結局、また消した。
午前四時。住宅ローンの残高と、忍び寄る老眼。そして画面越しに突きつけられた「独自性がない」という残酷な評価。
四十代の才能がないライターの相沢はは深夜の暗闇で一円の金にもならない「書き直し(オーバー・リテイク)」の泥沼にいた。
便利な形容詞を捨て、借り物の美辞麗句を殺し、不味い漢方薬の苦味を飲み下しながら、彼はただ「本物の言葉」を求めてキーボードを叩き続ける。
午前四時。三十分かけた一行を、デリートキーで殺した。
六時間。一円にもならない作業で、指先は微かに震えている。
画面越しに突きつけられた『独自性がない』の一言。それが奥歯の根元で、ずっと疼いたまま。
四十代。住宅ローン。老眼。不味い漢方薬。
深夜に綴るべき嘘は、もうどこにもない。
語尾の「だ」を「な」に書き換える。
その瞬間、記号の羅列だった女が、初めてこちらを睨んだ。
生きている。
赤字の修正は敗北じゃない。俺の指が、正解を力任せに掴み取った証だ。
霞む眼をこすり、椅子に腰を叩きつける。
「痛っ!」
この痛みこそ、今ここに書き手として存在している報酬だ。
昨日までなら、安い焼酎を煽って現実を呪っただろう。
今の俺は、この泥臭い格闘から一歩も退かない。
バイクが湿ったアスファルトを蹴る音。新聞配達か。
窓の隙間から、朝の冷気が忍び寄る。才能なんて、どこを探しても見当たらない。
あるのは、この地味な書き直しを、一ミリも妥協せずに完走する筋力だけだ。
送信ボタンに親指を置く。
躊躇いが指先を止めた。耳鳴りが、やけにうるさい。
クリックした瞬間、乾いた音が部屋に鳴り渡った。
昨日の「逃げ」とは違う。重く、確かな手応え。
立ち上がると、膝の関節が嫌な音を立てた。
安物のカーテンを透かして、青白い光が差し込む。
喉に張り付く、漢方薬の不快な苦味。
だが、キーボードを離れた指先だけは、まだ、熱かった。




