私は誰の武器にもならない
誰も知らない。
この牧師のローブの下に、どれほど削られた人生が隠されているかを。
彼は、無能なんかじゃない。
逆に――
若き彼は、教廷から「最も熾環に至る可能性のある聖職者」とまで讃えられていた。
聖光親和、呪文の安定、儀式の支配は完璧に近かった。
普通なら、彼は主教団の議事堂に入るはずだった。
地図にも記載されないような辺境の町に放り込まれることなど、あり得なかった。
だが、彼は「信心が足りない」とされた。
教廷は、彼に体裁のいい理由を与えた。
「辺境には、貴方のような牧師が必要だ」
一年が過ぎ、また一年が過ぎた。
自分より能力の劣る者たちが、もっと華やかな聖衣をまとい、
もっと高い壇上で、神に代わって正義を告げるのを、彼は見てきた。
そして自分は、村人の葬式と結婚式の間を往き来する、
ただの道具のように。
「くそ…… 俺は、納得できない」
気がつけば、彼には再び生きたいという欲求が湧いていた。
もがき、ほふり、
清らかな聖衣は泥まみれになり、スキーナに向かって這っていく。
魔法使いの男は、ただ興味深げに眺めていた。
「お前の力が欲しい!助けてくれ!」
「何をするつもり?」
スキーナは不機嫌だった。
嫌な奴が負けそうになって、助けを求めてくるようで、胸くそが悪かった。
「契約を結ぼう」
老牧師の声は低く、ストレートだ。
「こうすれば、俺たちにも、まだ望みがあるかもしれない」
「鬼神に魂でも奪われたのね。そんな迷妄を抱くなんて」
自分が正気であろうと、こんなジジイと契約なんて結ぶはずがない。
数日前、聖光を浴びさせたのは、こいつだったのだから。
「俺が狂っていると思うな。
明らかに、奴らの狙いはお前だ。
そのままにしておけば、お前の末路は俺より悪くなる!」
怒ることもなく、焦りながら小声で説明する。
その言葉は、釘のようにスキーナの耳に刺さった。
老牧師だっていい人じゃない。
だが教廷に渡るより、他の誰かに渡る方が、よほど最悪だ。
二害を比べれば、こちらを選ぶしかない。
「いいわ!」
まるで、その言葉を待っていたかのように、
老牧師は迷わず、剣を持って左腕を一刀に斬った。
たちまち、血粒が飛び散る。
あまりの出来事に魔法使いは目を見張った。
この老牧師がまだ頑張っているとは思わず、再び詠唱を始めた。
老牧師もまた詠唱していた。
「此処にて、神の証の下、契約を結ぶ」
枷のような力が流れ込んでくる。
スキーナが承諾したことで、二人の力は結びついた。
たちまち、光が一気に噴出した。
穏やかな聖輝ではなく、鋭く純粋な剣の光。
夜そのものを二つに切り裂くように。
老牧師の気息は、みるみる上昇する。
背筋は伸び、気迫に満ちていた。
これが聖剣の力か。
魔法使いは、にやりと口元を歪めた。
この依頼は放棄する。聖剣は、自分のものにする。
足元に陣が広がり、ルーンが蛇のように這い回る。
それは、高位の術式だった。
こんな老いぼれの爺さんに、この一撃を生き延びられるとは思っていなかった。
だが、老牧師はそんな時間を与えなかった。
「魔法使いは、いつも力には準備が必要だと思っている。
だが、真の必殺技は――」
「人を待たない」
剣が闇夜に低く唸り、柄から剣先まで、白い炎が燃え上がった。
「なんだ?」
熱気が全身に駆け巡り、スキーナは驚いていた。
自分に、新しいスキルが増えていた。
【聖焔】
「もしかして、契約者が俺を媒介にスキルを使えば、
俺もそのスキルが手に入るの?」
これは、とんでもなく、すごく嬉しい知らせだった。
ドオン――!
