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第10話(最終話) 正しい彼女の、間違いのない結末

 産婦人科病棟の廊下は、新しい生命の誕生を祝福するような、温かく穏やかな空気に満ちていた。

 その静寂を、コツ、コツ、という硬質なヒールの音が切り裂いていく。

 すれ違う看護師や見舞い客たちが、一様に振り返り、息を呑んだ。

 歩いているのは、季節外れの純白のシルクワンピースを着た女だった。完璧にセットされた髪、一点の隙もないフルメイク。まるでこれから結婚式に向かう花嫁のような異様な出立ちだが、彼女の顔には、この世のすべての幸福を煮詰めたような、甘く、うっとりとした笑みが張り付いていた。

「……305号室。ここね」

 結城凛は、病室のネームプレートを愛おしそうに撫でた。

 ドアの小窓から中を覗き込む。個室のベッドには、出産を終えて疲労困憊で眠る橘沙織の姿があった。そしてその傍らには、透明なコット(新生児用ベッド)の中で眠る小さな赤ん坊と、それを見つめる宗谷の背中。

 凛は深く息を吸い込み、ゆっくりとドアを開けた。

「——お迎えに上がりましたよ、宗谷さん」

 鈴を転がすような、甘く澄んだ声。

 宗谷が弾かれたように振り返った。その瞬間、彼の端正な顔が、見たこともないほど無様に歪み、恐怖で血の気を失っていくのを凛は見た。

「な……結城……!? お前、なんでここに……ッ!?」

「なんでって、決まってるじゃない。あなたをこの地獄から救い出して、私たちの結婚式を挙げるためよ」

 凛はふわりと微笑みながら、ベッドへと歩み寄った。

 宗谷は後ずさり、ガタガタと震えながら凛とコットの間に立ち塞がった。その騒ぎで、ベッドの沙織が目を覚ました。

「……あなた……? 誰、この……ひっ!?」

 純白のワンピースを着た凛の姿を認めた瞬間、沙織は喉の奥でひきつけを起こしたように短い悲鳴を上げ、パニック状態に陥った。

 当然だ。凛は沙織の恐怖心も、宗谷の絶望も、すべて「自分への感謝」として脳内で変換していたのだから。

「沙織さん、出産お疲れ様。あなたはもう用済みよ。……宗谷さんを解放してあげて」

「狂ってる……来るな! ナースコール!! 誰か来てくれ!!」

 宗谷が半狂乱で叫ぶ。凛はクスリと笑った。

「照れなくていいのよ、宗谷さん。あなたがこの豚みたいな女に脅されて、無理やりお腹の子供の父親にさせられていたこと、私ちゃんと分かってるから。……あ、でもね」

 凛の視線が、宗谷の背後にあるコットへと移った。

 彼女の瞳孔が、真っ黒に開ききっている。

「その子は、私たちが引き取って育ててあげるわ。罪人の子供だけど、正しい私が教育すれば、きっとまともな人間に育つはずだもの。ね? 私、間違ってないでしょ?」

「触るなァァァッ!!!」

 凛がコットへ手を伸ばした瞬間、宗谷が獣のような叫び声を上げ、凛の体を渾身の力で突き飛ばした。

 ドンッ、と鈍い音がして、凛は壁に背中を打ち付け、床に崩れ落ちた。純白のワンピースに、床の汚れがつく。

 駆けつけてきた数人の医師と看護師たちが、病室の異様な光景に悲鳴を上げた。

 沙織はベッドの上で過呼吸を起こして泣き叫び、宗谷は赤ん坊を守るように抱き抱え、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら凛を睨みつけていた。

「警察を呼んでくれ!! こいつはストーカーだ!! 俺の家族を殺しに来たんだ!!」

 宗谷の絶叫が、病棟中に響き渡る。

 野次馬の患者たちが廊下に集まり、スマートフォンを向ける者もいた。宗谷の関西での新しい人生、隠したかった過去の不倫、そして妻の異常なトラブル。そのすべてが、白日の下に晒された瞬間だった。

