狼群の服従
心の中ではそう思っていたが、スキーナは口には出さなかった。
次の機会もあるかもしれないから、表面を取り繕っておくに越したことはない。
彼女の取り繕いは上手とは言えず、
老獪な狼の親分には、すぐに見抜かれていた。
親分はふうっとため息をつき、かすかな寂しさをのぞかせた。
スキーナはそんなことに気づきもせず、一刻も早くここを離れたかった。
もし通りがかりの冒険者に見つけでもしたら、
間違いなく町から追放されてしまう。
その瞬間、森の中からざわめきが聞こえてきた。
森の静寂が、みるみる崩れていく。
どういうこと?
スキーナは、様子を見に行こうとするセリアを引き止めた。
人の声が聞こえる気がした。
こういう時は、無関心を決め込むのが一番だ。
突然、甲高い悲鳴が響いた。
スキーナの足が止まり、目の色が変わった。
ベルの声だ。
迷う余地などない。
彼女は即座に、悲鳴のした方向に駆け出した。
セリアも慌てて後を追った。
茂みをいくつか抜けると、
目の前の光景にセリアは思わず口を覆った。
ベルと、その妹が、十数匹の狼に囲まれていた。
体には傷がいくつもついている。
狼たちの目は凶暴で、牙をむき、
二人に襲いかかろうと吠え続けている。
もう少しで防御が崩れ、襲われてしまうところだった。
「やめなさい!」
スキーナたちの姿は、まるで光のように見えた。
絶望に陥っていたベルの瞳に、涙があふれた。
「スキーナ様!セリア様!助けに来てくださったんですね!」
兄の感激とは対照的に、
隣にいた妹は、冷ややかに二人を一瞥した。
「ふん、そこに立って一声かけるだけで、助けた気になっているの?
見せかけだけだわ」
彼女は、口だけの人間が大嫌いだ。
兄がなぜ、あんなに二人に従順なのか分からなかった。
ただ、不思議だった。
なぜ、狼たちは彼女たちに襲いかからないのだろう。
「下がりなさい。聞こえないの?」
スキーナは剣を抜き、すぐそばの大木を一刀両断した。
圧倒的な勢いで、狼の親分をにらみつけた。
親分はびくりと怖がり、しっぽを振り、耳を伏せた。
この前、この人間に大金を渡して、貯金はすっからかん。
これからは、人間から「施し」を受けに行くしかない。
なのに、この「善人」が、邪魔をしようというのか。
だが、スキーナの顔色を滅多るわけにもいかない。
「うぉーん」
親分は一声、吠えた。
ベルたちを囲んでいた狼たちの動きが一瞬止まり、
一斉にスキーナの方を振り返った。
血走った目で、ためらいながら地面を嗅ぎ、
また親分を見る。
この人間の少女は、なんと我らの親分に命令できるのか。
だが親分の命令は絶対だ。
やがて狼たちは牙を収め、
もう少しで手に入る獲物を諦め、ゆっくりと引き上がっていった。
先ほどまでの緊迫した空気が、一瞬にして消え失せた。
セリアも、この隙に治療に取りかかった。
狼たちが去り、ベルたちはほっとして力を抜き、
手にしていた武器が「ガシャン」と音を立てて落ちた。
生き延びた安堵が、胸に込み上げてくる。
危機は去ったが、今やベルの心は激しく揺れていた。
教廷の高位神官である彼女が、
ただ一声で狼たちを引き下がらせる。
まるで勇士のようだ。
その力は、想像をはるかに超えていた。
白髪の少女・スキーナがゆっくり近づいてくる。
先ほどの恐怖も、苦戦も忘れ、
極限の感激と崇拝だけが残った。
この不思議な神官とつながりを持てたことは、
一生で一番の幸運だった。
だが、これだけでは足りない。
多忙なスキーナ様にとって、
自分はすぐに通りすがりの存在になってしまうかもしれない。
自分は、スキーナ様にとって、なくてはならない存在になる。
ベルの瞳に決意が宿った。
スキーナが目の前に来る直前、彼はひざまづいた。
幸いスキーナは、気配に気づいてすぐに支えた。
彼女は驚いた目をして、
彼が何をしようとしているのか、さっぱり分からなかった。
一方ベルは、ひざまづいたことでスキーナがいっそう大きく見え、
まるで、すべてを守ってくれる存在のように感じた。
彼は幼くして両親を亡くし、
守られる温もりなど、一度も味わったことがなかった。
スキーナの姿を見て、無意識に母の面影を重ねていた。
「牧師様!あなたは、本当にすごい方です!
どうか、僕を息子にしてください!
あなたを母上と仰ぎたい!
これからはずっとついていきます!
命をかけて、なんでもします!」
スキーナ:「……」
セリアは髪の毛を巻きながら、
笑っていいのかどうか、分からずにいた。
「兄さん、何を言っているの?
狂ってしまったの?」
「もう一度、言ってみなさい」
スキーナの顔はほとんど黒くなり、困り果てた声で言った。
いったい、どういう神経をしているのだ。
異世界の風習がおかしいのか。
生まれて二回、こんなに年上の男に、
泣きついて母親になれと言われたのは初めてだ。
ありえない話だ。
彼女は、どう対応すればいいのか分からなかった。
セリアも横に立って、どうしようもなく、
当初のベルさんのイメージが、くつくつと崩れていた。
「スキーナさん…… ベルさん、きっと、興奮しすぎて……」
その言葉が、スキーナにヒントを与えた。
前世の知識だ。
吊り橋効果という心理現象がある。
たぶん、彼はそういう状態なのだ。
「余計なことは言わないで。
そんな年上の息子、いらないわ」
「神官様、僕は、心から敬愛しています……」
「じっとしていて」
セリアの光術は治癒が速い。
今度は妹の治療に移る。
ティナは唇をかみ、
セリアの指先に宿る光を見て、
一瞬だけ瞳が柔らかくなり、小さく言った。
「…… すみません、お手数を」
輝く目で見つめるベルを横目に、
スキーナはため息を飲み込み、
ずっと黙っていたティナの方に視線を向けた。
「お名前は、何というの?」
スキーナは前から気になっていた。
こんなに可愛い娘の名前を知らないなんて、もったいない。
「ティナ」
女性は相変わらず冷たかった。
だが、それが、逆にスキーナの征服欲をそそった。
「剣の腕、お見事だったわ。
師事は、どこについているの?」
「…… 王都の剣聖、ジョン」
この二文字を聞いた瞬間、スキーナの眉が少し上がった。
頭の中ですぐに記憶をたぐり寄せ、
次の瞬間、はっと気づいた。
まさか、父さんが探すように言っていた師範、ジョン……!
「その方は、今、どこにいるの?」
スキーナの声には興奮が隠せず、
思わず両手でティナの肩を支えた。
「ちっ……!」
傷が引っ張られ、ティナは痛みに息を呑んだ。
「モレル王都で、剣術道場を開いている」
聞いただけで遠い。
しかも王都だ。
身分も相当高いだろう。
だが疑問だ。
父さんは、どうやってそんな場所に行ったのか。
「じゃあ、私たちはこれで失礼するわ。
お大事に。
もし、またあの狼たちに会ったら、私の名前を出してみなさい。
スキーナ、と。
…… 効くかどうかは、保証しないけど」
どんな方法で追い払ったのか知らないが、
次に会った時、同じようにいくとは限らない。
ティナはスキーナを冷ややかに一瞥し、
兄のベルを支え、町に引き返そうとした。
最近は、魔物の狩猟期に当たるらしい。
さもなくば、町から出たばかりで、こんなにたくさんの狼に出会うはずがない。




