白い鯨を見ると幸福が訪れるらしいよ。
幸運なことにアリスはカナヅチではなかったので、溺れなかったよ。また幸いなことにアリスの通う学校では、災害対策の一環として着衣泳の授業もあったので、最悪の事態は免れることが出来たんだ。だから水の中に沈んだアリスだったけど、すぐに体勢を整えることが出来た。
「もう。いったい私がなにをしたっていうの?」
そんなアリスはまた泣きそうになりながらも、ばちゃばちゃ泳いでいたよ。影におびえていたアリスだったけど、その影も見えなくなったので少しずつ、いつものポジティブなアリスに戻っていったね。
相変わらず霧はでているけど、さっきまでより密度は薄くなっていた。さっきはほんの一メートルも見えないくらいだったけど、今はそうでもない。たぶん二十メートルくらいは見えると思う。でも、見える範囲で岸は見あたらない。仕方がないので、アリスは岸を求めて泳ぎ続けるのだったよ。
霧のせいでどこが岸か分からないまま、アリスは黙々と泳いでたけど、やっぱりそのうち疲れてね。いらいらも相まってか、「もう、ここはどこなのよ!」って叫んだよ。
そしたらその瞬間、アリスの額にごつん、と衝撃が走った。まるで、真夏の夜に田舎道を自転車をこいでいるときに、カナブンと正面衝突したくらいの痛さだった。コウモリはなんとか避けてくれるけど、虫はダメだね。無視も出来ないくらいの痛みがつらいね。
「あっ、いったいなあ。もう、ホントなんなのよ!」とアリスは痛む額に手を当てて、涙目でそう叫んだ。
「おう、なんだってんだ、やんのか。お? べらんめいちくしょうめ。お前こそ気を付けろや」
「あなたこそ、気を……えっ、魚?」
その横暴な返事にアリスが文句を言おうとしたけど、途中で止まっちゃった。どうやらアリスはようやく気づいたようだったね。やたらと喧嘩腰なその声の主が鮭だったことに。しかもおなかの辺りに何か水玉模様の布の様なもの巻いている。たぶんだけどあれは腹巻きをしているように見えるね。なんだろう腹巻き鮭とでも呼べばいいのかな。あと、べらんめいとかきょうび聞かないよね。
「えっ、鮭? えっ、えっ?」
あと、それが単なる腹巻きをした口の悪い鮭だったならアリスはそこまで驚かなかっただろうね。なにせ、もう喋るウサギのぬいぐるみにあっているのだから。でもアリスは驚いたんだ。それは何故かって?
ちょっとこの話を読み返してみると、アリスと鮭がぶつかったのは、アリスの額。でもアリスは別に水の中に潜ってたわけじゃない。じゃあ鮭が跳ねたから? いやそれも違うよ。ちゃんと鮭は泳いでたよ。
ただし水中じゃなくて、空を、だけど。
アリスにぶつかってきたのは、空を泳ぐ腹巻きをした鮭だった。そりゃ驚くわけだね。何かを言おうとしていたアリスだったけど、どう切り出そうか迷っていたよ。そしてしばしの間、両者はにらみ合うようにして、向かい合っていたわけだけど、そのうちアリスがこう呟いた。
「……食べたら美味しいかな」
驚きも一段落したアリスは、アリスの母が買ってきた鮭のことを思い出していてね。アリスは頭の中で考えてるだけのつもりだったけど、どうやら口に出してたようで。その言葉に鮭は動転したのか、いきなり水の中へ潜っていって、また空へ飛び出してこう言った。
「な、なんだよ、おいらを食うつもりか。この野蛮人」
「食べないわよ。生で食べたら寄生虫に当たっちゃうじゃない」
「やっぱ食うんじゃねぇか!」
アリスは鮭が狼狽するのを見て、さっきの仕返しとばかりに口撃をはじめたよ。あとどうでもいいことだけど、アリスはお刺身はあんまり好きじゃなくて、フライか、塩焼きまたはムニエルが好きだった。ほんとどうでもいいけどね。
ボーーーーーーーッ
しばらく鮭と食べる食べない問答してると、重低音が遠くの方で聞こえた。それは蒸気船が出す汽笛のような音だったよ。そしてそれはどんどんアリス達の方に近づいて来ているようで、その音は徐々に大きくなっていった。