聖焔は剣脊に収束し、炎は剣身に沿って燃え、
一切漏れることなく、白い鋼に圧縮された。
空気は切り裂かれ、甲高い音を立てた。
「斬れ」
無駄な動作はない。
ただ、一本の切れ味のいい上げ斬り。
剣光が通り過ぎる刹那、陣は崩れ、
ルーンは裂かれた紙のように舞い散った。
傲慢な笑顔のまま、表情を変える間もなく、
男の体は二つに断たれた。
血が、顔一面に飛び散った。
聖焔の余波は、まだ剣脊を流れていた。
この一撃を使い果たし、老牧師の体内の魔力は枯渇していた。
心臓がドキドキと、老いた体に無理をさせて血を送り出す。
「はは…… はははは――」
しわだらけの顔に血が滴り、猟奇的に見えた。
俺は、新たな勇者になる。
契約は一度結べば、俺が死ぬまで解約できない。
ほぼ不可逆なのだ。
教廷?
この俺に、遠慮があるだろう。
この瞬間――
「ふふ」
澄んだ、少し軽やかな笑い声だった。
そして、柄から手が離れた。
老牧師の瞳は、一気に収縮した。
精神で繋がったはずの聖剣が、この瞬間、掌握から離れていた。
剣身は、軽やかで気まぐれな力に引かれ、
彼の上げ斬りの勢いを利用して、宙に舞い上がった。
空中で、光が歪む。
スキーナの姿が、剣の中から現れた。
スカートが悪戯な夜風になびき、白い輝きを見せる。
だが動作に、迷いは一切ない。
彼女は回転する勢いを利用し、全身の力を一点に込め――
ガシャン!
一回転蹴りが、剣脊に的確に決まる。
鋭い金属音が響き渡った。
剣は、投げられた流星のように、
軌道を外れ、残る聖焔と落下の勢いをまとって、
真下へと飛んでいった。
「な――」
老牧師には、一文字も発する暇がなかった。
次の瞬間、剣先が、胸を貫いた。
血霧が夜雨の中で咲き、まるで野生の噴水のように。
世界が、一瞬だけスローになる。
スキーナは空中で最後の回転を終え、軽やかに着地した。
不意についた血粒が頬を伝い落ち、
彼女に、妖艶な艶を添えていた。
「ジジイ。【零縛界】で契約が解除できるなんて、
わたしも思わなかったわ!」
「な、なぜ……」
少女の鮮やかな顔が、視界の中でだんだん暗くなり、
やがて、瞳は輝きを失った。
スキーナは乱れた白い髪を整え、勝者の笑みを唇に浮かべた。
「忘れてたわ。その技…… わたし、習得しちゃったの」
彼女は、不服に満ちた彼の瞳を、そっと閉じてやった。
「悪い奴だけど、送ってあげる。
聖名を火に、罪を薪にして――」
少女は手を振るう。
白い細い手から聖火が灯り、冷ややかに老牧師の遺体を眺めた。
焼かれ、黒い灰だけが残るまで。
彼女は、自由になった。
もう、誰にも聖剣だとは知られない。
血が瞼から目に滴り、彼女はやっと、自分が血まみれだと気づいた。
「ちぇ、わたし、キレイ好きなのに!」
スキーナは嫌そうに鼻を曲げた。
仕方がない、自分でなんとかするしかない。
馬車の残骸の横の板を蹴り飛ばし、
しばらく探し回り、指先が、防水布に包まれた衣類に引っ掛かった。
広げると、牧師のローブが、まだ比較的形を保っていた。
端に少し埃がついているだけだ。
セリアのものに違いない。
指腹を当てれば、何度も洗い、丁寧にアイロンをかけた、
柔らかな感触が残っている。
ほのかな香りが、生地から広がる。
香料ではなく、少女が教会で長く祈り続けた、
ロウソクの香りと体臭が混ざった、特別なにおい。
まるで、太陽がステンドグラスを通り抜けて石に落ち、
草木が夜明けを迎えるような、清らかなにおい。
思わず頬を擦り付けたい衝動を抑え、
彼女は手早く、血まみれの衣を脱ぎ捨てた。
「ひゅっ、寒い……」
冷たい風が吹き抜け、
スキーナはぶるりと震えながら牧師ローブを羽織り、
襟元と袖口を整え、ベルトを締めた。
セリアの体格は、自分と同じく均り整っているらしい。
こんなにぴったり合うはずがない。




