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一章

 コントローラーを指先で操作する単純な動き。身体にしみついた行動はあまりに簡単だというのに、画面の中では思い通りにいかないパズルが乱雑に積みあがっている。勝負は明らかに劣勢だった。すっかりやり尽くして食傷気味だったゲームにストーリー性はなく、突発的な勝負が行われては結果によって順位が付く。才能の有無ではなくやった時間に比例するテンプレートの多いパズルゲーム。自分のプロフィール欄に堂々と表示された順位に、佑人は薄っすら笑う。慣れているからこそ何も考えずにできると思っていたというのに、こうも負けが続くと純粋に面白くもないし、その度にかき消せない絶望感がじりつく。気晴らしというのは努力をしている人に与えられた正当な休みであり、時間を持て余しただけの大人がゲームにのめり込んでいても、結局ここ以外では役に立たないスキルと罪悪感が育つだけだ。

 佑人は乱暴な手つきでスイッチをオフにし立ち上がった。引いていたレースカーテンの端をそっと持ち上げ、空を見上げる。気付いたら辺りはすっかり暗くなっている。そもそも朝から薄暗い雲が空一体に広がっていて、光らしい光は見えていなかった。配色を間違えたようなグレーは汚く斑で、一喜一憂する焦燥感に似ている。時折地面を濡らした小雨は風に流され、傘の意味がなかった。何十年ぶりに着た喪服の表面にちりばめるように吸い付いた雨粒の輝きが、頭から離れない。人が良くて、後ろめたさなど全く持っていなかった成功者の父の人生には似つかわしくない最後だった。

「でも、あいつは、雨の日は好きなだけ部屋に籠れるから好きだって言ってたな」

父の元同僚で親友だった佐川は、葬儀後にそう笑った。佐川夫婦には子供がおらず、佑人は子供の時から可愛がってもらってきた。研究熱心で口数は多くなかった父と違い、愛想のいい彼はわかりやすく誉め、認めてくれた。父親が呆気なくいってしまい困惑していた佑人を、色々な面からサポートしてくれたのも佐川だった。彼が居なかったら、ここまでの葬儀が出来たかも怪しい。

 階段を降り、キッチンで水を一杯汲んで飲んだ。ただでさえ肌寒いというのに、冷たい水道水が喉や胃を冷やす。違和感を堪えながら、佑人はキッチン続きのリビングを見渡した。広いリビングだ。ここに一人でこれから住むのかと思うと寒気がした。肩が震え、腕が鳥肌立つ。何がなんでもここを早急に去らなければならない。一人だろうと二人だろうと、温かな記憶と遠ざけたい後悔の折り重なった場所だ。これ以上ここに必要な記憶などないだろう。

 部屋に戻って、かばんを漁る。食べかけののど飴を探し当て、一粒口に入れた。通夜と葬式の間意図せず声を出し続けていたせいか、僅かに喉の奥が掠れるように痛い。これをくれたのは職場の友人である池谷だった。彼とは務めている会社は違うのだが、グループ会社同士親元は同じだ。更に、彼は佑人の職場の駐在員であり、父昌弘の会社の社員という少し複雑な関係だ。そのため、一度か二度顔を合わせた程度のOBの葬式に駆り出された友人に対して佑人は申し訳なく思い、今度食事をおごると話に行った際、彼は少し顔を歪めてのど飴をくれた。

「なんでのど飴?」

 甘さで誤魔化したり、飴であることを肯定させるために薬の体をなしたような飴じゃない。本当にのどを痛めたときに頼るようなのど飴を渡された。一応食べかけだったので、一つは気まぐれに食べたのだろう。

「雨が降ってたから」

「知ってたけど、お前ってバカだよな」

 佑人は大真面目な友人に、大真面目に言った。

「でも、ごめん。そんな髪にさせるのは、正直嫌だった」

 佑人は池谷の黒々とした髪を見つめて言った。彼は研究職であるのをいいことに、普段社会人にはあるまじき明るい髪色をしている。そのくせきちんとスーツを着るものだから、その違和感は大いに人目を引いており、普段は近くを歩くなと半分本気で言っている。

