表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖剣になってしまった少女は、勇者になれますか?  作者: 風間 蒼月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/43

私の動物の相棒

 どう見てもこの黒熊は、老神父にひどく痛めつけられていた。

 雨の中で体温は少しずつ奪われていき、このままなら流血死してしまうのは時間の問題だ。


「吼 ——」


 スキーナは驚いて一歩下がり、靴の踵は泥に沈み、冷たい感触に体がピクリと震えた。


 理性は彼女に告げていた。

 今すぐ振り返って逃げるのが、唯一正しい選択だと。


 彼女はただの少女だ。

 こんな状況で勇者気取りになるべきじゃない。

 それに追っ手もいる。今の彼女にとって、時間は何よりも貴重なのだ。


 だが振り返ろうとしたその瞬間、彼女は足を止めた。


 その緑色の瞳には、捕食者の貪欲さなどなく。

 痛み、警戒、そして絶望的な状況に追い詰められた諦めだけが宿っていた。


 熊は、もう自分の行く末を分かっているようだった。


「…… ち」


 スキーナは心の中で自分を叱った。


 認めるしかない。

 彼女は心が弱っていた。

 なぜこんな時に心が揺れるのか分からない。

 あまりにも痛々しい傷のせいかもしれないし、間接的に自分が瀕死にしてしまったせいかもしれない。


 結局、スキーナはここを離れた。


 雨音がすべてをかき消していた。


 再び姿を現した時、黒熊は明らかに一瞬硬直し、低い唸り声は一気に慌ただしくなり、体を少し前のめりにした。

 まさに今にも飛びかかろうという体勢だ。


「動かないで……」

 スキーナは声を出した。

 とても柔らかく、母性のような優しさが滲んでいた。


 人語の分からない獣にこんなことを言うなんて、自分でも馬鹿げていると思った。

 それでも彼女は両手を上げ、わざと動作をゆっくりにして、無害だと示した。


 黒熊は襲ってこない。

 ただじっと彼女を睨んでいた。


 黒と赤が入り混じる傷を見て、スキーナは見つけてきた止血草を口に入れ、奥歯で噛み潰した。

 草が砕かれた瞬間、苦みが口の中に広がり、目がしみてくる。


「ん…… っ」


 そして噛み潰してペースト状になった薬草を手のひらに吐き出した。


 スキーナはしゃがみ、指をわずかに震わせながら、慎重に肉が捲れた傷に塗りつけた。


 黒熊は一瞬硬直し、低く唸った。


「我慢して……」

 彼女は言った。

「じゃないと、死んじゃうよ」


 この世界の薬草は、薬効が強いらしい。

 血のにじみ出るスピードが目に見えて遅くなった。


 手のひらが血でべたつくのも気にせず、スキーナはもう一層塗り重ねた。

 せっかく噛んだのだ、無駄にはできない。


 この瞬間だけ、時間がゆっくりと引き伸ばされた。


 雨音、呼吸音、心音が、異常にはっきりと聞こえる。


 ついに黒熊の緊張した体が緩み、重く疲れた喘ぎ声を漏らした。


 もうスキーナを警戒することはなく、ただそこにうずくまり、小さな人間が傷の手当てをするのを許した。


 木の下だってよかった。

 でなければ薬が雨で流されてしまう。


 すべてが終わった時、彼女は自分がどれだけ突拍子もないことをしたのか気づいた。


 顔を上げると、スキーナは疲れた緑の瞳と目が合った。


「…… もう大丈夫だよ」

 彼女は手を伸ばし、その体を軽くたたいた。


 雨はまだ降っていた。

 だが最初のような、追い詰めるような勢いはなく、疲れ果てた後の余韻のようになっていた。


 とっくに体力は底をついていた。

 一晩中神経を張り詰めていた反動が、一気に押し寄せてきた。


