尼寺に鳴る鈴
尼僧が山道を登っていた。
この道を行った先にある寺に、今日から住職として暮らすことになっている。先代が亡くなって以来、寺はしばらく「空き家」だった。里の者たちは、ようやく次の庵主さんが来てくださると喜んだという。
小鳥が囀り、風が草木を揺らす静かな山の道。ひどく息が切れる。法衣が少しきつく、慣れない草履で歩きにくかった。
時折吹き抜ける風が、青々と剃り上げた頭皮を撫でていった。剃刀を当てたときの傷に汗が沁みて、少し顔をしかめた。
「痛……」
尼僧は土のついた手で杖を固く握り直し、掛け声で自分を鼓舞した。
「もうすぐ、もうすぐ……」
尼僧の歩みに合わせ、杖に付けた獣避けの鈴が鳴る。
ちりん……ちりん……
澄んだ音が木々の梢に響いた。
ようやく寺に到着すると、まだ荷ほどきに取り掛からぬ内から尼僧を訪ねてくる者がいた。里の者だろうか。初老の男の声が玄関から呼びかけてきた。
「ごめんください。庵主さんはおられますか」
尼僧は慌てて返事をした。
「はい、おります。少々お待ちください」
汚れた法衣を急いで脱ぎ捨て、新しいものを着た。頭巾も被った。客人に剃刀傷の頭を見せるわけにいかない。恐々玄関に出てみると、野良着に背負い籠の男が一人立っていた。
「庵主さんですか。お初にお目にかかります」
寺から一番近い家の百姓だという。男は我が子でも見るように相好を崩した。
「どんな方かと思ってましたら、いやあ、まさかこんなに若い庵主さんだとは」
親し気な百姓に尼僧も顔が綻ぶが、緊張もする。うまく笑えていない気がして落ち着かなかった。
「若輩者ですゆえ、よろしくご指導ください」
尼僧の控えめな返答に百姓は「そんなそんな」と手を横に振り、背負っていた籠を土間に置いた。
「これ、庵主さんに持ってきました。うちで採れたもんですが、どうぞ召し上がってください」
差し出されたのはたくさんの野菜だった。
「まあ」
思わず声が出た。瑞々しく色鮮やかな大地の恵み。ごくりと喉が鳴った。なんとありがたいことだろう。無意識に両手を合わせてしまった。重い籠を背負ってわざわざ届けてくれたのだ。本来なら上がってもらい、ゆっくり話でもするのが筋だろうけれど、尼僧は今、とても疲れていた。
「まことにすまないのですけれど……」
謝る尼僧に百姓は快く頷いた。
「とんでもないですよ、庵主さん。そりゃ慣れない所でお疲れでしょう。しばらくゆっくり休んでください。皆にもそう言っときますから。野菜が無くなる頃にまた来ます」
百姓は親切にそう言い残し、山道を下って帰っていった。
尼僧は、事実疲れていた。
しかし、休んでいる暇はなかった。
まずは野菜を水に浸けたり、涼しい場所に置いたりした。部屋の掃除が必要かと思ったが、埃は溜まっていなかった。時折里人が交代で訪れて風を通し、掃除もしてくれていたらしい。この寺が人々の手で大事に守られてきたことがうかがえた。
それから荷ほどきを終わらせ、洗濯と行水を済ませると、尼僧は息つく暇もなく、寺にある書物を集めて回った。
文机、押入れ、天袋。
仏の教えを説いた本。
薄いものも分厚いものも手あたり次第。
「経本は……?」
肝腎の経本がなかった。
「そうか、本堂だ」
尼僧は本堂に向かった。廊下の先。厚い引き戸の前でひと呼吸置いて、そっと開けた。
中は薄暗く、奥に本尊である観音像の姿があった。尼僧はまたごくりと唾を呑み込み、足を踏み入れた。
「あった……」
経本を手に取り、尼僧は部屋に引き返した。
尼僧はそれから、一意専心で机に向かった。日が暮れたことにしばらく気づかなかったほどだった。文字が見えづらくなって、ようやく部屋の明かりを点けた。
途中、空腹に耐えかねて夕飯をとった。ただ焼いて塩を振っただけなのに、百姓がくれた野菜や山菜はどれも涙が出るほどの味だった。
「美味しい……こんな美味しいもの生まれてはじめてだ」
声にせずにはいられなかった。食べ終わると、すぐに勉強を再開した。
尼僧は必死だった。経も仏の教えも、片っ端から頭に叩き込む。一刻も早く覚えなければならない。ぼろが出ればおしまいなのだ。
「やらなきゃ。やるしかないんだ」
経典の文字を一行一行指でなぞり、目を血走らせる尼僧の耳に、山道を歩く足音が聞こえる気がした。
尼僧が、山道を登っていた――
