聖剣は、私の手の中にある
ここは完全に混乱状態だ。
少女にとっては願ったり叶ったりの展開だ。
いわゆる鷸蚌相争、漁夫の利。
今より好都合な逃げ道なんてあるだろうか。
スキーナは人間の姿に戻った。
冷たい湿気がすぐさま肌に張りつき、寒気がふくらはぎから背中まで一気に駆け上がる。
彼女は身震いし、背中を丸めてできるだけ気づかれないように距離をとり、遠くまで行ったところでスカートをたくし上げて全速力で走り出した。
背後には熊の咆哮と人間の悲鳴が響く。
「そこだ!」
老けた声だが異常に鮮明に、雨幕を突き抜けてくる。
クソッタレ、また見つかった。
振り返る余裕などない。少女は森の低い茂みにすり寄るように進んだ。
もっとスピードを上げなければ。
黒熊は大きいが、長くは時間を稼いでくれない。
案の定。
スキーナがそう思った瞬間、目の前が白い光に照らし出され、雷が落ちたような轟音が鳴り響く。
熊の咆哮は一気に高まり、次の瞬間、ぴたりと途切れた。
その後に残されたのは、雨音がぽつりぽつりと響く世界だけだ。
神父のしわだらけの顔を汗か雨が伝い落ち、たいへんみっともない姿だった。
「ふぅ…… 残りの者はついてこい。
絶対に森から逃がすな」
グレイは振り返り、やや疲れた様子だ。
明らかに神術の使用が体にこたえている。
言葉を聞いた村人たちはためらった。
雨の夜、森、暴れた黒熊、そして果てしなく続く追跡。
これらすべてが彼らの本能を後退させる。
「牧、神父様、これはあまりに危険です」
「そうだ。俺たちはただの人間だ。冒険者じゃない」
「これ以上追って、また獣に出くわしたらどうするんだ」
この瞬間、空気が張りつめた。
老神父は眉をひそめた。
彼らの不安は分かっている。
だがそれ以上に、ある事実が分かっていた。
聖剣をイサー町の管轄外に逃がしてしまったら、自分にはもう利益は残されない。
ただ上の教廷に状況を報告するだけだ。
彼は深く息を吸い込み、声を一気に引き上げ、雨音にかき消されないように叫んだ。
「聞け」
「あの娘を捕まえさえすれば、教会はお前たちの今後三年分の什一税を免除する」
この言葉が出た瞬間、人々の間に波紋が広がった。
「三、三年?」
「本当なのか……」
老神父は止まらず、口調をさらに落ち着かせつつも、鋭さを秘めて続けた。
「それだけではない。
追跡に参加した者には、事後に一人ひとり補償を支払う」
「もし負傷者が出れば、教会が治療を負う」
「万が一、命を落とすことがあれば……」
彼は一瞬言葉を切り、声を低く沈めた。
「弔い金は倍にする」
こんどは即座に反論する者はいなくなった。
雨が頬を伝い落ちる。
唇を舐める者、無意識に武器を握りしめる者。
恐怖は残っている。
だがその上を、もっと現実的な感情が這い上がってくる。
—— 利益。
短い沈黙のあと、一人が低く悪態をつきながらも、足を踏み出した。
「…… 行こう。逃げられる前に」
老神父はもう何も言わず、真っ先に森の中へ追いかけた。
彼には分かっていた。
今ここで約束する小さな利益など、聖剣の前では塵に等しいと。
もし大陸でも稀有な聖剣を、自らの手で教廷に献上できれば……
得られる資源はもっと膨大になり、昇進も夢ではない。
もうこんな辺境の町で人生を無駄にする必要はなくなるのだ。
残念なことに雨足は一向に弱まる気配を見せず、猟犬の嗅覚による手がかりもどんどん薄れていく。
冷たい雨が顔に叩きつけられ、目を開けているのもやっとだ。
吸い込む空気はすべて湿った土と腐葉のにおいだ。
スキーナの体力はついに限界に達した。
胸は激しく上下し、喉は火で炙られたように痛む。
息を吸うたびに細かい刺すような痛みが走る。
頑張れ。勇者のことを思え。
本気で男にいつも握られたいのか?