「偶には黒髪もいいな。似合うべ?」

 飄々と言う彼の笑顔に、佑人は一日背負っていた苦痛から少しの間解放された気がした。軽い男だが、相手の気持ちをも軽くするのは間違いなく彼の美点だ。

「黒染め感がすごい。それ、一日で落ちる?」

「うん。昨晩風呂場でやった」

「だろうな。一部、金のままだぜ」

 池谷は一瞬目を見開き、やがてぐっと眉根にしわを寄せた。

「嘘だな。だとしたら、うちの上司が黙っちゃいない」

 尤もな推理に、佑人は少し笑った。池谷の言う通り、もしも彼の髪が少しでもこの場にふさわしくないとしたら、社長命令か会長命令でこの場を摘まみ出されただろう。首が切られたとしても、驚きはしない。それくらい、昌弘は会社にとって功労者だった。

 遠目に、祭壇に並んだ色とりどりの花を見る。そして、微かな記憶を頼りに母の葬式を思い出す。もう、十年以上も前の話だ。あの当時、佑人はまだ十歳だった。死の意味もきちんと理解しておらず、それでも周りに流される様に泣いた。段々実感する寂しさに、子供ながらの非力を感じもした。それが、今はどうだ。母の時とは比べ物にならない量の花と参列者を前に、父の死という現実に追いつかない感情はむしろ、あの時よりも性質が悪い。自分の代わりに神妙な顔をする喪服姿の人を前に、自分は薄暗い感情を隠せずに頭を下げ続けた。自分よりもこの人たちの方がずっと、父を思ってくれているのではないだろうか。なんせこの人たちにとって父は偉大な設計者であり、それでも佑人にとっては物足りない父親だった。

「野沢。あんまり思い詰めるなよ」

 池谷は口元だけで少し笑い、そう言った。

「別に。お前に心配されることはない」

 気丈なふりして反抗的な態度を取るのは、自分の悪い癖だ。

舌で飴玉を転がしながらベッドに倒れ込み、壁にかけた真っ黒いジャケット、ネクタイ、パンツを見つめる。もしも絶望に色があるのならば、きっと、こんな純粋な黒をしているのだろう。漆黒という字面の似合う、真っ直ぐな黒。間違っても、今日の空のような重たい鈍色をしちゃいない。

 何をする気力もなかった。学生時代から使っているベッドに沈めた身体が動かない。食事しなければとか、風呂に入ったほうが良いとか、常識的に備えた一般論が頭に浮かんだものの、意識がゆっくりと遠ざかるのを無理に抗わなかった。



 カーテンを閉めずに眠りについたせいで、明け方の光に目が覚めた。相変わらずの曇天でも、陽の落ちた暮れの空とは違って世界がどことなく広く見える。急激に目が覚めたわけではないせいか、妙にはっきりと覚醒した意識のまま時計を見て、ここ数日の規則的な生活がもたらした健全さに、佑人はひっそりと自虐的に笑った。仕事のある日でもぎりぎりまで眠っていることが多く、休日は余程の用事でもなければ時間の許す限り眠って過ごす。寝汚い性格に自覚はある。

 目が冴えたせいで目論んだ二度寝は諦め、シャワーを浴びる。まだ暑さにやられる季節ではないものの、寝起きの汗を少し熱めのお湯で流すと少し気分が変わった気がした。髪を乾かした後覗き込んだ鏡に映った自分の顔はコンタクトを入れていないためにぼやけてしか見えなかったが、寝起きのせいか浮腫んでいるように見えた。

 昨晩から何も食べていない胃が、流石にぐるっと空間を鳴らす。元々食に興味がない方で、二、三日なら食事を抜ける、と半ば本気で思っている。しかし明日からの生活のことも考え、佑人は買い物に行く準備をする。久々に脚を通したデニムが肌に張り付くと、身動きの取り辛さに驚く。それでも、ここ数日で何度も着た重い黒のスーツに比べれば、気分的には楽だった。

 外に出ると、路面が色を変えていたが、それがいつの雨なのかはわからなかった。差したビニール傘から覗く世界は少し歪んでいる。家から歩いて十分ほどのところにある駅前のスーパーは、行きつけになっている。安さも広さも品ぞろえも至って平凡且つ自然なところが逆に、男二人暮らしの生活を支えてくれていた。奇をてらう必要のない、しかし必要最低限のものが的確に揃うのは、なんだかんだ一番大事なことだ。

 前に進んでいた親子に続いてスーパーに入ると同時に、明るい蛍光灯が目に強く刺さる。当然ではあるものの、こういった場所の白々しい明るさは普段は何も感じないけれど、不意に嫌味なほどに明るいと感じ取ってしまう自分がいる。まるで自分の影をくっきりと照らす様だ、と思うのはもちろん、被害妄想だろう。

