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第2話 理想の日常と、羨望の眼差し

 月曜日の朝。

 凛は、お気に入りのリネンウォーターが微かに香るシーツの中で目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、清潔に整えられた寝室を照らしている。

 サイドテーブルに置いたスマートフォンを確認すると、既に宗谷からメッセージが届いていた。

『おはよう、凛。今朝は冷えるから、温かい格好で出かけて。今週も君にとって素晴らしい一週間になりますように。仕事が終わる頃、また連絡するね。愛してる』

 それだけの短い言葉。けれど、凛にとってはどんな栄養ドリンクよりも活力になる。彼女はふんわりと微笑み、ベッドから起き上がった。

 凛の朝は、分刻みで管理された「正しさ」に満ちている。

 白湯を飲み、十五分間のヨガで体を目覚めさせ、栄養バランスを考えた朝食を摂る。その後、肌の調子に合わせて選んだ美容液を丁寧に馴染ませ、完璧なメイクアップを施す。鏡の中に映るのは、凛とした気品と、愛されている女性特有の幸福な輝きを纏った自分だ。

「よし。今日も頑張ろう」

 彼女は自分に気合を入れ、淡いグレージュのセットアップに身を包んで家を出た。

 職場である広告代理店のオフィスは、週明けの活気に溢れていた。

 凛がデスクに座ると、すぐに後輩の鈴木が駆け寄ってきた。

「結城先輩、おはようございます! あの、週末はどうでした? 橘さんと素敵なディナーに行ったんですよね?」

 鈴木の目は、キラキラとした好奇心で輝いている。凛と宗谷の交際は、局内でも「理想の極み」として語り草になっていた。

「ええ、とても素敵な時間を過ごせたわ。宗谷さん、私がずっと行きたがっていたレストランを予約してくれていて。……来月、私の誕生日に旅行に連れて行ってくれるって約束もしてくれたの」

「うわぁ、やっぱり! 橘さんって本当に完璧すぎます! 優しくて、仕事ができて、その上そんなにロマンチックなんて。……先輩、もう結婚も秒読みじゃないですか?」

 結婚。

 その言葉が、凛の胸に心地よく響く。二十九歳。周囲の友人が次々と家庭を持ち、キャリアとプライベートの狭間で揺れ動く年頃。そんな中で、凛は迷うことなく、確実な足取りで「最高のパートナーとの結婚」というゴールへと近づいている自負があった。

「どうかしらね。でも、彼と一緒にいると、自然と将来のことがイメージできるのは確かよ」

「それですよ! ああ、私も先輩みたいな『勝ち組の正解』を出したいです!」

 後輩の屈託のない称賛を受けながら、凛は書類に目を落とした。驕っているつもりはない。ただ、これまでの人生で一つ一つ積み重ねてきた努力が、今のこの盤石な幸福を作り上げているのだという充足感があった。

 その日の夕方、凛は会議の合間に、ふと宗谷の会社の近くを通ることになった。

 商談が予定より早く終わり、次のアポイントまで一時間ほどの空き時間ができたのだ。

(少しだけ、顔が見たいな)

 普段の彼女なら、仕事中にプライベートな感情を優先させることはない。けれど、今朝の彼の優しいメッセージを思い出すと、どうしても彼の存在を感じたくなった。凛は彼に、短いメッセージを送った。

『今、近くまで来ているの。もし少しだけ時間が取れたら、ビルの下のカフェでコーヒー一杯だけどうかな?』

 すぐに返信が来た。

『もちろんだよ。五分で行く。待っていて』

 丸の内にある超高層ビル。その一階にあるオープンカフェで待っていると、自動ドアの向こうから、颯爽と歩いてくる宗谷の姿が見えた。

 仕立ての良い紺色のスーツ。手には高級そうなブリーフケース。そして、凛を見つけた瞬間にパッと明るくなる表情。周囲を行き交うオフィスワーカーたちの中でも、彼の洗練された存在感は群を抜いていた。

「凛、急にどうしたの? 何かあった?」

「ううん、何でもないの。ただ、近くまで来たから、宗谷さんの顔が見たくなっちゃって。……忙しいのに、ごめんね」

「そんなこと言わないで。君に会えるなら、どんな会議よりも優先したいよ」

 宗谷は凛の向かい側に座ると、彼女の手を優しく握った。

 カフェのテラスを吹き抜ける風が、彼の爽やかなシトラス系の香水を運んでくる。

「疲れてない? 顔色が少しだけ疲れているように見える。無理は禁物だよ、凛」

「大丈夫。宗谷さんの顔を見たら、一気に疲れが吹き飛んじゃった」

「はは、それは光栄だな。……そうだ、誕生日の旅行だけど、オーベルジュまでのルートも僕が全部プランを組んでおいたよ。君は当日、助手席で好きな音楽を聴いてリラックスしていればいいからね」

 宗谷はスマートフォンを取り出し、入念に調べ上げられた旅程表を凛に見せた。

 立ち寄るべき景勝地、ランチに最適な隠れ家レストラン、さらには凛が喜びそうな立ち寄りスポットまで。その完璧なプランニングに、凛は溜息をついた。

「……宗谷さん、本当に凄いわ。私、何もすることがないじゃない」

「君をエスコートするのは、僕の義務であり、最大の喜びなんだ。凛には、世界で一番幸せな女性でいてほしい。……これは、僕の心からの願いなんだよ」

 宗谷の瞳には、一切の濁りもない真っ直ぐな愛情が宿っていた。

 凛は、その温かな視線に包まれながら、心の底から思った。

 ああ、この人と出会えて本当に良かった。これまでの二十九年間の「正解」は、すべてこの人と出会うためにあったのだ、と。

「……私も、宗谷さんを幸せにしたい。世界で一番、あなたにふさわしい女性になるわ」

 二人は、夕暮れ時の丸の内で、静かに微笑み合った。

 周囲の喧騒すらも、二人を祝福するオーケストラのように心地よく響く。

 宗谷が席を立つ際、彼は凛の額に、羽が触れるような軽いキスを落とした。

「それじゃあ、仕事に戻るよ。今夜、また電話する。大好きだよ、凛」

「ええ、私も大好き。頑張ってね」

 遠ざかっていく宗谷の背中を、凛はいつまでも愛おしそうに見送っていた。

 彼は一度も振り返ることなく、迷いのない足取りでビルの中へと消えていった。

 その背中こそが、彼女にとっての「間違いのない正解」そのものだった。

 輝かしいキャリア、周囲からの羨望、そして完璧な恋人。

 結城凛の日常は、誰の手も届かない場所で、どこまでも甘く、美しく完成されていた。

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