その道を行った先にある寺に、今日から住職として暮らすことになっている。先代が亡くなって以来、寺はしばらく「空き家」だった。里の者たちは、ようやく次の庵主さんが来てくださると喜んだという。
小鳥が囀り、風が草木を揺らす静かな山の道。
尼僧は微笑みを浮かべて立ち止まり、高い梢を仰いだ。
「綺麗ね……心が洗われる」
束の間小鳥の声に耳を傾け、尼僧は再び歩き始めた。
ちりん……ちりん……
尼僧の歩みに合わせ、杖に付けた鈴が鳴る。
ちりん……ちりん……
澄んだ音が木々の梢に響いた。
すると、尼僧の前方に若い女がしゃがみ込んでいるのが見えた。
まだ十代だろう。少女と呼んでもいいくらいだ。女は垢じみた薄っぺらい作業着を身に着け、髪にも肌にも艶がなく、目には絶望が色濃く滲んでいた。
尼僧は足を止めて尋ねた。
「いかがなさいましたか?」
女は黙って尼僧を見上げた。尼僧が根気よく返事を待っていると、ようやく口を開いた。
「逃げてきた……工場から」
「工場?」
「勤めてる工場……」
やれ「金の卵」だなんだと甘い言葉にのせられて、集団就職列車で田舎から出てきた。春の朝、見送りの人が溢れる駅のホームで、自分だけが一人だった。労働環境は劣悪を極め、暴力も振るわれた。逆らうと反省部屋に閉じ込められ、もっと酷い罰を受けた。給料など雀の涙。与えられた寮はじめじめと薄暗く、狭くて不潔だった。
それでも耐えた。不当な扱いに怒鳴り込んでくれるはずの親は既に亡くなり、帰る家も無い。けれど、とうとう我慢できなくなって何も持たずに逃げてきた――女はそう打ち明けた。
話を聞いた尼僧は辛そうに眉をひそめた。
「そうだったの……」
尼僧は女に歩み寄ると、しゃがんで目線を合わせた。
「どうかしら……うちの寺に来ては」
女は尼僧をじっと見た。尼僧は慈愛に満ちた笑みを返した。
「じつはね、私も今日がはじめてなの。新しい住職として今日着任するのよ」尼僧は笑って続けた。「どんな所かわからないけれど、いい所だと聞いているし、里の人たちもみんな親切なんですって。住むのは私一人だから気兼ねはいらないわ。落ち着くまで、しばらくのあいだ家事手伝いとして……どうかしら?」
尼僧の笑顔を見つめ、女は思った。
――しばらくのあいだ?
ずっといられるわけではない。当然だ。こんな厄介者、自分なら一日でも嫌だ。では、寺を出たあとはどうすればいいのだろう。自ら逃げ出しておいて言えた立場ではないが、追い出されても行く所がない。いや、もしかしたら尼僧は今日にでも工場に言うつもりかもしれない。そうなれば地獄へ逆戻りだ。
どちらにせよ、待ち受けるのは過酷な毎日。なんの取柄も身寄りもない女が一人で真っ当に生きる術なんてない。目の前の尼僧を見た。とても優しい顔で微笑んでいた。こんな風に笑える日は、自分にはきっと一生来ない。
女はふらりと立ち上がった。尼僧も微笑みながら一緒に立ち上がった。こうして向かい合ってみると、尼僧より自分の方が大きかった。
女は思ってしまった。
それならいっそ、ここで入れ替わればいいのではないか、と。
尼僧は自分の杖を女に持たせた。
「とにかく寺まで行きましょう。歩ける?」
女は答えず、杖を横に構えた。鈴が、ちりん……と鳴った。戸惑う尼僧ににじり寄り、華奢なその首を杖で大樹の幹に押しつけた。
自分が工場でされてきたように、そのまま強い力で捩じ上げる。衝撃で鈴がちりちりと震えて鳴った。尼僧は暴れたが、みぞおちを膝蹴りすると治まった。
苦痛に歪む尼僧の顔を見ながら、女は自分が受けてきた暴力を思い返していた。謝っても許されず、泣けば余計に相手を煽った。今更ながら悔しさに歯噛みをし、呻くように怒りを吐き出した。
「チクショウ……」
理不尽な暴力に耐え抜いてきた体が、今度は他者の命を奪い去ろうとしていた。終わるまであまり時間はかからなかった。尼僧の喉からおかしな音がして、小柄な体はだらりと力を失くした。杖を外したとき、尼僧の命の終わりを告げるように、ちりん……と鈴が鳴った。
女は、尼僧を手にかけた。
尼僧を見下ろして抱く感情の半分は「やってしまった」という恐怖心、けれどもう半分は、「なるようになれ」という投げやりな気持ちだった。