家を出てくる前に冷蔵庫の中を確認しなかったことを今更ながら後悔するものの、どっちみち佑人のレパートリーなどたかが知れていると開き直り、青果コーナーはほぼ素通りし、生鮮食品のコーナーで一人分の肉と魚をカゴに入れた。電子レンジで温めるだけのレトルト商品と、お湯を注げば食べられるインスタント食品をさっさとカゴに入れる。迷いなく埋まる籠の中を見つめながら、一人の気楽さと味気なさを感じることになる。先ほど追い越した親子を振り返ると、父親に抱っこされた息子に相槌を打ちながらじっくり野菜を吟味する母親が見える。両親ともに、おそらく佑人と同じくらいか少し上くらいの年齢だろう。休日の午後に家族で買い物なんて、佑人の記憶の中にはない。母親の買い物についてきた記憶くらいはあっても、父に抱かれて歩いた記憶など、記憶がないほどに昔のことだった。休日に子供を連れて出かける親達は、自分自身がそうされて生きてきたのだろうか、と考える。自身も家族連れ立って買い物に行って、あんな風に親の愛情を一身に受けて生きてきたのだろうか。

 乾物の必要性は感じなかったので素通りしようとしたとき、山積みになった麦茶のパックを見つけ、佑人は脚を止めた。暑いときは冷たい麦茶、寒くなれば温かな緑茶。母の習慣は野沢家の習慣だった。佑人がまだ小学生だった時に母を亡くしてからもその習慣は家庭内の慣例として残り、一人になった今年もこれからも、きっと自分はその習慣を守り続けるのだろう。広告にセンスの欠片もない昔ながらのパッケージをした麦茶を一つカゴに入れる。

 スーパーの道順は迷路よりもシンプルに、そして理想的な造りになっている。お菓子のコーナーを素通りしようとしたとき、ふと池谷からもらったのど飴を思い出した。借りを作るのも癪だと思い、お菓子コーナーに立ち寄る。子供のころに好きだった色鮮やかなパッケージが幅広くそろえられており、中でもサイダー系のお菓子がいくつも目に入ると、そう遠くない未来に夏の到来を感じる。その隣で、唐突に親子喧嘩が始まった。おそらく未就学児の女の子と母親の論争だった。

「どっちも欲しい」

「一個って約束をしたでしょう?」

「やだ、どっちも食べたいの」

「そんなこと言ってると、もう買わないよ」

 母親の言葉に呼応するように、少女の目に涙がたまった。小さな顔に大きな瞳。庇護されることを本能的に知っている顔だ。

「ママの意地悪」

 そんな会話を横目に、佑人は母親をそっと見た。疲れの見て取れる横顔に、やはり親というのは大変な仕事だと人ごとに思ってしまう。子供の聞き分けの悪さなど傍からは仕方がないことに思えても、相手にする母親のストレスは十分に見て取れる。おそらくこの論争を人前で行うこともストレスだろうと思うとなんだか呑気におかしを選ぶ気も削がれ、佑人は一番近くにあったチョコレート菓子を手にそっとその場を去った。

 


 梅雨入りはまだ先だというのに、ここしばらく、気まぐれな雨が一日中降りやまず、何をするにも億劫な日々が続いている。今日もそうだった。けたたましい目覚まし時計に起こされ、貧血気味の身体を引きずって顔を洗った。リビングで水を飲みながら、つい一週間ほど前の春の温かさから一転冬に戻ったような肌寒さに、開けかけた窓をそっと閉じる。今年の夏は気温が上がらないままと予想されており、冷夏の心配がされているようだ。山積みになった洗濯籠を眺め、佑人は、それでも自分には大した問題ではないと思う。せいぜい洗濯物の乾きが悪くなり、外に出るのが面倒になる程度だ。

 佑人は着替えをすまし、食事もとらずに家を出た。空は相変わらず重たい色をしていて、見上げたところで小さな雨粒が髪を濡らすだけだった。

 葬儀から三日が立った。想像以上に変化のない日々を過ごしている。はるか昔のことだが、母が亡くなったときの衝撃や動揺、悲しみに比べ、今の自分の気持ちの平坦さには自分自身でも呆れるほどだ。葬式以来晴れない空を見るとはなく遠くに眺めた。テレビではこのまま梅雨入りかと討論していた。

