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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

完璧な箱庭の調律師

作者: かきのたね

 その都市において、朝は来るものではなく、適用されるものだった。


 午前六時。空中都市『アイテール』を包む人工天蓋が、数学的に最も心地よいとされる色温度五五〇〇ケルビンの光を放ち始める。市民たちの網膜に届けられるその光は、昨夜の深い眠りを完璧なタイミングで遮断し、今日という一日への移行を滑らかに誘導する。

 目覚めと同時に供給される栄養剤の香りは、個人の好みに合わせて最適化されていた。誰一人として胃もたれを覚えることはなく、誰一人として低血圧の倦怠感に悩まされることはない。


 「おはよう、世界」


 誰かが呟けば、街中のセンサーがその声を拾い、都市全体の幸福指数を〇・〇〇二パーセント上昇させる。

 アイテールにおいて、呼吸とは音楽であり、生活とは完璧な数式であった。


 調律師カインは、白磁のように滑らかな壁に囲まれた自室で、自身の端末をチェックしていた。

 彼の仕事は、この都市の美しさを乱すノイズの検出と排除だ。

 カインの指先は細く、長い。その指先が空中のホログラムをなぞるたび、何万もの市民の心拍数、ホルモンバランス、そして深層意識の「揺らぎ」が、冷徹な青いグラフとなって流れていく。


「……本日も、ノイズなし。整合性は、九九・九九八パーセントを維持」


 カインは満足げに、あるいは無感情に呟いた。

 彼の瞳には、この世界のすべてがあるべき場所にあるように映っている。窓の外を見下ろせば、幾何学的に配置された純白の建築群が、雲海の上に毅然と並んでいた。そこにはゴミ一つ、影一つ存在しない。


 かつて……この世界には偶然という名の病があったと歴史書は語る。

 人々は予期せぬ雨に濡れ、制御不能な怒りに身を任せ、理不尽な死に涙した。その非効率で醜悪な混沌を、偉大なる管理プログラムが調律し、削ぎ落とし、磨き上げた。その結果、手に入れたのがこの絶対零度の平穏だ。


 カインは自身の制服を整えた。シワ一つないその布地は、彼の肌の一部であるかのように完璧にフィットしている。

 彼はこの都市を愛していた。

 いや、愛という言葉すらも、アイテールにおいては特定の対象への執着がもたらすセロトニンの過剰分泌として厳密に管理されている。正確に言えば、彼はこの都市の整合性の高さに、至上の安らぎを感じていた。


 彼にとって、揺らぎのないことは善だった。

 悲しみのないことは正解だった。

 そして、自分が調律師として、この美しすぎる静寂を維持する歯車であることを、誇りに思っていた。


『カイン様、定時メンテナンスの時間です』


 室内に響くアナウンスは、まるで澄んだ氷が触れ合うような、清涼な響きを持っていた。

 カインは頷き、自身の心をニュートラルに設定する。

 一分の隙もない白い回廊を歩き、彼は職務へと向かう。彼の足音は、吸音材を施された床に吸い込まれ、一瞬の余韻すら残さない。


 彼はまだ知らなかった。

 この完璧な静寂の中に、一粒の砂が紛れ込んでいることを。

 そして、その砂がたった一歩踏み出すだけで、この絶対の整合性が、カランカラン……と儚く音を立てて崩れ始める未来を。


 カインの影が、白一色の壁に一瞬だけ、ナイフのように鋭く刻まれる。


 調律局の最深部にある作業室は、外界から完全に遮断された真空のような静寂に包まれていた。

 カインは、自身の意識を都市の深層ネットワークへと沈める。

 彼の脳内に流れ込むのは、アイテールで暮らす三万人の思考の残滓だ。それは、まるで磨き上げられたクリスタルの断面を一つずつ検品していくような、気の遠くなるほど精密な作業である。


「検体番号:402。対象、二十四歳、男性」


 カインの指先が虚空を弾く。空中に、対象者の睡眠時の脳波データが展開された。

 波形の一部に、針の先ほどの微細なトゲがある。それは「悪夢」の兆候だった。


「原因は……三日前、自動走行車から見えた雲の形が、幼少期の喪失を想起させたことによる連想バイアス。放置すれば、三ヶ月以内に慢性的な不安症を発症し、周囲の幸福指数を〇・五パーセント低下させる恐れがある」


