卵から産まれたもの
魔は、生まれた瞬間から魔である、と誰が言ったか。生まれたばかりだというのに、すでに体は幼児並で、人語を操るところをみると、一定以上の知能があるようだ。
ゆらりと立ち上がった魔は、男の腰に届くかという背丈、ざんばらな髪に見え隠れする先の尖った耳、そして何より雌雄の定まらぬつるりとした裸身で、明らかに人と異なる姿形をしている。
「あなた、だあれ」
その瞬間、圧倒的な見えない力が男を捕らえた。これまで鍛えてきた体がまったく意味をなさず、息が詰まり小指一つ動かすことすらできないほど、締めあげられる。
燃えるような瞳が、まっすぐに男を見つめた。
「おかーさんは? ここどこ? ……あれぇ?」
幼魔は何かに気付いたのか、急にあたりをキョロキョロと見回し、首を傾げる。そして再び男に視線を合わせると、「ねえ、おじちゃん」と問いかけた。
途端、体を捕らえていた力がふっと抜け、見えない拘束から解放される。男はようやく呼吸をすることができ、は、は、と浅く息を整えながら幼魔の問いを待つ。
「おじちゃん、おかーさんは?」
おじちゃん……と言われた男は表情を変えることなく、幼魔に向かって首を振る。それだけで、なにか幼魔は悟ったようだ。そして、よろよろと歩き出し、自身の周りにある麻袋を一つずつ確かめ始めた。その様子を、男はじっと見守る。
男は、幼魔を恐れていた。
噂や昔語りは知っているものの、直に目にした者はおらず、もちろん自身も初の遭遇である。対処方法など全くの無知であり、一瞬にして拘束されたあの恐ろしい力を身を持って味わい、迂闊に行動できないでいた。
暫くすると、麻袋はすべて解かれ、中にあった卵が袋の口から見え隠れしている。この屋敷の者が集めたのであろうそれらは、別の買い手を求めたものか、自身の為に使われるのかは定かでない。
異常とも思える魔の卵の収集に、男は大きな闇組織の存在を感じていた。頭領へ報告の必要があると、男は考えを巡らせる。
「……っ、……ひっ」
静寂を破ったのは、やはり幼魔だった。ふっくらとした頬に幾筋もの涙が伝い、床にぽたぽたと零れ落ちていく。魔も泣くのか……と、妙な感心をした男だったが、次の瞬間地の底から震えあがる程の冷気が襲い、男は全身がピリピリと緊張に包まれた。
「ゆる……さない……みんな、みんな、みんなみんなみんな、よくも……!!」
幼魔が天に向かって吠えた途端、ズ、ズ、と床が沈み、次の瞬間耳の奥につんざくような破裂音が襲う。
するとどうだろう。まるで歪められた様に、床が、壁が、この部屋の中心に向かって螺旋を描いていく。中心は、ぽっかりと真っ黒な深淵があり、それを見た瞬間、男は身の毛のよだつ恐怖を感じた。
あれに取り込まれたらお終いだ。
本能で察した男は、この場から急いで離脱しようと扉に足を向ける。しかし、男の視界の端で、幼魔の体が傾ぎ、崩れるように床へ倒れるのを捉えた。
その瞬間、男は無意識に幼魔へ手を伸ばす。幼魔入っていた麻袋に押し込み、袋の口をきつく縛り、背に担ぐと扉を蹴破るように飛び出した。
先程の大きな音の衝撃に驚いた警備兵や、おそらくこの屋敷の家人が建物から飛び出して右往左往しているのを横目に、身を屈める。普段だと人目の付きにくい場所を逃走経路に選ぶが、今は一刻一秒を争う事態に、そうも言っていられない。迷わず直線距離を選んだ。
スッと左右に視線を巡らせ、中庭から門の距離を測り、全力で駆け出す。厚く鍛えられた体は筋肉に覆われてはいるが、その実とてもしなやかで、体の重みを感じさせないほど素早く動く。
男は本能的な生命の危機を感じていて、背中がチリチリと焼け付くようだ。焦燥感に追い立てられ、普段の隠密行動から考えられないほど大胆に走る。
「おい! 侵入者だ!」