成りすますため、尼僧の身ぐるみを剥いだ。脱力して扱いづらい体をなんとか転がし、法衣を取り去る。着物の前をはだけさせ、ズロースも脱がして自分が履こうとした瞬間、手が止まった。尼僧は失禁していた。少し考え、ズロースは履かずに持ち帰って洗うことにした。法衣も濡れていたが、我慢できないほどではなかったので身に着けた。荷物の中に替えの法衣はあったが、後のために残しておいた。
次は尼僧に自分の服を着せた。自分が履いていた汚れものを尼僧に履かせた。ゴムが伸びていたので簡単に履かせることができた。続けて黄ばんだシミーズと作業着も着せる。もしも後日死体が見つかっても、この服装から、死んだのは「わたし」だと思ってもらえるだろう。
だから、あえて埋めることはしなかった。埋めればひと目で殺されたとわかってしまう。あくまでも事故か行き倒れだと思ってもらえるように、作業着の尼僧を暗い崖下の藪に突き落とした。
頭の中に嵐が吹き荒れ、混乱していた。
「どうせ崖の下まで覗く人なんかいない」
自分のしていることに慄いている別の自分がいたが、もう引き返せなかった。
「そうだ……髪、剃らないと」
尼僧の荷物を探ると、思った通り剃刀が出てきた。
「どうせぼさぼさの散切り頭なんだ。剃ろうがどうしようが構うもんか」
慣れない法衣を身に纏った女は、剃刀を握ると、ためらいなく髪を剃った。何度か頭皮を傷つけ、そのたびに小さく「痛っ」と声が出た。けれど、工場で振るわれた暴力に比べればどうってことなかった。
「あ……しまった」
剃った髪が辺りに落ちていた。拾い集め、あとで捨てようと手拭いに包んだ。落ち葉や土で手が汚れた。
そうして女は、尼僧として残りの山道を登った。
「もうすぐ。もうすぐ……」
尼僧の歩みに合わせ、杖に付けた鈴が鳴る。
ちりん……ちりん……
澄んだ音が木々の梢に響いた。
女は毎日、経典を読み続けた。工場の過酷な労働で染みついた、「これをこなさなければ罰を受ける」という恐怖が、皮肉にも驚異的な集中力をもたらしていた。
加えて女は、小学校の頃から勉強が好きだった。国語も算数も他の同級生より良くできた。けれど、親のある子や裕福な家の子が高校に進学するのを横目に、自分はそういう類の人間ではないことも弁えていた。
だから、今こうして仏教の勉強をするのもさほど苦ではなかった。むしろ未知の物事に触れるのが新鮮で楽しく、学ぶ喜びに浸るとともに、そんな考え方があったのかと、目の覚めるような気持ちの連続だった。
そのときだった。
――ちりん……
女は身を固くした。かすかに鈴の音が聞こえた気がした。あれは杖に付けた鈴の音。杖は玄関に立ててある。ではなぜ――女はしばらく耳を澄ませた。
――ちりん……
はっと気づいて顔を上げた。書斎の障子を開け放つと、軒下に風鈴が吊られていた。風が短冊を揺らし、風鈴が、ちりん……と鳴った。
「なんだ……」
ほっとして、両手で自分の頬をぺしっと挟んだ。
「しっかりしなきゃ。怖がってる暇なんかないんだ」
女は風鈴を外して文机の端に置き、再び学びに集中した。
たゆまぬ努力の結果、経もすらすらと唱えられるようになった。発声や鳴り物などの法具は、過去に見聞きして記憶している僧侶のそれを真似てみた。背後に座る里人たちは静かに聴いている。偽物だと疑う者はいなかった。それどころか、「若いだけあって張りのある、澄んだ、いいお声だ」と口々に褒めてくれた。
「庵主さんのお経は心が洗われるようですよ」
壇に安置された観音像が穏やかにこちらを見下ろしている。皆から慕われるうち、偽の尼僧は次第に本物の尼僧らしく成長していった。また、年若い庵主を皆が気遣い、何くれとなく世話を焼いた。
「庵主さん、うちで作った味噌、こないだ美味しいって仰ってたでしょ。まだ有るから持ってきましたよ」
恐縮する「庵主」に、里の女たちは「なあに、庵主さんはわたしらの娘みたいなもんですから」と笑った。
「庵主さんも今度一緒に作りましょう」
寺の台所におかみさん連中が集まり、わいわいと味噌を仕込むのはとても楽しかった。他にいくつか地元の料理も教わった。手際が良いと皆から褒められ、女は嬉しかった。
「庵主さんは器用な人だ。なんでもすぐ出来るようになる」
「皆さんの教え方が良いからですよ」
女同士で笑っていると、「賑やかだなあ」と夫たちも入ってきた。
「薪割り終わったよ」