 カインに迷いはない。

 彼は指先を滑らせ、対象者の記憶のシナプスに調律を施す。

 削除ではなく、再解釈。

 その雲の形は喪失ではなく未来への飛躍を象徴する抽象画であったと、記憶の根元を美しく書き換える。

 波形は瞬時に滑らかになり、完璧なサインカーブへと戻った。


「調律完了。……次は、検体番号:119」


 彼は機械的に、けれど芸術的な手際でノイズを消し去っていく。

 ある者は叶わない恋の苦しみを博愛という名の充足感に置き換えられ、ある者は現状への疑問を更なる自己研鑽への意欲へと転換される。

 カインが指を動かすたびに、都市から溜息が消え、微笑みが一つ増える。


 それは、外科手術に近い。

 腐りかけた部分を切除し、代わりに純白の義肢を植え付けるような作業だ。

 カインはこの作業を当たり前であると信じて疑わなかった。


(人は、不完全だからこそ苦しむ。ならば、その不完全な部分を補完してあげることこそが、知性を持つ者の義務だ)


 彼の脳裏には、かつて整合性を授けてくれた先代の調律師の言葉が刻まれている。

 カイン自身もまた、かつては「なぜ、自分は空っぽなのか」という孤独に震える少年だった。しかし、調律によってその孤独を「他者のための清冽な空白」へと定義し直され、今の地位を得た。

 彼にとって、今の自分が「空っぽ」であることは、汚染されていない完璧な器であることと同義だった。


「……? これは」


 不意に、カインの指が止まった。

 検出アラートが鳴ったわけではない。むしろ、その逆だ。


   『区画:デルタ・セブン』


 本来、そこは老朽化したインフラを解体し、再建築を待つ廃棄予定区画であり、生体反応は存在しないはずの場所だった。

 だが、そこから奇妙な信号が漏れ出している。

 脳波でも、バイタルデータでもない。

 それは、ただのリズムだった。


   カチ、カチ、カチ。


 一定のようでいて、時折、ためらうように揺らぐその振動。

 論理的には無視してよい誤差だが、カインの「完璧への執着」がそれを許さない。


「……ノイズの原点を特定する。直接介入が必要と判断」


 カインは作業室を出た。

 彼の心の防壁は、鉄壁だった。どんな「悲劇」を見せられても、それを「計算ミス」として処理できるだけの冷徹さを備えていた。

 白一色の回廊を抜け、光り輝く都市の表層から、影の差す下層階へと降りていく。

 清浄な空気の中に、わずかに埃の匂いが混じり始めた。

 アイテールでは決して許されない、死んだ物質が崩れていく匂い。

 カインの指先が、わずかに震えた。

 それは恐怖ではなく、未知のバグに遭遇したシステムが放つ、初めての高揚に近い感覚だった。

 彼はまだ知らない。

 その廃棄区画の奥底に、自分の指先では決して調律できない、剥き出しの命が座っていることを。


 『区画:デルタ・セブン』は、アイテールの「死」が集まる場所だった。

 都市の生命維持システムから切り離されたこの区画には、調整された光も、管理された湿度も届かない。漂っているのは、コンクリートが風化していく乾いた匂いと、重苦しい静寂だけだ。


 カインは、自身の白い制服が薄汚れた壁に触れないよう、細心の注意を払いながら進んでいた。彼の内蔵されたセンサーは、絶えず異常環境のアラートを鳴らし続けている。

 だが、その不快感を塗りつぶすほどに、あのリズムが強くなっていた。


 カチ、カチ、カチ――。


 崩れかけたドーム状の広場に出たとき、カインの足が止まった。

 天蓋の隙間から、加工されていない生の太陽光が、埃の舞う空間を斜めに切り裂いている。その光の柱の真ん中に、一人の少女が座っていた。


 名前も、市民番号も持たないであろう、その少女。  彼女は灰色の粗末な服を纏い、裸足のまま、床に転がっていた小さな石を手に持っていた。

 彼女は、その石で地面を叩いていたのだ。


 カチ、カチ、カチ。


「……何をしている」


 カインの声は、広場の空虚な空間に鋭く響いた。

 少女は驚いた様子もなく、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、カインが知る市民たちの最適化された輝きとは異なり、どこまでも深く、暗い淵を湛えていた。


