった。
ぼうっとしたまま、来た道を戻るメイドの後ろを歩むと、どこからかくすくすという笑い声が聞こえる。
来たときはあんなに目を引かれた景色もよくわからなくなっているのに、なぜかその声だけが耳に残った。
みて、あれがサイラス様の奥方よ。
恥ずかしくて、社交界にも連れてこれないんですって。
可哀想なサイラス様。
城に出入りを許された、ご令嬢方のくすくすという笑い声と、その言葉が、いつまでもいつまでも耳に残った。
彼は、優秀で、出世が約束されている。
私の家は、そんな彼の後押しをできるほどの力なんてない。
彼は私の助けなんていらないかもしれないけれど、せめてこの家が、彼にとって安らげる場所であればいいと思った。
たとえ、帰ることがほとんどなくても。
何かの縁で、夫婦になったのだから、相手が私を妻と思ってなくとも、何かしたい。どうしてもそう思ってしまうのだ。
旦那様の信用を得られていない私は、この屋敷の中で女主人としての役割を何一つ果たせていない。
リードは優秀だし、勝手にその領分に入り込む気もない。
ただ、屋敷の中に飾る花を選んだり、旦那様がたまに帰ってきたときのお茶を選んだり。そういった、ささやかなところで何かできないかと探した。
使用人たちは、私のそんな気持ちを汲んでくれ、協力してくれた。
旦那様はそんな僅かな屋敷の変化に気づいた様子もなかったけれど、そんなささやかな仕事をした後は、大抵とてもいい夢が見られるのだ。
「よくやってくれた。過ごしやすくなったな」と言い、笑顔で私を褒めてくれる旦那様の夢が。
実際には笑顔なんて見たことがないから、いつでもその顔はぼやけていたけれど。
「あまり使用人の手を、煩わせるな」
ある日、帰宅した旦那様が、珍しく私を呼んでいるというので、喜んで向かったら、そう言われた。
「どういう、ことでしょうか」
「最近使用人の仕事に手を出しているそうだが、それは彼らの仕事だ。君がやることじゃない。もっと別にやることがあるだろう」
「…私に、何をすることがあるのでしょうか」
「…何?」
いつも黙って、話を聞いている私が、言葉を返したのが、意外だったらしい。
眉を顰める旦那様に、それでも、口が止まらず、言い募る。
「この屋敷の全てを仕切っているのは、リードです。女主人としての役目も果たせず、社交界にも出ず、子どももいない私に、他に何ができるのでしょう」
はあ、はあ、という私の荒い息だけが部屋にこだまする。
旦那様は、しばらく黙ったのち、静かに言った。
「君は、何もする必要はない」
そして、部屋には扉を閉める音だけが虚しく響いた。
彼が言うことも、尤もだ。
彼にとっては、きっと私がいない時が、最善の状態だったのだろう。
そこに私という異物が入ってきてしまった。
けれど、どうしようもできないじゃないか。王宮勤めで独身なんてほとんどいない。それがわかっていて、適当な貴族令嬢と結婚したのだろう。それも、おざなりに扱っても文句を言わなそうな、下位の貴族を。
全部全部わかっていたけれど、私は疲れてしまった。
何も期待しなければいい。何も余計なことをしなければいい。わかっているのに、それがどうしてもできない。
優しい使用人に気を使われることも、貴族社会の噂になることも、噂を気にした両家から子どもを催促されることも、もう全部全部全部。
全部投げ出したくなった。
そして、気づいた。
旦那様にとっては、妻がいる、その事実があれば十分なのだ。彼にとって私の存在意義はそれだけ。
私を妻としてみてくれないだけで、何かひどいことをされたわけでもないし、他の貴族のように愛人を作られたわけでもなければ、仕事をしないわけでもない。そんな旦那様に不利益になることはしたくない。
だから、夢の中に逃げてしまえばいい。
現実世界ではあっという間に噂になってしまうし、そもそも私に逃げ場所などない。貧乏の部類に入るとはいえ、貴族令嬢として育ったのだ。自活できるほどの能力が自分にあるとは思っていないし、修道院に入ってしまっては、妻である、という事実がなくなってしまう。
けれど、夢ならば、旦那様は煩わしい私に会う必要はないし、妻がいるという事実は変わらない。
私も、夢の中の優しい旦那様に会える。
それはとても良いアイディアに思えた。
きっと、長い夢を見たあと、私はまた頑張れるはずだ。
* * * * *
「旦那様、奥様にあの言い様はあまりにも冷たすぎるではありませんか」
「うるさい」
リードに窘められるまでもなく、自分でもわかっていた。
「そもそも、我々は、奥様に煩わされた覚えはありません。奥様に差し支えない範囲でお手伝いいただき、屋敷の雰囲気も前よりも過ごしやすくなった気がいたしませんかとお伝えしただけです」
「うるさいといっただろう」
言い方を間違えたと、すぐに気づいた。気づいたけれど、口をついて出た言葉を戻すことはできない。