 交差点を越え、河原沿いを歩き、ふと家の方を振り返る。その昔に母と父と暮らし、ある日を境に母がいなくなってから男二人で過ごし、そして一人で過ごしているあの家には、たくさんのガラクタが放置されている。忘れ物はたくさんあるように思う。自分に足りないものは自分が一番知らない。誰かの手を借りなければ直せないもの、得られないものは存外多いのだと自覚したのは、社会というものを知ってからだった。自分が持ち合わせないものを嘆いたところでどうしようもないと知りながら、振り向いた先に転がり落ちている物ならば拾い上げることが出来るのに。そんなことばかり考えてしまう感傷を自覚し、佑人はうんざりした。



 家から電車とバスで一時間程度の港近くの養護老人ホームで仕事をしている。といっても、自分は介護をする人間ではなく、どの企業にでもある裏方作業をしているわけでもない。

タイムカードを通しロッカーに荷物をしまっているとき、背後から声をかけられた。

「おはようございます」

 ジャケットに袖を通し振り返ると、同僚である水原がこちらを見ていた。二歳年下の、正式に言えば直属の部下に当たる女性で、職場での数少ない話し相手だ。話し相手といっても当たり障りない会話で最低限度のコミュニケーションを図っているだけだが、それでも水原は年齢の近さもあり池谷を除けば話を理解し合える数少ない人間だった。良くも悪くも、彼女は感情論に流されることがなくあっさりとしており、水原の方から無駄な愛想が振りまかれることがないため、こちらも必要外に気を遣わなくて済む。性格通り、容姿も癖がなくスレンダーで、潔癖な美しさを放っている。電車のドア袖で立っているだけで目立つタイプの女性だ。

「あぁ、水原さん。お休みをいただいてありがとうございました」

 佑人が身体ごと振り返り頭を下げると、水原は微かにほほ笑んで首を振った。当然、佑人の長期休みの理由を知っている。作業用のジャケットをまだ来ていない彼女は、気取りのない薄手の黒ニットと細身の白いパンツという恐ろしくシンプルな出で立ちで、彼女のスタイルの良さを強調していた。胸元のシルバーアクセサリーが華奢だけれど蛍光灯に輝いていて、不意に目を奪われそうになる。

 水原はそういう人間だ。いるだけで存在感を放つ。とてもじゃないけれど、介護施設という職業に似つかわしくない華やかな存在感がある。しかし、なぜこんなところで働いているのかとは聞かせないクールさもまた、纏っている。

「無理はしないでくださいね」

 化粧気のない唇でそう言うと、彼女は自分のロッカーに戻った。わざとらしい愛情も打算的な気遣いもなく、水原の口調はさっぱりとして感情に刺さらない分、会話が重たくない。けれど、こうやって人への気遣いを見せるところもまた、水原らしいように思う。凛としていて人を寄せ付けない雰囲気をしているというのに、彼女を冷たいと感じたことはなかった。その姿に「不器用」と名付けると妙にしっくりとくる。

 始業の時間が迫り、食堂で点呼を取る。佑人はマネージャーのような役割で、実際に介護を担う者の監督役をしている。一通りの指示を出したところで、従業員たちはそれぞれの持ち場に移動する。僅か数日家に籠っていただけというのに、張り上げた声がいつもに増して貧弱だったことに、佑人は軽いショックを受ける。今年で二十八になった。同僚にはまだ若いと冷静な口調で言われるけれど、明らかに体力が下降している。これが仕事に打ち込んでいる人間や真っ当に家族を持つ男には縁のない事だろうとまで考えたところで、ゆっくりと肩を回した。自分の卑屈さは時に、自分でも鬱陶しく感じることがある。

 各階に散らばる制服姿の従業員を見つめる。その背中を真っ直ぐ見つめながら歩き回る水原は、いつものように一人一人に丁寧な声かけをしていた。

「この人たち全部がアンドロイドなんて、信じられない」

 初めて水原に会った日、一年ほど前の話だが、流石の彼女も困惑した表情でそうこぼしていた。それもそうだろう。彼女は元公務員だった。もっと言えば、元小学校講師だ。小学校の仕事にアンドロイドの関わる余地はなかった。数年前なら、介護業界だってアンドロイドの導入の始まりの時期だった。言葉で知っていたとしても、アンドロイドの数が人間の数を凌駕している光景はいつまで経っても違和感を与える。

 人口減少に歯止めはかからず、だというのに延命だけは続いた結果、この国は十数年ほど前に高度技術を取り入れたアンドロイドの導入を決行。始めこそ労働力への期待だったが、アンドロイドの精巧さ、賢しさ、人工知能を搭載したことにより人間を凌駕した存在になったアンドロイドはいつしか人権を得るまでになった。それまでただのロボットの一部に過ぎなかったアンドロイドの改良は目覚ましいものがあった。