「捕らえろ!」
この場の異常な空気に戸惑いながらも、己の職務に忠実な者が、突然現れた男の行く手に続々と集まりだした。無表情な男の眉が、ほんの僅かに寄せられる。しかしそれも一瞬で、男はバラバラに集まってくる警備兵の隙を一瞬で見抜き、恐ろしい速度でその死角を駆け抜けた。
二人、三人、と足付きで躱すその先には、剣を持った警備兵が男に向かって胴を薙ぎ払うように一歩踏み込んでくる。それを刀と同じ方向へ飛び退って逃れ、素早く地面を踏み込むと、身を低くし剣を持つ兵の膝裏に足払いを見舞った。
しかし男は、その兵が倒れるのを確認することなく先を急ぐ。反撃を警戒などしている場合ではなく、この瞬間だけ足止めできればよいからだ。
極限の緊張に晒されながらも、男は冷静に判断していく。
いよいよ門扉に辿り着いた時、屋敷から大勢の兵が表に出てきた。騒ぎを聞きつけて他に配備されていた者も集まってきたと構えたが、どうやら様子がおかしい。
魔を捕らえていたあの部屋の異変にようやく気が付いたようで、怒号や悲鳴が飛び交う。男を追う警備兵たちがそちらに気を取られた隙をつき、門扉に掛かる閂を外し、するりと体を抜け出し――
ドンッ!
次の瞬間、男が背にした屋敷の気配が――なくなった。
突然の喪失感に、男は恐る恐る振り返ると、そこには深淵が広がっていた。屋敷があった場所は、男の踵ギリギリの所まで、まるで切り取られたかのようにこの地の底に消えるとは……。魔の怒りがこの事態を引き起こしたことは明白で、男は熱くなった体が一瞬で冷えるほど、言い知れぬ恐怖を感じた。
* * *
「……ん」
もぞもぞと麻袋が動きだした。そこから、ぴょこんと灰被りのような髪色をしたざんばら頭が起き上る。
卵から産まれたばかりの――屋敷にいた、幼魔だ。
人間と似て非なるもの。
一見すると同じ体を持っているように見えるが、磁器のようにつるりとした体には生殖器がなく、性が判別できない。尖った耳、足は鋭い爪が生えていて、人間とほぼ同じだけに異質さがより目立つ。
顔を上げた幼魔は、辺りをキョロキョロと首を動かし、やがてがっくりと肩を落とした。おそらく母親か仲間の幼魔を探したのだろう。しかし先程のように激しい慟哭はなく、ただ確認をしただけに見える。
小さく丸まるその背をみると、とても恐ろしい力を見せた魔とは信じられぬほど、これではまるで脆弱な幼子だ。
男は背後に座りじっくりとその様子を観察していたが、幼魔の耳がぴくぴくと動き、勢いよく振り返ると、百戦錬磨の盗賊稼業とはいえ、男もさすがに身を構えてしまう。
「おじ、さん?」
どういう訳か、あの屋敷で感じた背筋の凍る気配は皆無で、むしろ……
「おじさんっっ!」
幼魔は男に突進し、思い切り飛びついた。思わず抱き留めたものの、魔の者をやすやすと懐に入れるのは無防備もいいところだ。しかしあの暗い深淵を見た後では、己がどんな対抗手段を講じても無駄に過ぎない。このまま喰われて終わるのか――いや、それも悪くないだろう。
自分の人生を振り返り、たいして生に執着していない自分に自嘲を浮かべた。
幼魔を連れ出したのは、己の責任。
あの屋敷で起こった嘆きにより、この幼魔の力が振るわれんとした時――
倒れた幼魔を、とっさに麻袋に入れ、背中に担いで逃げた。なぜそのような行動をとったのか分からないまま無我夢中で脱出し、屋敷が消失した後も足を止めることなく町の外れの木立まで辿り着いた。
そこでようやく背に担いだ麻袋を下ろし、口紐を解いて中の幼魔が無事か確かめる。あのような叫びがあったのにもかかわらず、すうすうと気持ちよさげに寝ているのを見て、少々毒気が抜けた。この寝顔は魔の者と思えぬほどあどけなく、それを眺めていたら、何故か男は心が凪いでいくのを感じていた。