「音を、集めてるの」


 少女の声は、カインの聴覚補正システムをすり抜け、直接鼓膜を揺らした。

 カインは眉をひそめ、彼女のバイタルデータを読み取ろうとする。だが、エラーが出る。彼女はアイテールの生体ネットワークに登録されていない、文字通りの「亡霊」だった。


「音を集める? それは非論理的な行動だ。音は記録媒体に保存されるものであり、収集する実体ではない」


「そうじゃないわ。私は、この『響き』がどこに消えるのかを知りたいだけ」


 少女は再び石を地面に打ち付けた。

 カインの計算によれば、それはただの物理的な衝突音に過ぎない。しかし、少女が石を打つたびに、床に刻まれた不規則な傷が、光を反射してキラキラと震えているのが見えた。


 カインは一歩踏み出し、彼女の手元を覗き込んだ。

 そこには、幾何学的な整合性など一切ない、歪で、複雑で、意味不明な模様が描かれていた。線は震え、途切れ、重なり合っている。


「……醜い。これはエラーの集積だ。君の脳波を調律する必要がある」


 カインは指先を伸ばし、彼女の側頭部に触れようとした。彼の指先からは、精神を安らぎへと導く「調律プログラム」が今にも放たれようとしている。

 だが、少女は逃げなかった。ただ、真っ直ぐにカインを見つめて、こう言った。


「これ、見て。……綺麗だと思わない?」


 カインの動きが凍りついた。

『綺麗』。

 アイテールにおいて、その言葉は「黄金比に合致している」あるいは「色彩の彩度が規定値内である」ことを指す記号だ。

 だが、少女の指し示すその傷だらけの床は、どの定義にも当てはまらない。


 その時だ。

 天蓋の隙間から吹き込んだ風が、少女が描いた模様の上の埃を巻き上げた。

 巻き上がった灰色の粉塵が、差し込む日光に透かされ、まるで銀色の雪のように、あるいは……どこか遠い夢で見た光の粒のように、優しい音を立てて舞い踊った。


 カインの防壁に、最初の亀裂が走った。

 彼の高性能な脳は、その埃の動きに規則性を見出そうとし、そして敗北した。

 不規則で、無意味で、再現不能な、一瞬だけの輝き。


「……理解、不能だ」


 カインの手が、震えていた。

 彼は調律を実行できなかった。

 目の前の少女をバグとして処理すれば、今、自分の心拍数を不自然に押し上げているこの得体の知れない感覚まで消えてしまう。

 そのことに、無意識のうちに気づいてしまったからだ。


「あなたは、空っぽなのね……あなたも食べる?ここにはいっぱい落ちてるの」


 少女は優しく笑い、食べ物を差し出した。それは、何らかの理由で廃棄された栄養剤だった。

 アイテールの人々の笑顔に似て、けれど決定的に違う、相手を縛らない解放の微笑み。そして、アイテールの中の闇。

 カインはその場に立ち尽くした。

 背後の白い都市は、今は遠く、凍りついた墓標のように感じられた。


 カインは、少女の隣に座り込んでいた。

 それは、調律師としての教育を十数年も受けてきた彼にとって、最も非効率的で不潔な振る舞いだった。白い制服の膝が灰色の土で汚れ、その汚れをセンサーが絶え間なく警告している。だが、今のカインには、その警告音さえ遠い場所の出来事のように感じられた。


「……なぜ、君はここにいる? アイテールの市民になれば、寒さも空腹も、そしてその『孤独』さえも感じずに済むというのに」


 カインは、自分自身の防壁を確認するように問いかけた。少女は、手の中の石を転がしながら、不思議そうに彼を見た。


「孤独って、なあに?」


「……一人であることの痛み、あるいは、誰にも理解されない欠落感だ」


「それは、悪いことなの?」


 カインは息を呑んだ。そんな問いは、アイテールの辞書には存在しない。


「当然だ。痛みは排除すべきエラーであり、欠落は埋めるべきバグだ。私たちは、そうやって完璧な幸福を築き上げてきた。……なのに、なぜだ。君のデータはエラーだらけなのに、君のバイタルは、あんなに管理された市民たちよりも……ずっと強く、脈打っている」