おかみさんが「ご苦労さん」と返し、女は丁寧に礼を言った。
「いつもありがとうございます」
持ち寄られた茶菓子を並べ、全員でお茶にした。この暮らしを手放したくないと、女は思った。
皆が帰っていったあと、庭で一人、少しばかり落ち葉を燃やした。
あの日剃った髪をまだ捨てられずにいたのだ。手拭いに包んだ黒髪。女は手を合わせて瞑目し、それから手拭いごと火の中に投じた。
思えば、今では剃刀も上手に使えるようになった。頭にそっと手をやってみる。もう頭巾で隠す必要はない。青々とした頭はどこから見ても立派な僧侶だった。
火の中から嫌な焦げ臭さが漂った。髪が焼けているのだ。不快な臭いに女は眉根を寄せた。
ちりん……ちりん……
かすかに鈴が鳴っていた。山道を下りていく里人たちの、獣避けの鈴の音だった。
それからも、女は勤勉に経典を読み解いた。
そうするうちに、元々聡明な女は、「因果応報」や「地獄での責め苦」といった教えの内容を正しく理解し始めた。
経典に書かれた地獄の描写に息が詰まった。逃げ出した工場の光景や本物の尼僧を殺めたときの感触がそれと重なり、脳裏に発光しながら浮かぶことが多くなった。
「ごめんください。庵主さんおられますか」
里の男が来た。
「庵主さん、これ、うちのやつが浸けた糠漬けです。どうぞ召し上がってください」
「まあ……」
女は静かに手を合わせる。
「いつもお心遣い痛み入ります。観音様にお供えしたのち、ありがたく頂戴いたします」
人々から立派な住職だと慕われれば慕われるほど、仏の教えが身体の芯まで染み込んでいく。
――ちりん……
また鈴の音がした。
目の前に立つ里人の杖の鈴を見た。杖はそこに立て掛けられたまま微動だにしていなかった。
「庵主さん?」
呼ばれて我に返った女は、微笑で胡麻化した。
「すみません。少しぼんやりしてしまって」
「庵主さん、顔色が悪いようですよ。お体、大事ないですか?」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
心配そうに帰っていく里人を見送り、女は思っていた。
――自分のような大罪人は、けっして救われない。
学びで得た罪の意識は、内側から女を責め立てた。もはや誰かに知れる恐怖よりも、自分自身が許せないという思いに達していた。
ある朝。
女は本堂で観音像の正面に座し、朝のおつとめをしていた。
経を唱え終わり、瞼を開けたとき、びくりと動きを止めた。観音像と視線が合った。観音像の眼差しがじっとこちらに注がれていたのだ。
女は観音像と見つめ合ったまま動けなかった。
そのとき、女の耳に山道を踏みしめる足音が聞こえてきた。
ちりん……ちりん……
ちりん……ちりん……
風鈴ではない。風鈴は外した。あれはたしかに杖に付けた鈴の音だ。そしてきっと、杖の主も里人ではないのだろう。
女はわなわなと震え、両目を見開いた。
「来る……」
尼僧が山道を登ってくる。
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、額にうっすら美しい汗をかきながら。
女は弾かれたように立ち上がり、引き戸へ走ると力任せに開けた。すぐ目の前に殺した尼僧が微笑みながら立っていた。むせ返るような生臭さが襲う。尼僧は泥のついた作業着に腐った枯れ枝を杖にしていた。枝はすっかり朽ちているのに、鈴だけは真新しい銅の光を纏っていた。
幽霊なのか生きているのかは些末なことだった。女はがくがくと震え、その場で失禁した。法衣がじわりと濡れていくのがわかる。それを見た尼僧が潰れた喉を蠢かせ、地の底から這い出るような声で笑った。
「いかがなさいましたか?」
女は尼僧を押しのけ、寺を飛び出した。草履も履かず、前庭を駆け抜け、そのまま山道を叫びながら走り下りた。
女の脳裏に工場の機械音が木霊した。逃げた先は元の地獄か、あるいは本物の地獄か――そのどちらかしかないことを悟りながら、法衣の女が終わりのない山道を転がり落ちていった。
「ごめんください。庵主さんおられますか」
その日、里の百姓が訪ねてきたが、寺には誰もいなかった。
「本堂かな」
ごめんください――そう声をかけて引き戸を開けた。
薄日の差す堂の中には、観音像がただ微笑を浮かべているだけだった。