 今では、一生を生きるアンドロイドまで発売されている。数年前、流石に国会も紛糾したあのひと夏も、今となっては過去の話だろう。とある企業が開発に成功し販売に踏み切った赤子のアンドロイドは、人間同様の成長をし、人間同様に死んでいく設計になっていた。年配の人ほどアレルギー反応を起こし、この国を乗っ取られると危惧する声も多かったが、人間よりもコントロールできる存在故の皮算用を、人手不足に頭を抱えていた社会は受け入れるしかなかった。あれから五年がたった今、この国の子供の一部はアンドロイドになった。人間と何ら変わらない成長を遂げるが、人間よりも遥かに常識と理性を兼ね備えたアンドロイドは、子供を欲しながら得られない夫婦に大うけした。人間の子供に対して消極的な大人にも、理性的かつ常軌を逸しないことが保証されたアンドロイドは大いに受け入れられた。政府も、販売元も予想しないほどに。

 佑人はぼんやりと、考える。

 自分はあのとき、どんな感情を持っていただろう。国民を二分にした人間論を聞きながら、自分が何を思ったかも思い出せない。自分のことで手一杯で、世間を気にする余裕などなかった。それに何を隠そう、佑人の父昌弘こそ、成長型のアンドロイドを設計した張本人だった。彼は純粋な設計マニアで倫理観など良くも悪くも二の次で、だから彼にとって成長アンドロイドが世間に受け入れられようが拒まれようがきっと、大した問題ではなかっただろう。自分の作ったアンドロイドを巡って一国が紛争状態だというのに、彼は心底どうでも良さそうに研究を続けていた。その背中を見ながら、佑人もまた、自分のことで手いっぱいだった。当時は新卒で入った企業で働くサラリーマンで、日々を生きるのに必死な時期だった。うん十年と先まで務めるつもりで忍耐をしていたあの日々に、結局五年持たず会社を辞めることになるとあのときの自分が知ったら、きっともっと早く仕事を辞めただろう。

「野沢さん。これ、汚れすぎてもう使えそうにないですか?」

 大型の段ボール越しにアンドロイド1928にそう話しかけられ、佑人は一番上に乗ったシーツを指先で摘まみ上げ、捨てるように指示する。自分のためになら使うレベルだったが、場所が場所なだけにリスクはすべて排除する。アンドロイドを使用する際の鉄則だった。現場で働くアンドロイドに搭載された人工知能はそこまで高度ではないため、面倒な指示を出すと碌でもないことをしでかす。過去、経験済みだ。

「わかりました」

 平坦な口調で頭を下げたアンドロイドの背を見送る。あの段ボールの中がすべてシーツにしても、あれほどの量となると数キロ近くあるはずだと中身の計量をしながら、佑人は自分の顔が引きつるのが分かる。ここで働くアンドロイドの一部は初期型なのでシリアルナンバーがあるだけで、先述の通り知能はあまり高くないが、腕力は相当だった。

 確かに、これほどの腕力を持つ彼らに桁違いの知能まであったら人間など簡単に支配下に置かれるだろう。世界は安易に逆転する。危惧は決して杞憂などではない。傍で働けば、何十人ものアンドロイドを見つめれば、この社会の在り方は決して正しくないとわかる。少なくとも、人間がカーストの最上階にいる世界が正しい世界を前提とするのならば、今すぐにでもアンドロイドの排斥を提案する。そう思いながらも、佑人には自然と恐怖心は湧かなかった。カーストの最上位に居座る者は、人間だろうとアンドロイドだろうと、同等に卑劣だろうと思えば、むしろアンドロイドの方が健全にすら思える。感性が常軌を逸しない限り、悪辣な仕打ちなど思いつきはしないはずだという、これもまた仮定の話だけれども。



 数日ぶりの仕事は特別変わり映えはしないというのに普段よりも数倍疲労が残った気がする。疲労は重ねて積もってやがて身体が壊れるものだ。いや、精神が先か。今となってはもうわからない。自分が壊れるとき、その過程は存在しないことを経験上知っている。気が付いたら崩壊した自分の精神を俯瞰しているのだから、人間とは恐ろしい。そして、白か黒かを選ぶとき、白を選ぶ勇気など既に無くしていて、黒だけが自分という欠落を寛容に受けれいてくれるように見える。