 カインは狼狽していた。彼の生体モニターは、かつてないほどのノイズを記録している。だがそれは、不快な雑音ではなく、何かが生まれる直前の、震えるような予動(鼓動)のようにも聞こえた。


「見て、これ」


 少女が指差したのは、地面に描かれたあの歪な模様だった。

 彼女は、汚れた指先で、カインの手のひらに小さな石を置いた。


「この石はね、昨日まであっちの壁の中にいたの。でも、壁が崩れて、外の風に触れて、今日私の手の中にきた。明日には、もっと遠くの風に飛ばされるかもしれない。……決まっていないから、こんなにキラキラしてるのよ」


 カインは自分の手のひらを見つめた。そこには、何の変哲もない、ただの灰色の石がある。

 だが、少女の言葉に導かれるように目を凝らすと、その石の表面には、無数の小さな結晶が日光を乱反射して、まるで掌の中に宇宙を閉じ込めたように瞬いていた。


「……アイテールには、こんな不確かな光はない」


 カインの声が、かすかに震えた。


「すべては決められ、管理され、計算され尽くしている。昨日の自分も、明日の自分も、同じ色をしているんだ。……僕は、それを『完璧』だと思っていた。でも、今の僕は、この石よりもずっと、自分が『空っぽ』な気がするんだ」


 カインは、生まれて初めて自分の弱さを言葉にした。

 それは、彼を構成していた「整合性」という名の殻が、内側から溶け始めた瞬間だった。


 少女は、カインの汚れた手のひらを、自分の小さな手で包み込んだ。

 その体温は、管理された空調よりもずっと熱く、生々しく、カインのシステムの深層部まで浸透していった。


「空っぽなら、これからたくさん入るわね。あなたのその『白い服』も、これからどんどん汚れて、いろんな色になるわよ」


 カインの瞳から、一滴の液体がこぼれ落ちた。

 それは、アイテールの歴史から数百年前に消えたはずの「涙」だった。

 その雫が地面の埃に触れた瞬間、そこから小さな光の波紋が広がり、少女の描いた模様を鮮やかに彩った。


「……ああ。そうか。僕は、自分を護るために、自分を殺していたんだ」


 カインの防壁は、もうどこにもなかった。

 そこにあるのは、冷徹な調律師ではなく、初めて自分の温度を知ろうとしている、不器用な一人の人間だった。

 しかし静寂は、無機質な警告音によって引き裂かれる。


『警告。区画:デルタ・セブンに大規模な論理汚染を確認。調律師カイン、思考プロトコルに致命的なバグを検知。これより、当該区画の完全初期化パージを開始します』


 天蓋のスピーカーから響くその声は、かつてカインが何よりも信頼し、帰依していたアイテールの意志そのものだった。

 広場を照らしていた柔らかな太陽光が、突如として赤く禍々しいレーザーの網に取って代わられる。都市の防衛システムが、たった一人の少女というバグを消去するために、その巨大な牙を剥いたのだ。