アリスはでっかい何かが、近づいてくるのが分かった。ごごごと、重低音の振動が周囲に伝わる。身体の隅々まで揺らす音、汽笛にも似たような音、その発生源はでっかい船のような白い岩で、それは霧の中から現れた。それは白い岩のようにごつごつして、とにかく巨大な物体だった。
「……ニーノ先生」
鮭がぽつりと呟いた。アリスは目をこらしてその大きな岩のような物体を観察してみた。それはでっかい鯨だった。白くて大きな鯨だった。霧のせいで全体は見えないのだけれど、その大きさは数十メートルは超えるだろう。そしてその鯨も、空を泳いでいた。巨大な体はごつごつしていて、いくつも傷があるし、銛も突き刺さっていて痛ましかった。しかし、それを気にしている様子はなかった。
「エイハム。もう帰る時間だよ。みんな心配しているよ。さあ帰ろう」
鯨が歌うように、言葉を発した。鯨が口を開く度に、白い煙が鯨の頭から吹き上げる。そして大量の霧が生み出される。それと同時に汽笛のような音がなり響く。
「先生、おいらは……」
「なにも心配ないよ。エイハム。なにも。すべては忘却の彼方へ。君は何も心配なんていらないよ」
しわがれた老人のような声で体に響く声で、鯨が呟く。鮭はさっきまで威勢の良かった見る影もなく、おびえているようだった。どうしちゃったのかしらと、アリスは思ったけど、そのクジラの巨大さに圧倒され何も出来ずにただ見守るだけであった。
その時大きな鯨の目がぎょっと、動いてアリスを見つめた。その瞳だけでもアリスが一人入るくらいの大きさ。その優しくて大きな瞳がアリスをとらえる。
「ふむ、珍しい生き物がいるね。君は迷い人かな」
大きな白い鯨が、アリスを見ながら呟いた。その声はどこか哀れみを持ったような静かな声。何でも知ってそうな、年齢を感じさせる声はとても重い。そして声と同時に白い霧があたりに巻き散る。
「あ、あなた、何か知っているの? 私はアリスっていうの」
「そう、わたしはニーノだよ。小さなアリスちゃん。わたしは何も知らないよ。全部あなたが知っているんだよ。アリス。なにも。わたしは知らないよ。わたしはね」
大きな白い鯨は、そうアリスに意味深な言葉を響かせて。それから鮭に視線を移して。
「さあ、帰ろうエイハム。もう誰も怒ってないよ。そう誰も、ね」と言うと大きく口を開き、白くて重たい霧を吐き出した。霧は鮭を包み込むとすぐに消えていった。
「はい、先生」
鮭を包んだ霧が消えると、さっきまで鮭の様子とは全然変わってた。どうも素直になった鮭は鯨の言うことを聞いて鮭はクジラの元へ泳いでいく。
「そうだアリス。この老いぼれから一つだけアドバイスをあげよう。もし、元の世界に帰りたかったら、あまりこっちのモノを食べないこと。いいね。あまりこの世界になじまない方がいいよ。君は……まだ大丈夫だよ」
と、渋くて身体を震わせる声でアリスに投げかけた。鯨はそう言い終わると空を泳いでいく。よく事情が飲み込めないアリスだったけど、離れていく鯨を見て、
「どういうこと。まって、せめて分かるようにいってよ。女神さまもあなたも何なのよ。もっとわかりやすくいってよ。そんなこと言われてもわかんないじゃない!」
「小さな、アリス。君の幸運を祈っているよ。さようなら。もう会うこともないと思うけど、元気で」
鯨はアリスの言葉に答えることなく空に消えていった。しばらく彼らが消えた空を見ていたアリスだったけど、鯨と鮭が消えたからなのか霧も晴れてきたようだった。
池からあがるにも潮時で、視界がよくなり池の全体が徐々に明らかになっていった。アリスがいる場所はちょうど池の真ん中あたりでだった。今までアリスは気が付かなかったが、池には大勢の人がいたよ。ただ、その人たちはみんな毛深くて、顔がどうも何かの動物ぽい。鳥や、獣いろんな種類の動物のような人だった。そして、みんなは岸に向かって泳ぎ始めた。