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ローファンタジー短編

古桜花影

作者: 森陰 五十鈴

 月影に桜が映える。幹は太いが、高さがない。本数の少ない枝は太く、重みを自らで支えることができずに地へと垂れ下がっている。

 嵐か落雷か、一度折れたのだろう。それでも生命を失うことなく、天へと手を伸ばし続けたそれ故のこの姿。花をつけた古い木は華やかさには欠けるが、見るものを惹き付ける力があった。


「今年も綺麗に咲いたわね」


 薄紅の着物。藍の袴。黒の長靴。髪を高く結い上げ、同じく藍色の布で蝶結びに纏めた若い娘。彼女が声をかけたのは、古い桜の木の影に佇む女だった。女の格好は時代錯誤。重そうな打掛を幾重にも重ねた何百年か昔の姫君の装い。


「ようやく来よったか、小娘。あまりに遅いので、暦を忘れたのかと思うたぞ」


 喋りもまた時代錯誤であった。


「会って早々そんなことを言うなんて、貴女も相変わらずね」


 憎まれ口を叩く“姫”に、娘は口元を綻ばせた。


「久しぶりね、『桜』」


 “姫”は口元を扇で隠し、眉を顰めた。


「そなたも相変わらず無粋よの。余を『桜』とそのままに呼ぶか」


 きりり、と睨みつける『桜』に、娘は困ったように笑う。


「だって、名前を知らないのだもの。勝手に名前をつけるわけにはいかないし。だから、他に呼びようがないわ」

「さよか」


 それでもやはり気に入らないのか、『桜』の返事は素っ気ない。不機嫌にそっぽを向く『桜』の脇をすり抜けて、娘は垂れさがる桜の枝の一房を手に取った。そのまま手折ることはせずに手で優しく弄び、小さな薄紅の花を愛でる。


「花が咲いてより七の日が廻ったぞ。あまりに来ぬものだから、退屈だったわ。下界はよほど騒がしいと見える」

「まあ、それなりにね。近頃は鳴りを潜めたのかと思ったのだけれど、相変わらず大忙しだわ。だから来るのが遅くなってしまった」

「魍魎どもは、静寂を尊べぬのかの。それとも、喧しいのは人間どものほうか」


 くくく、と含むように笑う。人の姿をとる『桜』は、何処か人為らざるものに見えた。


「さて、それは私の知るところではないわ」


 娘は細い枝から手を離す。枝は勢いよく跳ね上がり、身を震わせた。花はしっかりと枝にしがみついたままである。


「そなたはただ、せがまれるがままに斬り祓うのみ……か」


 さぁ……っと冷たい風が吹く。枝が揺れただけでは散らなかった花も、風に誘われればその身を散らしていく。


「そうね」


 ちゃき、と鍔が鳴る。娘が腰の刀に触れたのだ。抜くでもなく、左手を柄に置く。

 抜く気はない。斬る相手もいない。目の前に立つのは敵でなく、標的でもなく、ただ花の盛る夜に語らう相手である。傍にそれを邪魔する者もない。娘が刀に触れたのは、単に意識を向けたから。

 先程無粋であると『桜』は言った。『桜』を“桜”と呼んだことに対する言ではあるが、なるほど、語らいの場に武具を持ち込むのは、確かに無粋だ。

 どうやら、自分はかなり失礼な質らしい。


「沙耶」


 珍しく縋るような『桜』の声に、娘――沙耶は顔を上げた。


「斬り祓う以外のことも、できるかの?」




「私に、頼みが?」

「そうじゃ」


 正直に言って、沙耶は驚いていた。『桜』は誇り高く、人に頼み事をする質ではない。それほどに切羽つまった用事か。


「聴きましょう」


 そうであっても、そうでなくても、聴かない理由がない。沙耶がまだ幼い頃からの付き合いだ。願いは叶えてやりたいと思うほどには、情がある。


「余は、そろそろこの世を去る。おそらく、もう幾許の時もないだろう。この桜も、すぐに枯れることはないが、いずれ花を付けず、朽ち果てることになろう」

「いずれ」


 死してすぐ、ではないのか。


「余らはそなたら人間とは違う。“死ぬこと”と“朽ちること”は、結びつきはあるが、同一ではない。死んだから朽ちるわけではない。同様に、朽ちたから死ぬわけでもない」


 人は死んだらすぐに肉体が腐り始める。生命が失われると、器を維持する機能を失う。

 ならば、桜はどうだろう。命無くして、身体をどう維持していくのだろうか。地中から水を吸い上げる力、日の光から栄養を作る力、これらはすべて生命の力によるものではないのか。それが死しても、暫くは続くというのか。


「……ま、人間には分かるまいて」


 違いない。『桜』は桜でしか、沙耶は人間でしかない。学術が発展し、生命の仕組みを理解しようとも、そのものの生はそのものにしかわからない。

 ――異人の学者は、生命をなんと定義していただろう。

 科学がなんと定義しようと、命の在り方は変わらない。人であっても、人でなくとも。


「それで、頼みって?」


 不思議はあるが、古い付き合いの最初で最後の頼み事。それを蔑ろにするはずがない。


「余に、名前を付けてくれぬか」


 沙耶は驚きに目を見張った。


「名前、無かったの」

「然様。だから名乗ることもできなかった」

「どうしてそういうことを早く言わないのかしら」


 呆れ果て、目を細める。『桜』は嫌だと言ってのこれだ。


「今までは気にならなかったからの。人間どもが好き勝手に呼びよるから、苦労もせんかった」

「それが、急に欲しくなった」

「さすがに『桜』ではの。個体の識別ができぬではないか」


 不服そうに口を尖らせる『桜』。沙耶は笑う。


「考えてみるわ。代わりに、私からも一つ」

「なんぞや」


 沙耶は兼ねてからの望みを口にする。


「枝を一枝、貰えるかしら」


 『桜』にとっては、存外つまらない望みであったらしい。


「……好きにせい」


 返事するその姿が、一瞬ぼやけて見えた。

 時は、近いらしい。


「礼を言うわ」

「さて、そろそろこうして姿を現す力もなくなるようだ。月でも見上げ、眠りながら逝くとしよう。

 沙耶、名付けの件、頼んだぞ」

「ええ。……どうか、良い幕引きを」


 すぅ……と大気に溶け込むようにその姿が消えた。




「この木は、日の光の下よりも、月に照らされてこそ美しい」


 二千の時を生きた木だ。力強さはとうに失っている。枝の数は少なく、薄紅の天蓋を作ることはできない、華やかさはなく寂しさを感じさせる木。

 その美しさを引き立てるのは、暖かな日の光ではなく、冴え冴えとした月の光。


 彼の“女人”もまた、月の下にいるのが美しかった。


 愛でていた枝をそっと手折り、懐に抱く。可愛らしい花の付いた枝には、出でたばかりの葉が見える。


 彼の女人を失っても、木はまだ生きていくのだろう。そして、やがて朽ちるのだろう。


「ここから天を見上げたときは最高ね。月に桜がよく映える」


 まるで影のように立っていた『桜』の姿をを思いだす。

 まだ、月を見上げているのだろうか。


「だから、貴女はここに立っていたのね、『花影』」

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