「……っ、逃げろ!」


 カインは少女の細い手首を掴み、走り出した。

 背後で、かつての自分が見守ってきた完璧な建築物が、爆砕によって塵へと還っていく。それはこの上なく効率的で、無慈悲な掃除だ。


「カイン、あそこ! 壁が閉まるわ!」


 少女が指差した先、区画を隔離するための隔壁が、重厚な金属音を立てて降り始めていた。あそこを通り抜けなければ、二人はこの区画ごと存在しなかったことにされる。


 だが、カインの脳内には、別の警告が鳴り響いていた。

 彼の網膜に、管理者権限による強制介入のコードが投影される。


『調律師カイン。君は、その不確かな生命を救うために、都市の整合性を棄てるつもりか。君が守るべきは、三万人の永劫なる幸福だ。その一人を殺せば、再び平穏は保たれる』


 カインの足が止まった。

 彼の論理回路が、一瞬で何億通りのシミュレーションを弾き出す。

 少女をシステムに差し出せば、自分は再び「完璧な調律師」に戻れる。汚れた制服は新調され、この恐怖も、涙の熱さも、すべては悪夢として美しく再解釈してもらえる。


 カインは、少女の手を見た。

 埃にまみれ、石の粉で汚れ、けれどもしっかりと自分の手を握り返している、この小さな体温。


「……整合性など、知ったことか」


 カインは、自身の端末を力任せに引き剥がした。

 神経系に直結していた端子から火花が散り、激痛が彼を貫く。だがその痛みこそが、自分が今生きているという証明だった。

 彼は血の滲む指先で、都市の基幹システムへとハッキングを仕掛ける。


 カインの指先が、端末の上で激しく舞った。

 かつての彼なら、少女を救うために都市そのものを破壊する道を選んだかもしれない。だが、彼の脳裏には、自分が今日まで調律してきた三万人の、穏やかな寝顔が浮かんでいた。


(彼らに罪はない。この完璧な朝を愛し、信じている人々の世界を、僕のエゴで奪う権利はないんだ)


「……プログラム・ハック。対象、区画デルタ・セブン周辺の監視網のみ……うぐっ……!?」


 カインが実行したのは、都市の破壊ではなく、完璧な偽装だった。 彼は管理システムの深層に、一瞬だけカインと少女の死亡データと区画の完全な消滅という偽の記憶を書き込んだ。しかし、その代償は大きく、脳に大きな負荷がかかっていた。


 システムにとっては、バグは処理され、整合性は保たれたことになる。 だが現実には、二人は死んだことになったまま、システムの盲点へと滑り込んだのだ。


 しかし、このままここにいる訳にはいかない。カインは、少女の細い肩を抱き寄せながら、廃棄区画の最深部にある重厚なハッチの前に立っていた。

 そこは、都市の肛門とも呼べる場所であり、リサイクル不可能な残骸、定義不能なエラー物質。アイテールが完璧であるために切り捨てた汚物を、地上という名のゴミ捨て場へ放り出すための排出口である。


「ここから出る。……怖いか?」


 カインの問いに、少女は首を振った。彼女はカインの汚れた制服の裾をぎゅっと握りしめ、ただ真っ直ぐに、これから開く闇を見つめている。


「……いいえ。だって、ここを通れば、本当に外に行けるんでしょ?」


 カインは自嘲気味に口角を上げた。

 かつて自分が不潔だと蔑み、システムから排除してきたプロセスに、今、自分の命を託そうとしている。彼は自身の指先をハッチの緊急操作盤に叩きつけた。調律師の権限を逆手に取り、自分たち二人を未分類廃棄物としてシステムに誤認させる。


『警告。廃棄プロセスを開始します。対象物質、投棄準備完了』


 轟音と共に、足元の床が左右に割れた。

 一瞬の浮遊感。

 次の瞬間、二人の体は激しい気圧差に吸い込まれ、垂直のシュートを滑り落ちた。


「――っ!!」


 絶叫すら風圧に掻き消される。カインは咄嗟に、自身の制服に仕込まれていた緊急時用の「感圧緩衝フォーム」を展開した。白い布地から噴出した特殊な樹脂が薄い二重の膜を作り上げ、空気と一緒に二人を包み込む。

 それは頼りない見た目ながらも硬いゴミの塊がぶつかり合う衝撃から守っていた。


 そして、視界を塞いでいた金属の筒が突如として消え、世界が爆発するように広がった。


 暗黒の空。

 眼下には、見渡す限りの雲海が、月の光を浴びて銀色の絨毯のように波打っている。

 二人は今、アイテールの底面から、夜の深淵へと放り出されたのだ。


 背後を見上げれば、天空に浮かぶ巨大な白亜の心臓――空中都市アイテールが、何事もなかったかのように冷たく、美しく輝いている。そこから自分たちは、一粒の塵として捨てられた。


(さらばだ、完璧な世界)


 カインは心の中で、かつての故郷に別れを告げた。

 制御不能な重力が、容赦なく二人を引きずり下ろす。これまでの人生で一度も経験したことのない、剥き出しの物理法則。それは恐怖であると同時に、自分が確かに質量を持った生き物であることを実感させた。