 彼女は熊の側に寄りかかり、ほんの少しだけ目を閉じたかった。


 黒熊は低く鼻を鳴らし、まるで不器用な優しさを込めて。

 巨大な前掌をゆっくりと上げ、彼女をすっぽりと包み込んだ。


 それは熊にとって、限りなく優しい動作だった。


 濡れた柔らかい黒い毛皮、厚い脂肪。

 まるでふっくらとした枕のようだ。

 そして暖かい熊の掌が、夜の雨の冷たさを遮ってくれる。


 熊の体温が肌に伝わってくる。

 スキーナは呼吸が次第に落ち着き、疲労と安心感に包まれ、そのまま眠りに落ちた。


 朝の光が、洗い清められた葉々から漏れてさす。

 湿った空気には土と草のにおいが混ざり、遠くから小鳥のさえずりが細くて澄んだ声で聞こえてくる。


 スキーナは、かすかな突かれるような感触で目を覚ました。


 ぼんやりと眉をひそめ、寝返りを打とうとしたが、何かに邪魔されて動けない。

 次の瞬間、温かくてザラザラしたものが頬にすり寄ってきた。


 彼女は勢いよく目を開けた。


 目に飛び込んできたのは、すぐそばにある黒熊の頭。

 濡れた鼻先がそっと彼女を押している。


「…… 朝になった?」


 スキーナは二秒ほど呆気にとられ、やっと現実を理解した。

 熊にもたれて一晩中眠っていたなんて。


 彼女は背伸びをした。

 体は予想していたほど硬くならず、意外にもスッキリしていた。


 黒熊は彼女が動くのを見て、再び低く鼻を鳴らした。

 まるで返事をするように。


 そして舌を出し、遠慮なく彼女の顔をペロペロと舐めた。


「きゃ――!」


 スキーナはびっくりして体を後ろに引け、顔がくすぐってたまらない。

 彼女は逃げながら笑い、声は寝起きのかすれたままだ。


「や、やめて! いい子だから、やめて!」


 黒熊は首をかしげた。

 抗議の意味がよく分からない様子だ。

 だが舌は引っ込め、頭でそっと彼女にすり寄ってきた。

 もう敵ではないことは明らかだった。


 スキーナは手で顔を拭う。

 びしょ濡れだ。

 だが気分は不思議と晴れやかだった。


 彼女はこの大きな熊を見上げた。

 立ち上がった自分の二倍以上はある。

 漆黒の毛皮は濡れても艶やかだ。


 この熊が友達になってくれたなら、俺にもだいぶ力がついたも同然だ。


「くまちゃん」

 この熊はこの世界の力で、かなり知能が高いらしい。

 彼女は手を伸ばし、うつむいた頭をなでた。

「これからは、君の名前を熊大くまだって言うね!」


「あ、あちゃ――! 手のひら舐めないで」


 すると黒熊は低く鼻を鳴らし、ゆっくりと体を伏せ、頭で自分の背中の方をつついた。

 意味は明白だ。


 スキーナは一瞬、きょとんとした。


「…… 乗っていいの?」


 彼女はためらいながら、広くて厚い黒い背中を見つめ、熊の確かな瞳を見た。

 短いためらいの後、彼女は熊の肩に手をかけ、慎重に乗り上がった。


 思ったより、ずっと安定していた。


 熊の背中はゆったりと起伏し、筋肉が毛皮の下でゆっくりと動く。

 一歩一歩、しっかりと大地を踏みしめている。

 スキーナは無意識に首の毛を握り、体が歩調に合わせてゆったり揺れた。


「嬉しい!」


 この瞬間、臆病も、慎重さも、全部捨て去った。

 森の覇者の背中に乗る時、そんなものは必要ない。

 スキーナは笑い、白い髪が陽の光を浴びてきらきらと輝いた。


 人間は生まれながらに、乗り物が好きで火を好む生き物らしい。

 熊の背中の揺れるリズムが、ずっと昔の記憶を呼び起こした。


 あの時も、誰かに担ぎ上げられて、視界が一気に高くなり。

 風が頬をなで、世界のどんなものも彼女を傷つけられないように思えた。


 そう思った瞬間、また悲しくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