 しかし、床に倒れ込んだ凛は、痛みを感じる様子もなく、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女の顔には、怒りも、悲しみもない。ただ、深く、深い「哀れみ」だけがあった。

「……可哀想に。宗谷さん、完全に洗脳されてしまっているのね。あんな醜い子供を抱きしめるなんて」

 凛は、自分のワンピースの埃を優雅に払い落とした。

「大丈夫よ。世間の人は皆、私たちが正しいって分かってくれる。悪いのは私からあなたを奪ったその女と、あなたを縛り付けるその忌まわしい赤ん坊なんだから。……私が、全部正しくしてあげる」

 凛は集まったギャラリーに向かって、満面の笑みで語りかけ始めた。

 橘宗谷がいかに自分を愛していたか。沙織がいかに卑劣な手段で彼を騙し、自分に嫌がらせをしてきたか。そして自分が今、いかに崇高で「正しい」愛の救済を行っているか。

 誰もが言葉を失い、汚物でも見るような目で彼女から後ずさる。

 そこに同情の余地はない。あるのは、理解の及ばない狂気への絶対的な嫌悪感だけだった。

 やがて、サイレンの音が近づき、制服姿の警察官たちが病室へとなだれ込んできた。

 抵抗するかと思われた凛は、しかし、まるでエスコートを受けるお姫様のように、自ら静かに両手を差し出した。

「お手数をおかけします。でも、手錠は気をつけてくださいね。この指輪、彼が買ってくれた大切な婚約指輪なので」

 凛はうっとりと、左手の薬指で輝くハリー・ウィンストンを警察官に見せつけた。

 連行されていく凛の背中を、宗谷はただただ恐怖に引き攣った顔で見送るしかなかった。彼の今後の人生もまた、この狂った女の執念によって永遠に破壊されたのだ。

 病室のドアが閉まる直前。

 凛は一度だけ振り返り、宗谷に向かって、この世で最も美しく、最もおぞましい笑顔でウインクをした。

『またね、あなた』

 それは、終わることのない悪夢の約束だった。

     *

『——続いてのニュースです。本日午後、関西の総合病院に包丁を持った……失礼しました、正当な理由なく侵入し、新生児を誘拐しようとした疑いで、元会社員の結城凛容疑者(30)が逮捕されました』

 暗い部屋の中。

 あなたは、ぼんやりとテレビの液晶画面を見つめている。

 ニュース番組のアナウンサーが、無機質な声で原稿を読み上げている。

『結城容疑者は、被害者の男性の元交際相手であり、男性の妻への執拗なストーカー行為で以前から警察に相談が寄せられていました。調べに対し結城容疑者は、「私は彼を助けに行っただけ」「私は何も間違っていない」などと供述しており、警察は刑事責任能力の有無も含めて——』

 画面が切り替わる。

 警察署の駐車場。雨の中、パトカーの後部座席に乗せられた女の姿が、テレビの画面いっぱいに映し出された。

 乱れた純白のワンピース。

 しかし、その顔には後悔など微塵もない。

 フラッシュの瞬く中、女はゆっくりと顔を上げた。

 テレビの液晶越しに、彼女の真っ黒な瞳が、あなたと真っ直ぐに交差する。

 彼女は、テレビの前の「あなた」に向かって、にっこりと微笑みかけた。

「私は、正しいでしょう?」

 声は聞こえない。だが、その唇の動きは確かにそう言っていた。

 あなたが背筋に冷たいものを感じた瞬間、プツン、と。

 テレビの電源が切れ、部屋は完全な静寂と暗闇に包まれた。

 あなたの手の中のスマートフォンだけが、微かな光を放っている。

 誰も同情しない。誰も救われない。

 絶対的な「正しさ」を信じた女の、最低で最悪のハッピーエンド。

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