 二人は緩衝材に包まれたまま、厚い雲の層を突き破る。

 濡れた霧が防御膜を打ち、やがて視界の端に、人工の光が一つもない、真の闇を湛えた大地の輪郭が迫ってきた。


 ボスッ……。


 全身に激しい衝撃が走る。

 泥と枯れ葉を跳ね上げ、緩衝フォームが衝撃を吸収しながら荒野を転がっていった。


 静寂が訪れる。

 カインは震える手で、自身の体を覆っていた樹脂の膜を解除した。形を失う樹脂が全身に纏わりついてくる。

 そこから這い出し、肺に流れ込んできたのは、ひどく冷たく、土の匂いと湿り気を帯びた、加工されていない生の空気だった。


「……はぁ、……はぁ……っ」


 隣で同じように這い出してきた少女が、泥だらけの顔で咳き込んでいる。

 カインは泥にまみれた手を伸ばし、彼女の無事を確認した。

 自身の白い制服はもう、見る影もなく汚れ、破れている。けれど、その汚れこそが、アイテールの数式を生き延びた何よりの証明だった。


「歩けるか」


 カインの声は掠れていたが、そこにはもう、調律師の冷徹な響きはなかった。

 少女は泥にまみれた手でカインの手を握り返し、力強く頷いた。


 見上げれば、雲の切れ間から本物の星が覗いている。アイテールのホログラムが模写していた記号としての星ではなく、一つ一つが異なる明るさで、遠い距離から必死に瞬いている、不揃いな光の粒。


「……行ったわね、アイテール」


 少女が、遠ざかる空中都市を見上げて呟いた。


「ねえ、カイン」


 少女が立ち上がり、何も描かれていない真っ暗な地面を指差した。


「ここには、もう『模様』はないわ。あなたが全部壊しちゃったから」


 カインは、少女の隣に立った。

 確かに、目の前には何もない。管理された幸福も、約束された明日も、安全な道標も。ただ、どこまでも続く暗い荒野があるだけだ。


「……ああ。空っぽだ。僕も、この場所も」


 カインは一歩、踏み出した。そして、彼は自身の制服の胸元にある調律師のバッジを静かに外し、砂の中に埋めた。


「あそこにはもう、調律すべきノイズはない。……僕たちは、公式には存在しない『余白』になったんだ」


 都市は、これからも完璧な数式として空を漂い続けるのだろう。

 カチリ、と足元の小石が鳴った。

 乾いた土を素肌で感じる。アイテールの床を歩くときには決して感じられなかった、ざらついた、けれど確かな反発力。


「でも、不思議だ」


 カインがもう一歩踏み出すと、彼の足跡が月の光を浴びて、淡い影を落とした。

 ただの足跡だ。ダイヤモンドの輝きも、黄金の結晶もない。

 けれど、その泥だらけの、歪な足跡を見た時、カインの胸には説明のつかない感情が込み上げてきた。


「最初からあったんだ。僕が心の何処かで探していたものは、最初の一歩を踏み出す瞬間に、もうここにあったんだ」


 彼は振り返り、少女に手を差し伸べた。

 少女はその手を握り、カインの隣で同じように一歩を踏み出した。


 二つの足跡が、荒野に刻まれる。

 それは誰にも調律されない、不規則で、不格好な「物語」の始まりだった。


 夜明けが近づいていた。

 東の地平線が少しずつ白み始め、世界がその「本当の色」を取り戻していく。

 それは完璧な五五〇〇ケルビンではなく、刻一刻と表情を変える、混じり気のある、生きた朝の光だった。


「僕の名前は、カイン」


 彼は、初めて自分の名前を、システムの認識コードではなく、自分自身の「音」として呼んだ。


「君の名前を、一緒に探しに行こう。この広い、空っぽな世界のどこかで」


 少女は嬉しそうに頷き、カインの手を強く握った。

 二人は歩き出した。

 朝日が、二人の汚れた背中を照らす。

 その影は長く、不確かに伸びて、どこまでも続く荒野の先へと繋がっていた。

 もはやそこに、完璧な整合性は存在しない。

 けれど、彼らの踏みしめる一歩一歩が、世界で一番贅沢な、自分たちだけの輝きを放っていた。


(完)

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