スキーナはたむろに自分を励ます。
だがあまりに疲れた。
聖剣になったはずなのに、やっぱり空腹も疲労もするらしい。
少し休もう。
ふらつきながら足を止め、少女はぬめる木の幹につかまってなんとか立ち止まった。
指先は白くなっている。
「クソタヌキ、クソ教会……」
彼女はつぶやき、怒りを発散し、意識を保とうとした。
なんでこの世界は、何の武器もない女の子を苦しめるんだ。
少女は心の中で神の不公平を嘆く。
その時、窮地が彼女を奮い立たせたのか、あるいは自然に動いたのか。
彼女の手に、剣が現れた。
まさに自分自身の姿だ。
「は、はは……!」
彼女は剣で体を支えようとしたが、足元からは土のぬかるみが伝わってくる。
「俺と剣は感覚が共有されてるの?」
最終的には手で木につかまって進むことにした。
雨に洗われて一層鋭く輝く、真っ白な剣を眺める。
幸い痛覚はあまり伝わってこない。
でなければ戦いなど到底無理だ。
「俺には名前がある。お前にもきっと……」
スキーナはしばらく考え込んだ。
「霜月。シモアメ。どうだ?」
言葉が終わると同時に、柄に近い部分に二文字浮かんだ。
霜月。
「よし、よし」
武器さえあれば、反撃するチャンスは必ずある。
彼女は柄を強く握りしめ、指の節が白く浮き出た。
追っ手、猟犬、老神父、そして愚かさに目を曇らされた村人たち。
奴らはきっと、俺が「逃げた方向」を追っている。
当然だし、筋も通っている。
だが、もし俺が引き返したら?
彼女の目が一瞬で輝いた。
十二歳の少女が、こんな状況で逆に戻るなんて、誰も想像しないはずだ。
この考えは細い針のように、彼女の脳内に渦巻く恐怖を突き破った。
ゆっくりと振り返り、さっき踏みならしたぬかるんだ足跡を辿り、一歩一歩、逆方向に進み出す。
自分自身の足跡に足を踏み入れ、新しい痕跡はほとんど残らない。
雨がすぐに跡を消していく。土は柔らかく、一歩ごとに自然に飲み込まれていく。
スキーナは呼吸を落ち着け、体を低くし、茂みや岩肌に張り付くように進み、自分の輪郭を闇に溶け込ませようとした。
「落ち着け…… 落ち着け……」
心の中で何度も繰り返す。
まるで存在しない祝福を自分にかけているように。
前かがみになり、雨に濡れて光沢を放つ白い腕で木々をかき分ける。
その時、足が一瞬止まった。
彼女はすぐに両手で口を塞いだ。
…… なんだ、この黒熊!?
熊はすぐそばの森の空き地にうずくまっていた。
雨の中、巨体はいっそう重々しく見える。
びしょ濡れの毛が筋肉に張りつき、呼吸のたびに低く苦しそうな喘ぎ声が漏れる。
先ほどの領土を威嚇するような咆哮はもうなく、喉の奥から途切れ途切れに唸り声が漏れるだけ。
何かを我慢しているようだ。
スキーナの心臓が一瞬にして締めつけられた。
彼女はすぐに理由を見て取った。
黒熊の前足に、碗ほどの傷が開いている。
肉が捲れ上がり、雨と血が絶えず流れ落ちている。
この強い血のにおいは、森の捕食者たちを呼び寄せる。
あのクソ猟犬だって。
雨の日にどれだけ確率があるか分からない。
だが彼女は賭けられない。
バカ、俺って本当にバカだ。
なんでこんな場所に来ちゃったんだ?
スキーナは顔をしかめ、熊と目を合わせたまま考えた。
黒熊も負けじと、緑色の瞳でスキーナをじっとにらみつける。
喉からは警告の唸り声が漏れる。
体はもう一歩も前に出る力がなく、残された威圧感で彼女を追い返そうとしているだけだった。