その後も何も弁解できなかったのは、彼女が珍しく反論めいたことを言って動揺したせいかもしれないし、単純に、口下手な自分の性質が災いしただけかもしれないが。
駆け落ちした従姉妹の代わりに、ろくな婚約期間も設けられず、華やかな結婚式も挙げられず、自分の妻に納まった彼女。
申し訳ないと思いつつ、あの女性の従姉妹であれば、潤沢な生活費を渡していれば、それで満足だろうと思っていた。
よく知らない男など、あまり顔を合わせなくとも良い。寂しければ愛人でも囲えばいい。うちの両親のように。
跡取りだって、私自身の子である必要はないのだ。
そう思っていたのに。
ーこの屋敷の全てを仕切っているのは、リードです。社交界にも出ず、子どももいない私に、他に何ができるのでしょう。
そう、叫ぶように言った彼女の声が耳を離れない。
彼女の従姉妹を知っていたから、勝手に彼女のことを知った気でいたのだと、そう思い知らされた。
使用人から、そんな人物ではないと聞かされていたはずなのに、忙しさにかまけて、理解する努力を怠った。
彼女は彼女なりに、私の妻になったことに責任を感じ、役割を果たそうとしていたのに。
「リード」
「なんでしょうか」
「…明日は、夕食時に戻ると、妻に伝えておいてくれ」
「かしこまりました」
ここ最近、ずっと厳しい表情を浮かべていた執事は、ようやく穏やかな表情で深々と頷いた。
これでようやく、彼女と話ができると、そう思っていた。
「起きないだと?」
「ええ。メイドがずっと起こそうとしているのですが…。朝食までは普段とお変わりないようでしたが、その後、どうしようもなく眠いのだと、少し休むとおっしゃってから今までずっとお休みになっていらっしゃるようです」
こんなことは今まで一度もなかったのだと、執事も困惑している。
結局彼女が起きたのは、食後の紅茶を嗜んでいるときだった。
メイドに連れられてきた彼女は、昨晩あった時よりも、どこかぼうっとしていた。
寝起きだからかもしれないが、夢現でどこか危うい。
だが、謝罪は早い方がいいだろう。
今回のことだけではない。ずっと彼女を待たせていたのだから。
「昨晩は、すまないことをした。使用人は君の手伝いを煩わしいとは思っていないし、事実、屋敷が前より明るくなったように感じる。もしよければ、今後も屋敷のことを少しずつお願いしたい。もちろん、君がやってみたいと思う範囲で構わない」
昨晩から散々考えていただけあって、滑らかに口から出た言葉に、彼女は嬉しそうに笑う。
それだけで、私も気持ちが楽になるのを感じた。
「嬉しいです。そんなことを言っていただけるなんて…。本当にいい夢ですね」
「夢?…ああ、まだ起きたばかりだったな。ずっと眠っていたそうだが…どこか具合が悪いのか?」
「いいえ?とても元気で、今はとても幸せです」
そう言ってもう一度、にっこりと笑う。
その笑顔を見て心が温まるのと同時に、もっと早く、話す機会を設けるべきだったと後悔した。
日々言葉を重ね、いつか本当の夫婦のように気持ちを通じ合わせることができたのなら、どれだけいいだろう。
そんな、自分らしからぬ夢見るようなことを思ってしまった。
「まだ起きないのか」
「メイドがずっと声をおかけしているのですが」
それから、一週間。
毎日帰るようになった私に対して、彼女の睡眠時間は増える一方だった。
今日はとうとう一度も目を覚まさなかったらしい。
起きた彼女がいつもあまりに幸せそうだったから、好きで寝ているのかと思ったが、そろそろ医者を呼ぶべきかもしれない。
けれど、呼び寄せた医者にも、彼女の睡眠の理由はわからなかった。
ただ、このペースで眠っていては、栄養が足りなくなってしまうから、口の隙間からでも必ず水と飲み込むだけで食べられるような食事を与えるように、そう注意しただけ。
彼女はそれから、私が不在にしている間に、一度目を覚ましたらしい。
すぐにリードが私に知らせをくれ、事情を汲んでくれた上司や同僚も協力してくれたおかげで、すぐに家に戻ることができたが、彼女は再び眠りについた後だった。
それからまた、数日がたった。
今度こそ彼女が目を覚ました時に絶対立ち会おうと、家に仕事を持ち帰る。
今までずっと働き詰めだったこともあり、休みは有り余っていたし、周りも理解してくれていた。
「旦那様!奥様が目を覚まされました!」
涙ぐんだメイドの声に慌てて立ち上がり、隣室で眠っている彼女に近づく。
「オリアーナ」
初めて口に出す、彼女の名前で呼びかけると、目を覚ました彼女は緩やかに、だが嬉しそうに笑む。
その笑みに釣られ、私も口元を緩めたが、彼女のかすれた声で告げられた言葉で、そのまま凍りついた。
「旦那様が名前を呼んでくれるなんて…本当にいい夢だわ」
そうして私は、ようやく自分が遅すぎたことを知った。