 大学を卒業後、佑人は一般企業に就職した。父のように一流企業とはいかなかったが、それなりに規模のあるベンチャー企業、のはずだった。父親譲りで機械に強かった佑人は理系大学を卒業後、設計の方で採用されたつもりでいた。しかし、入社してから数年間、設計には程遠い部署に配属され、雑務ばかりを請け負わされ最終的には営業にまで駆り出される始末だった。要するに、人手不足だった。若い人口の減少に歯止めがかからず、うたい文句とは程遠い業務であっても遣える人間には無差別に仕事が押しつけられていた。新しい技術を身に着けさせる余裕など企業側にもないほど経済が悪化し、馬車馬のように働かされていたのは、何も佑人だけではなかったのだろうと、今になれば理解する。それでも、佑人より二年遅く優秀な大学院卒の同年代はが研修後すぐに設計の部署に入り、そのまま研究者としての道を進んだのを知ったとき、全部諦めて辞表を出した。努力が報われるという考えのすべてを恨んだし、そういう社会の流れをも恨んだ。

 もう、何年も前の話だ。最初の頃こそ若さと生来の真面目さだけでなんとかやっていたが、二年を過ぎたあたりで身体も精神もおかしくなり、辞表を出すのは時間の問題だった。そのときは今の場所以外ならばどこでも働こうと思っていたけれど、いざ仕事を辞めた後の日々はとにかく気持ちが開放的になり、冷静になった頭に浮かんだのは、対象の漠然とした怨念だけだった。内省へ向かう気力など当然なく、自分はその程度の扱いしかされない人間だった現実を認めはしなかった。認めないだけで壊れ切ったプライドを守った気でいるのだから、余裕のない人間の視野の狭さは恐ろしい。それでも、生きている限り人間は腐敗することはなかった。二十代としての健全な身体と継ぎ接ぎだらけの心は均等が取れず、職場にいる時とはまるで逆な状況に戸惑い、夏に向かう梅雨を過ごした。梅雨の長い雨を眺めながら、それでも時期が来れば夏が来ることを知っているから、この雨も自分を受け入れてはくれない。いっそ、このまま雨がこの世界のすべてを溶かしてくれればいいのにと思った。溶解してしまえば、初めから世界を創造できる。それこそ、アンドロイドにでも全権を預けてしまえばいい。

 体力があるからという理由だけで朝から夜まで人をこき使い、挙句は文句三昧。嫌味、言いがかり、朝令暮改。また新たな場所に就職したところで同じことが繰り返されるだけだと思うと、とても職探しをする気になれなかった。気持ちが降り切れてしまった佑人は結局、父の勧めで今の仕事に就いた。勧めというより、言ってしまえばコネ入社というやつだ。介護業界はアンドロイド導入がどこよりも早かったため、昌弘はアンドロイドの評価を佑人にしてもらいたかったのだろう。佑人としても、近所で人と多くかかわらずに済むという理由で引き受けた。始めてみれば給料は大した額を貰えず仕事内容も単調で面白みに欠ける気もしたが、自分が壊されるよりましだった。正直なところで言えば、その時期のアンドロイド革命によって昌弘のところに思いがけない金が転がり込んでいたのもまた、事実だった。

 近くのコンビニで夕食になる弁当を購入して家に帰ると、家の留守電に伝言が残されていた。予想通り、佐川だった。今時自宅の電話に連絡をするのは、佐川くらいだ。

「佑人君。今週末、都合がつきそうだから、片づけを手伝いに行くね」

 再生されたのは短いメッセージだったが、声には暖かさがあった。今となっては、こんな風に自分を見てくれるのは本当に佐川だけになったと思うと、悲しさよりもばかばかしさを感じてしまう。一体何に価値を見出して生きているのかと不意に冷静になる消極性が、自分の軸になっている。

佐川は昔から自分を息子のようにかわいがってくれた。今回も自分を心配し、ちょくちょく電話を入れてくれている。片付けのことも、彼から切り出してくれて正直助かった。父は仕事柄か、持ち物が多かった。佑人には読む気にもならないプログラミングの本や設計図などは量こそは膨大であるものの処理にそう困りはしないだろう。ただ、この一軒家の隣に付属した工場、父が休日や深夜まで籠ってはそこで実験をくりかえしていたプレハブ小屋には何やら機材や工具などが所狭しと並んでおり、そこの片づけだけは頭が痛い。それなりの額の物も多く、勝手に捨てていいのか悩ましかった。

 佐川ならば工具のことなども詳しいので心配事が一つ減ったと、佑人はほっと胸をなでおろした。心配事というよりは面倒事だと、自覚しながら。


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